人を幸せにする人になろう

めでたい!吉川の本成る!

◆昨日(06月21日)、岸和田高校の埴輪の実測から戻ると、吉川弘文館の史跡で読む日本の歴史が送られてきてい5b27b35e.JPGた。まあ、めでたい。帰宅し、ファミマでチューハイを2缶買って、カミさんと乾杯した。
【追記】口絵カラーには絶対陵墓を出すまいと考えた。史跡じゃないですからね。ほんとうは、本文中でも、記述はせざるをえないが、写真とかは使うまいと思っていた。が、概説のところはやっぱり使わざるをえなかった。ほんとはそこに限定したかったが、そこで使うはずの箸墓の写真(五条野丸山も)が、プロのカメラマンの写真で商業出版では使用料を取られるので、「あの写真は使えません」と言われ、偏ってるな~と思いつつ、ほかの写真を探す時間的余裕なく任せるほかなかった。それならそれでよかったのだが、概説のあとの扉に、こっちに相談のない箸墓の写真が使われてしまった。こっちとしては概説部分には陵墓の写真を使うが、ほかでは使わない、と仕切りたかったが、それが崩れたので残念である。

摩湯山体制へ

◆少しづつ摩湯山の体制を整えていかなければならない。昨日は、岸和田高校に電話して埴輪の実測の約束をし、また岸和田市教育委員会に電話して、古い写真を見せてもらう話を詰めた。動き始めないといけないが、数週間、手をこまねいている感がある。ひとまず1年前の構成案を示しておく。角南君がまだ和泉市にいて、彼にいろいろ書いてもらうのが現実的だし、勉強にもなると思い、こっちは玉1で動けないが、進めてほしいと。だがまあ、進まん。和泉黄金塚をやっつけようと昨年少し動いたが、これも実現しなかった。菩提池西の埴輪もしかりだ。以下、2010年6月末時点の構想案を示すが、これから変わっていくだろう。いちいち直していられないので、関心ある方は、以下の摩湯山のブログをご覧ください。
my03.blog.shinobi.jp/

『摩湯山古墳の研究』
〈大阪市立大学考古学研究報告〉第5冊 (090501案,100629改訂)
【編集】 岸本+角南

第1章 序 論

(1)調査研究の目的〔岸本〕
(2)位置と環境〔山岡〕
(3)過去の調査〔白井〕
(4)測量調査の概要〔岸本〕

第2章 測量調査の成果
(1)周辺地形と占地〔山岡〕
(2)摩湯山古墳の墳丘〔岸本・関本〕 ※適宜、説明箇所で区切る
(3)馬子塚古墳〔角南〕 ※岸和田市教委の調査成果にもふれる
(4)墳丘の復元〔岸本〕

第3章 出土遺物
(1)埴輪〔所〕
(2)馬子塚古墳の遺物 埴輪〔所〕、鏡〔下垣〕、管玉〔戸根〕
第4章 和泉の前期古墳
(1)和泉の前期古墳〔角南〕
乳の岡、丸笠山、久米田古墳群、地蔵堂丸山、(二本木山)
(2)和泉黄金塚古墳
(3)菩提池西古墳
第5章 佐紀西群の検討〔統括:下垣
(1)佐紀遺跡と佐保川流域の古墳時代前期の 遺跡〔〕
(2)佐紀陵山古墳
(3)宝来山古墳
(4)佐紀石塚山古墳
(5)五社神古墳
(6)マエ塚・猫塚・丸山・瓢箪山・塩塚
※石製品〔光平〕・埴輪〔若杉〕
第5章 佐紀古墳群の時代
(1)佐紀陵山型と五社神型の前方後円墳〔岸 本〕
(2)前期後半の墳丘の発達〔藤原〕
(3)造出の出現とその意義〔角南〕
(4)前期後葉の器財埴輪編年〔所〕
(5)鰭付円筒埴輪と摩湯山古墳の年代〔廣瀬〕
※石棺論、武器、短甲、石製品も欲しいが・・・
第6章 激動の4世紀と和泉〔岸本〕

