人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
6月8・9日の愛媛
◆前日、車で松山に向かうも、高速道路の夜間工事のための通行停止が20時で、ちょうど鳴門に入 り、締め切るというところで、バリケードが構築されていて、ぎりぎり入ればよかったのだがよう入らず、下に降り、時間をロスしたが、無事に松山入りする。
◆翌日は、ます来住廃寺に行き(だいぶ久しぶり)、すぐに葉佐池古墳。ため池の先端にある小山の上の古墳で、不思議な構築課程をたどる(もう忘れかけている)。松山市の方に対応いただく。下にガイダンス施設ができ(できて数年後?)、まだ真新しい。木棺が残存し、3体の埋葬が推測され、ハエの卵からモガリ場での遺骸への産卵が復元できるという。生前造墓の根拠を考えたが、もう忘れてしまった。もちろん横穴石室だし、追葬だし、直接、生前造墓の話につながるわけではないが、通常の死没から埋葬までの期間がそう長くないことの根拠になる、と思ったのだったか・・・。半年や1年越えは王など特別の場合なのである。
◆またこれだけの調査をやった以上、封をしてしまうのでなくできるだけ市民に見せる、という考え方も学んだ。そして未盗掘、木棺残存の古墳の調査ということで、某古墳のことを考えていた。
覆っている東京ドームと同じ幕とか、なんとか草という墳丘整備に使った植種の話などもする。
◆翌日は、ます来住廃寺に行き(だいぶ久しぶり)、すぐに葉佐池古墳。ため池の先端にある小山の上の古墳で、不思議な構築課程をたどる(もう忘れかけている)。松山市の方に対応いただく。下にガイダンス施設ができ(できて数年後?)、まだ真新しい。木棺が残存し、3体の埋葬が推測され、ハエの卵からモガリ場での遺骸への産卵が復元できるという。生前造墓の根拠を考えたが、もう忘れてしまった。もちろん横穴石室だし、追葬だし、直接、生前造墓の話につながるわけではないが、通常の死没から埋葬までの期間がそう長くないことの根拠になる、と思ったのだったか・・・。半年や1年越えは王など特別の場合なのである。
◆またこれだけの調査をやった以上、封をしてしまうのでなくできるだけ市民に見せる、という考え方も学んだ。そして未盗掘、木棺残存の古墳の調査ということで、某古墳のことを考えていた。
覆っている東京ドームと同じ幕とか、なんとか草という墳丘整備に使った植種の話などもする。
引き続き岩橋で
◆で、こういう編年図を待っていた。岩橋って、前期はあるにせよ、基本、6世紀なわけだ。で、 大型前方後円墳は天王塚とか将軍塚までなんだ。これを見ると、ほかとあんまり変わらないようだ。2世代くらいちゃうか。で、欽明期に抑えられる、と。岩橋型石室について勉強してみよう。Kさんの論文を読まないとあきませんね。で、不満をいうと、栄原先生の紀氏の研究などもあるなか、岩橋千塚をどう考え、歴史的に位置づけていくのか、そういうストーリーがまだまだ弱い。個別古墳の年代を正確に押さえていくというのがもちろん前提だし、そういう基礎的な研究なしに空理空論では困るわけだが、こうした編年図もできあがってきている。ほぼ大型前方後円墳の年代も大きくはぶれない。そこで、どう読み取るか、ということ。
◆やっぱり資料館でも、岩橋千塚はこういう盛衰をたどる古墳群だという、歴史的解釈の説明がなかったように思う。教科書に写真の載っている群在する古墳群の典型で、結晶片岩を使った独特の石室を発達させ、とくに大日山35号墳は、今城塚段階の近畿のなかでもほとんどない105mの前方後円墳で埴輪がいっぱい。というのから歴史へと進んでほしい。
◆ほんでもって井辺1号墳というのはすごそう。
◆やっぱり資料館でも、岩橋千塚はこういう盛衰をたどる古墳群だという、歴史的解釈の説明がなかったように思う。教科書に写真の載っている群在する古墳群の典型で、結晶片岩を使った独特の石室を発達させ、とくに大日山35号墳は、今城塚段階の近畿のなかでもほとんどない105mの前方後円墳で埴輪がいっぱい。というのから歴史へと進んでほしい。
◆ほんでもって井辺1号墳というのはすごそう。
岩橋千塚が面白い!
◆何度も行きながら、はじめてちゃんと勉強した。まずは分布から。
◆天王山は、史跡地じゃないということなのかな。6世紀中ごろの、岩橋型石室の完成形ともいえるものという。あちこち看板もきれいになり、ガイドマップも副館長さんに用意いただいたのだけど。公開されているもの、つまり石室の中に入れる、あるいは入り口からのぞき込めるものを、マップ等に表示いただけたら、もっといい。
◆6世紀前半代の立派な前方後円墳がならびたつイメージでよいのかな。また、あとで考えますが。いずれにしても6世紀前半の隆盛は、継体との関係ということになるだろう。そのへんは、北陸から担ぎ出され、東海勢力とも関係がある、まあ百済とも親密、そのへんと紀伊の結びつきは、どのように考えられるのだろうか。ぱっと思いつくのは雄略期に抑え込まれた、その反動。雄略段階は、大阪湾岸からの海上交通は、どの勢力が担っていたのだろう。葛城とか紀氏にかわり、茅渟県主はちゃうかもしれないが、凡河内とか、なんか新興勢力を使ったのかな。で、継体が登場し、紀氏南岸勢力を起用する、といったところ?。
◆ともかく、風土記の丘で買った図録がすべて面白く、左図はそこから取ったが、ふつう見学する前山地区でなく、井辺地区の方墳に目が行く。これ、とても面白そうである。あと赤色立体地図も作っているらしい。
◆天王山は、史跡地じゃないということなのかな。6世紀中ごろの、岩橋型石室の完成形ともいえるものという。あちこち看板もきれいになり、ガイドマップも副館長さんに用意いただいたのだけど。公開されているもの、つまり石室の中に入れる、あるいは入り口からのぞき込めるものを、マップ等に表示いただけたら、もっといい。
◆6世紀前半代の立派な前方後円墳がならびたつイメージでよいのかな。また、あとで考えますが。いずれにしても6世紀前半の隆盛は、継体との関係ということになるだろう。そのへんは、北陸から担ぎ出され、東海勢力とも関係がある、まあ百済とも親密、そのへんと紀伊の結びつきは、どのように考えられるのだろうか。ぱっと思いつくのは雄略期に抑え込まれた、その反動。雄略段階は、大阪湾岸からの海上交通は、どの勢力が担っていたのだろう。葛城とか紀氏にかわり、茅渟県主はちゃうかもしれないが、凡河内とか、なんか新興勢力を使ったのかな。で、継体が登場し、紀氏南岸勢力を起用する、といったところ?。
◆ともかく、風土記の丘で買った図録がすべて面白く、左図はそこから取ったが、ふつう見学する前山地区でなく、井辺地区の方墳に目が行く。これ、とても面白そうである。あと赤色立体地図も作っているらしい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。