人を幸せにする人になろう

成相墓

◆牧野のパンフ、急いで作って玉1と一緒に送ればよかったと気付く。ほぼ上がっており、こっちがこれでよしとなれば終わりなのだが、ここ2週間ほど寝かしていた。A3を二つに折ったもので画像中心だから、文章を書くスペースはあまりない。牧野の石室について、最終的見解を書き込むつもりはない(最終的には書いた)。だが、自分で納得したいので、ここ1週間ほど、塚口先生の本を読み、新納先生の論文を読んでいた。
◆で、だいたい結論が出た。新納さんの見解は苦しいと思う。論理的には筋が通っているように見える。だが、新納さんの年代観でいくと、藤の木が560年代で、石舞台が570年没の稲目墓、丸山が571年没の欽明墓となるが、その間に牧野も赤坂天王山も入る、そりゃ苦しい、ぎゅうぎゅう詰めでしょ、というのが結論。だからやっぱりおかしいと(その後、新納さんからメールが来た。藤木をもっと上げることを考えておられるようだ)。
◆河内大塚山が安閑未完陵であるように、伝統的な寿墓が簡単にはなくならないであろう。薄葬が浸透する中でどこかの段階で生前造墓がなくなるのだろうが、少なくとも推古朝以降ではないか。それまではまだ生前造墓が残っていると思う。結論は、牧野は彦人が用明朝の大兄であった585年から587年の時期に着工している、580年代中頃の石室とみていいんではないか。それと、赤坂が崇峻陵である蓋然性が高いが(崇峻が即日埋葬されたとの日本書紀の記述も生前造墓の根拠となる)、587年の即位後に着工して、580年代後半の石室と考えて、牧野-天王山の関係は整合する。むろん、新納さんの言うように被葬者論が先行しているとの批判はそのまま受けよう。そして、前から考えているように馬子の石舞台は600年前後に置いとけばいいだろう。そして厩戸の墓は岩屋山式で問題はない、文殊院西はクラハシマロで640年代、それでおおむね整理可能だ。
◆生前造墓であることの論拠はもっともっと詰めなければならないが、これによって新納さんのように、下げすぎとの見解は修正が可能である。丸山についてはなお課題が残り、これが最大の問題だが、さらに検討したい。それをひとまず横におけば、上記の年代観で問題ないと思うのだ。
◆須恵器のことは少しづつ勉強している。いまは新納さんに反論できないが、そのうち、須恵器も押さえた上で、整合的なものを出したい。だがしかし、須恵器って、まあなんというか、すっきりしてない。宇野隆夫的に大づかみで、わかりやすく提示されないと、なかなか素人には手が出せない世界だ。
◆ついでに、高市皇子の三立岡墓はなぜ候補すらないんだろうか。広陵町に地名として候補地があるが、馬見ニュータウンで発掘調査が行われたはずだが、なんでないんだろう、と思う。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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