東大寺山の報告書

◆玉1を送ったからか、東大寺山古墳の報告書が送られてきた(なんか例言のところにオレの名前が入っている。なんにもしてないんだけど・・・)。作っているのは聞いていた。金関先生は、これで胸をなでおろしておられるだろう。発掘から半世紀だそうである。よかったですね。
◆ざっと見た。あんな埴輪なんですね。まあ、埋葬施設と副葬品が眼目だから、墳丘の取り扱いは、紫金山と同様、あんなもんだろう。
◆たくさんの出土品があり、容易にコトは進まない未報告資料、科研をとるなどの機会を作らなければその気にならない、始動しないというのもわかる。外部資金を取ってこなけりゃ整理もできないし、報告書の刊行もできない。だけど、そういうスタイルを取っていない者としては、なんで~と思ってしまう。東大寺山の遺物を整理したいヤツはなんぼでもこの世には存在する。別に実測賃金なんて不要ですよ。報告書の印刷製本費も、うちは0で作っている。東大寺山だって、科研に縛られるのでなく、納得のいくものを作って、売ればいいではないか、元は取れるだろう。むろん、資金があることにこしたことはないが、金がなければ何もできないわけではない。
◆前に京大考古学研究会で『岩倉古窯跡群』を刊行した。あのときの印刷費は確か200万円を越えた。おれはうち50万円を出した。氏岡さんも同額出した。販売した売り上げもむろんあったが、出資した者で考古学業界にいない者やそういうところの返金にあてた。それまでいっぱい遺物を拾ってきた先輩諸氏は、報告書を出せよというだけで、何もしてくれなかった。あれは自分の原点かもしれないね。そうした先輩に対する反発、お前らのできなかったことをしてやる、と。だが、いま研究室に岩倉の本がない。どうしたんだろう、大学の図書館に寄贈してしまったかな。ほかの報告書もしかり。自分が買ったものやもらったものなども、手元に置いておきたいものをのぞいて、すべて大学に寄贈している。個人でもっててもしゃーないからね。公共に入れといたら、100年先でも、誰かが使うかも知れない。あんまり所有欲はない。
◆自分の所の報告書が出たので、強気の発言をしました。あんまり人様のことをとやかくいうべきでないですね。カミさん曰く、謙虚になれ、と。報告書が出たことは喜ばしく、関係者の努力もむろん認めている。ウソじゃないので、誤解はしないでください。思ったことを調子こいて発言したということでご容赦下さい。

カミさんの抗議

◆なんで興福寺の地鎮の壺から魚の骨が出たことがそんなニュースになり、イカロスの太陽風を受ける一辺14mの幕が見事に開いた画像が、そんなチッコイ記事なのか、と。
◆昨日の夜、ワールドカップを見ていて、そう帰ってきたらコートジボワール戦のハーフタイムで、その間のNHKニュースだった。近畿のニュースで取り上げられるのはいい、だが、その前の全国ニュースでも、記者発表のテレビ画像を流しながら報道されているのを見て、なんで、とオレも思っていた。まあ、考古のニュースが取り上げられるのは結構だが、なぜ魚かという理由もわからず、それが何かの思想的背景があって画期的だ、というのでもないのに、へんな話である。価値基準がおかしい。それと、なんでキトラをあんなにもキャンペーンを張って朝日が記事にするのか、偏っている、とも思っていた。だが、まあ、マスコミが適正なニュースバリューの判断ができると考える方が無駄なんだろう。平城遷都1300年なんだから、キトラキトラと言わないで、奈良時代のことをこの機会にもっともっと特集する方が時宜にかなっていると思うが。
◆白石先生から書いたものを送っていただき、そのなかに読売新聞に寄稿した、高松塚の原因究明報告書に対する意見表明の記事も同封されていた。担当者の責任感については同意するが、高松塚壁画を現地にもどすことにこだわっている点には違和感がある。それは委員会で、白石先生が現地に戻すことを追及することを前提に解体を認めたという経緯があるからだが。
◆キトラに戻ると、朝日の記事が、キトラについては壁画をはぎ取る英断を下したのは大成功だった、というキャンペーンのように思えてならない。そうかもしれない。だが、これがベストだったと決めつけない方がいいと思う。間違っていたというのではない、こういう状態である以上、あのようにして救うのがベターと判断した、と判断する側は説明し、そして最大の努力をしたと。だが、それでよかったかという謙虚さもまたもっておくべきではないのか、ということだ。高松塚は大失敗、キトラは大成功で賞賛、という図式に違和感がある。

