人を幸せにする人になろう

どっかの古墳

◆県の総合運動場のなかの古墳を見に行き、横穴式石室墳をいくつか見る。そのあと松山市内へ向か い、途中、昼飯を取り、ひとり降り、そこから西予に向かう。

人物博物館の木器展示

◆葉佐池から松山平野南部がよく眺められたが、ちょうど向かいの西側丘陵部にグラウンドがあり、その    あたりにある人物博物館に寄る。こういうのありがちであるが、まああってよいだろう。地域地域の人物を取り上げるもの。誰を選んでくるか、というところが見識だろう。とはいえ、こういうの、松山の中心部にあった方が、とも思う。そこは広域行政の県としては地域バランスなどがあるらしい。
◆で、ここで木器の企画展をやっていて、そこに連れて行ってもらいました。いや~なかなか見ごたえがありましたよ。そこで見たカゴメ。

6月8・9日の愛媛

◆前日、車で松山に向かうも、高速道路の夜間工事のための通行停止が20時で、ちょうど鳴門に入 り、締め切るというところで、バリケードが構築されていて、ぎりぎり入ればよかったのだがよう入らず、下に降り、時間をロスしたが、無事に松山入りする。
◆翌日は、ます来住廃寺に行き(だいぶ久しぶり)、すぐに葉佐池古墳。ため池の先端にある小山の上の古墳で、不思議な構築課程をたどる(もう忘れかけている)。松山市の方に対応いただく。下にガイダンス施設ができ(できて数年後?)、まだ真新しい。木棺が残存し、3体の埋葬が推測され、ハエの卵からモガリ場での遺骸への産卵が復元できるという。生前造墓の根拠を考えたが、もう忘れてしまった。もちろん横穴石室だし、追葬だし、直接、生前造墓の話につながるわけではないが、通常の死没から埋葬までの期間がそう長くないことの根拠になる、と思ったのだったか・・・。半年や1年越えは王など特別の場合なのである。
◆またこれだけの調査をやった以上、封をしてしまうのでなくできるだけ市民に見せる、という考え方も学んだ。そして未盗掘、木棺残存の古墳の調査ということで、某古墳のことを考えていた。
覆っている東京ドームと同じ幕とか、なんとか草という墳丘整備に使った植種の話などもする。

井辺1号墳

◆関大が掘っているんだ。石室もわかっている。いまどんな状態かもネットで確認できた。

苦労して探した西小山

◆西小山です。1981年に大阪府が発掘・・・。こんなにもきれいに墳丘や埴輪列を出しながら、岬町の    文化財として、ほとんど大事にされていない。なんのために掘ったんでしょうか。

大谷古墳

◆恥ずかしながら初めてです。しゃかのこしのあと、釜山に登り、茶臼山はわからず、大谷に向か う。楠見遺跡はちょうど真下くらいなんですね。
◆立派な史跡公園になっていて、看板なども真新しくなっていました。5世紀末か。岩橋直前はここ、ということやね。北岸も単純ではないですね。いくつもの勢力がいて、木本に大きな前方後円墳があって、鳴滝遺跡があり、初期須恵器があり、そのなかで5世紀末に大谷が登場してくると。そのへんの脈絡も、どう考えられているのでしょうか。それと、当時の地理復元からすると、紀ノ川が紀伊山地に迫り、大谷古墳から遠くない位置に流れ、奈良盆地へとつながる紀ノ川の河川流通を押さえる位置にある。

しゃかのこし

◆に、初めて行きました。削平されてへべちゃくなった墳丘ということは、だいたい知っていたよ うに思うが、立派な公園に整備されている。
◆それから南側の造り出しの、くびれ部側でなく、前方部側縁の取りつき側が検出されている。で写真は風土記の丘の図録ですが、ここのカコイ。板の縦線がちゃんとあります!。それだけでなく、柵の板をつなぎあわせる横方向のものが2帯あり、横トゲ状のものも付いてますね。

和歌山市博

◆立派な博物館だということがわかる(いつも駆け足ですが)。が・・・。日本遺産に和歌浦が選定されたらしいですね。ロビー のところに写真の図が掲示してあった。部分、部分しか知らなかったので、こうした地図にまとめてくれていて、とても勉強になりました。今度、ゆっくり歩きます。

引き続き岩橋で

◆で、こういう編年図を待っていた。岩橋って、前期はあるにせよ、基本、6世紀なわけだ。で、 大型前方後円墳は天王塚とか将軍塚までなんだ。これを見ると、ほかとあんまり変わらないようだ。2世代くらいちゃうか。で、欽明期に抑えられる、と。岩橋型石室について勉強してみよう。Kさんの論文を読まないとあきませんね。で、不満をいうと、栄原先生の紀氏の研究などもあるなか、岩橋千塚をどう考え、歴史的に位置づけていくのか、そういうストーリーがまだまだ弱い。個別古墳の年代を正確に押さえていくというのがもちろん前提だし、そういう基礎的な研究なしに空理空論では困るわけだが、こうした編年図もできあがってきている。ほぼ大型前方後円墳の年代も大きくはぶれない。そこで、どう読み取るか、ということ。
◆やっぱり資料館でも、岩橋千塚はこういう盛衰をたどる古墳群だという、歴史的解釈の説明がなかったように思う。教科書に写真の載っている群在する古墳群の典型で、結晶片岩を使った独特の石室を発達させ、とくに大日山35号墳は、今城塚段階の近畿のなかでもほとんどない105mの前方後円墳で埴輪がいっぱい。というのから歴史へと進んでほしい。
◆ほんでもって井辺1号墳というのはすごそう。

岩橋千塚が面白い!

◆何度も行きながら、はじめてちゃんと勉強した。まずは分布から。
◆天王山は、史跡地じゃないということなのかな。6世紀中ごろの、岩橋型石室の完成形ともいえるものという。あちこち看板もきれいになり、ガイドマップも副館長さんに用意いただいたのだけど。公開されているもの、つまり石室の中に入れる、あるいは入り口からのぞき込めるものを、マップ等に表示いただけたら、もっといい。
◆6世紀前半代の立派な前方後円墳がならびたつイメージでよいのかな。また、あとで考えますが。いずれにしても6世紀前半の隆盛は、継体との関係ということになるだろう。そのへんは、北陸から担ぎ出され、東海勢力とも関係がある、まあ百済とも親密、そのへんと紀伊の結びつきは、どのように考えられるのだろうか。ぱっと思いつくのは雄略期に抑え込まれた、その反動。雄略段階は、大阪湾岸からの海上交通は、どの勢力が担っていたのだろう。葛城とか紀氏にかわり、茅渟県主はちゃうかもしれないが、凡河内とか、なんか新興勢力を使ったのかな。で、継体が登場し、紀氏南岸勢力を起用する、といったところ?。
◆ともかく、風土記の丘で買った図録がすべて面白く、左図はそこから取ったが、ふつう見学する前山地区でなく、井辺地区の方墳に目が行く。これ、とても面白そうである。あと赤色立体地図も作っているらしい。 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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