成相墓

◆牧野のパンフ、急いで作って玉1と一緒に送ればよかったと気付く。ほぼ上がっており、こっちがこれでよしとなれば終わりなのだが、ここ2週間ほど寝かしていた。A3を二つに折ったもので画像中心だから、文章を書くスペースはあまりない。牧野の石室について、最終的見解を書き込むつもりはない(最終的には書いた)。だが、自分で納得したいので、ここ1週間ほど、塚口先生の本を読み、新納先生の論文を読んでいた。
◆で、だいたい結論が出た。新納さんの見解は苦しいと思う。論理的には筋が通っているように見える。だが、新納さんの年代観でいくと、藤の木が560年代で、石舞台が570年没の稲目墓、丸山が571年没の欽明墓となるが、その間に牧野も赤坂天王山も入る、そりゃ苦しい、ぎゅうぎゅう詰めでしょ、というのが結論。だからやっぱりおかしいと(その後、新納さんからメールが来た。藤木をもっと上げることを考えておられるようだ)。
◆河内大塚山が安閑未完陵であるように、伝統的な寿墓が簡単にはなくならないであろう。薄葬が浸透する中でどこかの段階で生前造墓がなくなるのだろうが、少なくとも推古朝以降ではないか。それまではまだ生前造墓が残っていると思う。結論は、牧野は彦人が用明朝の大兄であった585年から587年の時期に着工している、580年代中頃の石室とみていいんではないか。それと、赤坂が崇峻陵である蓋然性が高いが(崇峻が即日埋葬されたとの日本書紀の記述も生前造墓の根拠となる)、587年の即位後に着工して、580年代後半の石室と考えて、牧野-天王山の関係は整合する。むろん、新納さんの言うように被葬者論が先行しているとの批判はそのまま受けよう。そして、前から考えているように馬子の石舞台は600年前後に置いとけばいいだろう。そして厩戸の墓は岩屋山式で問題はない、文殊院西はクラハシマロで640年代、それでおおむね整理可能だ。
◆生前造墓であることの論拠はもっともっと詰めなければならないが、これによって新納さんのように、下げすぎとの見解は修正が可能である。丸山についてはなお課題が残り、これが最大の問題だが、さらに検討したい。それをひとまず横におけば、上記の年代観で問題ないと思うのだ。
◆須恵器のことは少しづつ勉強している。いまは新納さんに反論できないが、そのうち、須恵器も押さえた上で、整合的なものを出したい。だがしかし、須恵器って、まあなんというか、すっきりしてない。宇野隆夫的に大づかみで、わかりやすく提示されないと、なかなか素人には手が出せない世界だ。
◆ついでに、高市皇子の三立岡墓はなぜ候補すらないんだろうか。広陵町に地名として候補地があるが、馬見ニュータウンで発掘調査が行われたはずだが、なんでないんだろう、と思う。

ワールドカップ

◆けっこう見てます。きのうのコートジボワールとポルトガルもよかったし、今日のスペインとスイスもよかった。今日は、23時に家に帰ってきたあと、カミサンとみていた。カミさん曰く、うまいから面白い、と。野球よりワールドワイドだし、国別でギリシャはギリシャ人の顔つきなのが面白い、とも。
◆なので、原稿を書くのをさぼって、けっこう見てます。

カメルーンに勝ちましたね

◆今日は勝たなきゃならん試合、よく勝った。まあ、全体的にあんまり怖くはなかった。きっちりつながれて崩されて打たれることなく、守備は機能していた。ただし、攻める方は、やっぱり正確さという点は、一流国に比べるとダメなので、支配していたといえないところは問題である。それと、いつものように、終盤になると、後に引いてきて、時々、ボールをもった者をフリーにする場面が生まれ、ピンチとなり、ひやひやする。全体として、守備が機能し、あんまり怖くなかったとはいえ、ワンチャンスで同点だから怖いものだ。
◆前回も1-0で勝っていながら、3点を入れられて初戦敗北。ほとんど覚えちゃいないが、事前の特番でああそうだったと思い出した。で、中田が出てきて、もう1点入れて終わらせる試合だったが、守備陣は守りきる考えで、そこに意識の相違が生まれたと述懐していた。
◆第2戦は、負けてもしゃーない、引き分ければ勝ち、くらいの意識で、とにかく徹底して相手をつぶして封じることに徹すればいいのでは。

イスラエルをなんとかせい

◆イスラエルがガザ地区支援船を急襲し9人を殺した。謝るつもりはないと公言した。国連が制裁決議をしたんだっけか。だけど、アメリカは反対したか、退席したか・・・、知らん。
◆で、アメリカの名物記者が、「イスラエルはパレスチナから出て行け」と言い、失言として引退したという。どこが失言なのか。誰がこの記者を責めるのか。
◆まあ、広瀬隆を読んでいるものとしては、世界の金融を牛耳っているのがユダヤ系財閥だから、刃向かえない、ということなんだろうが。アメリカの腰抜けが。北朝鮮やイランやという前に、イスラエルを制裁すべきなんだが、これを放置しているのは、戦後、なんども見てきたとおり。だからパレスチナや西アジア諸国はアメリカを信用しないのだが。
◆どうなんでしょうね。オレなんかは、世界が一度金融破綻すればいいと思っている。株券や国債やそういうものがすべてが紙きれになり、みんな終戦後のように、食っていくことから再開すればいいのにと。そしてスイスの銀行を襲撃し、預けてある金槐から証券その他すべてを強奪し、世界の金持ちを破綻させる必要がある。
◆菅内閣の支持率が60%なんだって。民主党はこれで7月11日は乗り切れるかもしれない。あんまりニュースを見ていないが、カンさんはいろいろメッセージを送っているらしい。で、防衛省、防衛施設庁の予算、思いやり予算に手をつけることを切望する。冷戦後の防衛体制の見直しをブチ挙げれば、右翼をのぞけば、国民の多数は支持するだろう。恐れることはない。これには2つの意味がある。国内の保守派からの攻撃、アメリカからの脅し、これらを恐れることなくやってほしい。

玉1の歩み

Scan2.JPG◆玉1編集用にブログを開設し、記録をとってきたが、うまくいかんかった。更新もきちんScan20001.JPGとできてない。ブログはいま消去したが、作業の進捗の記録については、不完全でも記録として保存しておきたいので、ここに転写しておく。
◆まあ、専任教員が複数いて、大学院生がたくさんいる大企業に比べると、うちは院生1人、学部生数人の零細企業なので、こんなペースだ。本格化したのは10月くらいだから約1年半だ(3月末には本作りとしては決着していたので)。

2009年

◆09月24日 岡村印刷にフォントについて確認。埴輪図レイアウト直し、通し番号振り、文章の実測図番号を通し番号に変換。新たなマスターで第1章と第2章をやり直す。
◆09月18日 第1章、新マスターで置き換え。測量図、等高線の手直し。
◆09月17日 坂本鏡について泉屋に電話。埴輪・土器の図面の版組み(渋谷の石枕も)。岡村印刷にインデザイン送る。有馬君に渋谷向山のデータ送る。奥田初校作成・送付。
◆09月14日 埴輪の図面組み。インデザイン入稿と見積もりについて岡村印刷と相談。
◆09日07日 埴輪の図面組み(インクトレースしたものをスキャンし、イラストレーターで版組み)の仕上げにかかる。いちいちは記さないが、9月に入り、ほぼ玉1に集中し、作業を進めている。
◆09月02日 若杉君の埴輪事実記載原稿到着(遅い!)。下垣原稿2本インデザイン(校正依頼)。
◆08月31日 河内の遺跡分布図・玉手山古墳群分布図。青木・北山原稿調整(入稿前の校正依頼)。
◆08月30日 下垣君の原稿2本着。
◆08 月20日 柏原市測量図に周囲の街路を加える。近鉄地形図に大阪府調査区を記入。
◆08 月06日~19日 朝顔形埴輪の石膏入れ。
◆08 月03日 ?
◆08 月01日 埴輪の記述ラスト。
◆07月29日 埴輪の図面組続き。
◆07月22日 埴輪の図面組続き。
◆07月15日 近鉄+大阪府の図完了。埴輪のトレース図のスキャン。
◆07月11日 埴輪の事実記載ほぼ完了。
※この間、第1章から第2章、かなり手を入れる。
◆07月08日 摩湯山完了。近鉄地形図に大阪府玉1測量図をはめ込む。
◆07月07日 大阪府に借りた玉手廃寺・片山廃寺の焼き付け上がってくる。
◆06月29日 摩湯山測量図のトレース、ほぼ墳丘部は終了。
◆06月22日 近鉄不動産の地形図トレース完了。摩湯山測量図のトレースにかかる。
◆06月15日 大阪府の玉1測量図のトレース完了。近鉄不動産の地形図トレース。
◆06日08日 渋谷向山(トレンチ記入・縦横断面図作成)ほぼ完了。近鉄不動産の図トレース。
◆06月03日 近鉄不動産の地形図の合成・トレース開始。
◆05月25日 渋谷向山の測量図トレース(ほぼ全体図は完了)。玉手廃寺の原図合成。
◆05月20日 玉手廃寺の原図合成。
◆05月11日 渋谷向山の測量図のトレース。
◆05月08日 府調査事務所で玉手山関係の図面とネガをかり出す。玉1の測量原図が見つかる。また、近鉄不動産が開発前に作成したと思われる地形図の青焼きもあった。
◆04月27日 渋谷向山古墳の埴輪、トレース。完了。渋谷向山の測量図処理にかかる。
◆04月20日 渋谷向山古墳の埴輪、版組み、トレース。
◆04月18日 製塩土器の検討。
◆04月13日 1/500成果図、側面図を含めて完了。
◆04月06日 1/500成果図作成続き、柏原市調査区も東側面図と南側面図に投影するよう立面に入れ込む。
◆04月05日 3号墳埴輪洗いのあと、1号墳埴輪追加分実測。渋谷向山埴輪の反転。
◆04月01日 1/500成果図作成続き、平面に続き、側面図の作成にかかる。調査区立面を縦断・横断に投影。
◆03月30日 守田さんに借りた古い35㎜フィルムの焼き付け上がり。1~3号墳の写った宅地開発前の側面写真あり。
◆03月28日 考察原稿2編をインデザイン編集。13トレ埴輪の記述。
◆03月25日・26日 宮内庁書陵部で渋谷向山古墳の埴輪の資料調査(3)。
◆03月16日 1号墳の測量図に、発掘座標にしたがって各調査区を落とし込んだ1/500図を作成する。
◆03月15日 埴輪以外の弥生土器・土師器・須恵器・製塩土器・瓦などの整理を再開した。
◆03月11日 1号墳・2号墳の墳丘測量図の作成(2基合成1/1000,1号1/600,2号1/500)。これまでの挿図をすべてインデザインに組み込み、第1章~第3章までを更新する。
◆03月07日 埴輪の事実記載の原稿。
◆03月04日 渋谷向山古墳の埴輪製図完成(1頁大2枚)。
◆03月01日 世界測地系にもとづく基準点測量。
◆02月24日 渋谷向山古墳の埴輪製図着手〔所〕。
◆02月04日 13トレ関係挿図完成(1/50,中段1/25,下段1/10)。奥田尚氏の挿図作成。河内平野の地形図修正。
◆02月03日 北山峰生氏の石枕の考察原稿が届く。
◆01月28日 13トレ関係の挿図作成。
◆01月21日 13トレ関係挿図着手。
◆01月14日 河内平野の地形図。
◆01月12日 奥田尚氏の原稿届く。


2008年


◆年末、図版写真の焼き付けが完了する。
◆12月25日 大阪府教育委員会埋文事務所で、玉手山関係の図と写真を閲覧する。
◆12月15日 13トレの原稿とイラストレーターのデータ届く。青木君の白色円礫の考察原稿が届く。
進捗状況をメールで配信。
※この間、作業を進めてきましたが、ブログを更新していませんでした。すいません。
◆10月24日 墳丘復元案を作成する。
◆10月23日 過去の調査、柏原市分の原稿をまとまって書く。
◆10月22日 第14トレンチ・第15トレンチの調査区挿図(1/50)。第10トレンチのデジタルトレース、座標・標高等の仕様を定める。
◆10月17日 図版割り付け完了(遺物写真をのぞいて)。カラー4プレート、モノクロ33プレート。
◆10月16日 図版キャプション入力・図版目次作成。
◆10月15日 調査区挿図(1/50)をデジタルトレースすることとし、本日から作業開始。第10トレンチから。
図版掲載の発掘写真焼き付けの準備。
◆10月08日 写真図版のレイアウトをインデザイン上で進める。墳丘写真、後円部調査箇所まで完了。
◆10月07日 『玉手山1号墳の研究』ファイルを作成。 現在までに集まっている(途中のものを含む)原稿の整理。
◆08月10日 世界測地系でのGPSによる基準点を業者により設置する。
◆06月06日 渋谷向山の過去の調査について、原稿をまとめることが了解される。
◆06月06日 大阪府教育委員会に府教委調査時の記録類の探索を依頼。

オオヤマトの見学会

◆前から企画していた、うちの考古学の学生との見学会をオオヤマトでやった。06月05日土曜、天気良く、暑かっb9c801df.jpgた。3回生3人、院生1人と、計5人だった(2回生は参加なし)。
◆前日、18:00から資料を作り始めた。こんなパンフを作るのを学生にやらせるのも勉強なのだが、参加した3回生は、今年度になってから考古を志望するようになり、むろん歓迎すべきなのだが、前年度の学生が卒業して途切れ、連続的な継承ができない状態なので、今年度から体制を新たに構築中というところである。前年度は、毎週木曜日に研究会を開催し、土曜日には作業を行い、定型的な体制ができあがっていたのだが、今年度はまだそこまでいってない。一緒に酒を飲んで親しくなるところから始めている状態だからだ。
◆9:30近鉄天理駅集合、結局、車で行くことにした。まず赤土山古墳。整備されたばかり。ほかもそうだが、こae54395b.jpgの3月にまとめて説明看板を天理市が設置したみたいで、きれいな看板がそちこちに立っていた。
◆そのあと石上神宮、みんなニワトリの写真をとる。それから天理教本部、宗教都市を見せる。参考館。ここで既に13:00に近くなる。
◆お昼を食べて、西山古墳。まあでかい。それから塚穴山古墳。けっこう、みなさんに感激してもらった。そりゃ立派な石室だ。いったい誰の墓なんでしょうね。3次元計測をやってもいいかなと思った。
◆そのあと西乗鞍。すごいわ。あの高さは尋常じゃない。物部のアラカイではないかと思った。で、東乗鞍。25年ほど前に来たことがある。狭い入り口から石室に入った記憶がかすかにある。25b029b5.jpgどっから入るのかわからず、時間も押しているので飛ば05c85dce.jpgそうかと思ったが、照屋さんが「行きたい」というので、たどり着く。なんとか石室の入り口に到着するが、これは女の子3人にはきついな、と思ったが、そこに業界人2人が現れ、懐中電灯をもってやってくる。1人が案内人で、1人が案内されている。会話からすると近畿ではないように思う。その人の案内があり、明かりもできたので、5人、みな斜面をずりずりと石室に入る。そこには阿蘇ピンク石の古い家形石棺が、25年前と変わらずにあった。思いもよらず、みな感激の声。塚穴山といい、東乗鞍といい、こっちはどういう反応が返ってくるか、まったく未知数だったが、よかった。
◆それから西山塚と西殿塚、でもう16:00なので、黒塚展示館と桜井市のセンターの展示室に行き、17:00後、44d3fdb8.jpg大神神社、そっから、遺跡をまだ見るならそれもできると、移動する。桜井市のセンターにたどり着いたのは16:45で既に電灯を消していたが、15分見せてと頼み込むと、出てきたのが岩崎君で、親切に解説してもらった。
◆大神神社にお参りし、そのあと車で箸墓のまわりをまわり、約束したかき氷をおごる。
◆そのあと、河内国分に戻り、車をおいて、あじときちりで飲み会。いや~、みなさん、よく呑み、よく食べる。楽しかった。
◆まあ、うちの中世史のように院生がたくさんいて、しっかりと事前勉強をやって資料集を作り、というのもうらやましいが、こっちはそうはいかない。別に資料がなくってもいい、大事なのは現地を見ること、ほとんど遺跡を見て回ることのない学生たちを連れ出し、とにかく遺跡をみてまわることそのものが大事だ、ということを改めて思った。準備が・・・と思って滞るよりも、月1回、気軽に出掛けることにしよう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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