人を幸せにする人になろう

いろんな雑誌を

◆『博物館研究』の民具の特集を面白く読んだ。これ大学で取ってもらっているものだが、自分でも購入できるのかな。いま博物館にある民具の多くは、1970年の減反政策、ほぼ同じ頃からの機械化のなかで、収集が始まっていくのだそうである。
◆それと大東市の資料館が民俗資料の展示や活用では、けっこう有名みたいです。
◆『月刊文化財』には、新指定の史跡等の紹介があった。全国で文化財にかかわる仲間が仕事をしていることを感じさせてくれますね。そして久津川古墳群もあった。

10月になりました

◆いろんなことが起こります。さて、昨日金曜日、久しぶりに電車で通勤。いろいろ仕事を片づけるものの先は見えない。まあ、ぼちぼち。
◆久しぶりに新聞をスキャンし、ストックした。PCのフォルダに入れていても忘却するだけなので、プリントした。それをファイリングするパンチファイルも作った。これにためていこう。今日は10月1日の土曜日で、朝日新聞のフロントランナーの紹介に感銘を受ける。新聞を読むのはニュースを求めているわけではない。調査報道とともに、こうしたいろんな生き方があることを知る、ためでもある。この日本にも、あまたの地域があり、そこで生きている人がおり、なにができるかを考え、取り組んでいる人がいるものだ。まったく世界が違うが、共感がある。記事のなかにも研修の話があった。知識や技能は都会の方があるかもしれないが、意識は、志ある人々の明確な考えや熱意があってこそ伝わる、ということなのだろう。もとい。そういういろんな生き方がある。「これでいいのか」という自問の繰り返しの上に、トヨタの高給を蹴って隠岐の島に行き、会社を作った。テレビでもそういう番組はないわけではないだろう。が、新聞には、こうした人を取り上げたものや、同じ今日の新聞でいえば、埼玉の高麗郡の話もあったが、この日本列島のさまざまなことがらが取り上げられる。若者こそ、とくに多様な人の生き方について、知って欲しいと思う。が、新聞購読数の減少は続いている。
◆左膝の裏がはれぼったく、筋肉まで痛くなり、今朝起きて、もうまずい、というので調べると、阪和住吉総合病院が土曜日午前も整形が開いているので、行く。結論、年です。左膝の内側の軟骨が薄くなっている。ヒアルロンサンの注射も選択肢としてあるが、湿布にして様子を見ることにした。このところ、肩が痛い、膝が痛い、かかともまだ痛い、と。正座もできません。もう老年!。かかとが痛いのは、もう治りません、むろん軟骨も治りません、と。膝に無理な作業は避けること、運動して筋肉を維持するようにと。はい・・・。
◆ふだんは机にず~と座っていて、なのに2015年2月以来の久津川の現場で、現場になると酷使しと、そういう落差もまた悪いのでしょう。車はできるだけ乗らず、歩くこと。

で和泉市肥子町の調査

◆いまは詳しく書く気力なし。ひとまず撮影した写真を地図上に番号を記入するという一次処理ま で。これやっとかな、写真撮っても、どこかわからんで。GPSカメラっちゅうのも買ってみるか。で、3日間、お世話になった、中世史T氏作成の地図。これをもち、府中・肥子、そして泉大津の穴田などを歩いて書き込んだもの。緑が桑畑井の水かかりエリアです。
◆ここでもまた、実際に歩いてみると、1町平行に水路が通る。条里が中国の方式通り減歩分を加えた109mとなっている理由が理解できよう。耕地だけ区画して、水路はあと、ということはありえない。計画した水量があり、十分水がまわったかどうかはともかく、地割施工には水路掘削がセットとしてあったはず。むろん水の供給源については、さらに十分なものにする努力が続くだろうが、1町ごとの水路は、7世紀後半に施工されたはずである。和泉でも比較的平坦な、一定の広さのある部分では、例外なく1町ごとに水路がともなっている。条里地割といってしまうと、なんか畦だけのイメージがつきまとうが、そうでなくハナから水路がセットである、という認識を新たにすることができた。
◆現場が終わり、懇親会で余った酒などを搬入しに大学に来たが、いま18:53、今日は早く帰って寝て、金・土・日にバリバリ仕事をしよう。

ああ疲れるわ

◆26日の朝4時になっちまった。25日、朝から晩まで仕事をする。明日の授業の準備。それから、それから、もう忘れた。大歴の仕事(この日の夕刻に委員会)は夜となり、まだ終わりません。ノートPCも、昼間落下し、壊れ・・・。
◆朝5時まで大歴の資料を作り、2時間寝て7時に起き、立命館大学に向かう。今期、2016年後期、立命の非常勤講師を頼まれ、月曜日の2限は京都となる。車、奈良盆地経由、阪神高速京都線、西大路を北上する。1時間前くらいには着いたか。事務室で出勤簿やコピー機のことを聞き、教室を聞き、と。受講生はヒトケタ(大学院の授業です)。ヘロヘロでしたが、なんとか終え、帰りは第2京阪で14時前には研究室に着いたか。そこから大歴の委員会の資料作り。今日の委員会は部会運営委員との意見交換が頭にあるため開始18時で、16:30過ぎには出たか。まあ、なんとか終える。宿題多し。
◆京橋でカミサンを拾い、途中でラーメンを食い、帰宅。ばたんと寝る。
◆翌27日からの和泉市合同調査に向かう。

2016年9月23日と24日は大阪城

◆8月1日から3日のサウンディングの続きが、23・24日で行われました。山里丸の残りをやり、また上に上がって、本丸東側 の中の段の追及です。ハタと、測量器財が城陽市の整理室だ!、というので23日は16時前に抜けさせてもらい城陽に向かい、19時に帰宅する。帰ると、急なことで、和歌山へ行かないといけないというので、そのまま向かう。24日は紀美野町から大阪城へ向かいました。

22日山口さんの会

◆21日は大学で仕事を片づける。現場からもちかえった器財類の片づけも終わりました(テントが 実は残っています・・・)。あれもこれもせなあかんのですけど、あんまりはかどらず。この日、前日行けなかった自分の実家の加古川に行く。子供らに先に18時頃着で向かってもらい、仕事をしているわれわれは20時半くらいか。23時には出て、国分へ戻る。
◆22日(朝、息子は東京にむかう)は、12時に京都・東寺の慶賀門集合。むかし住んでいたところから西へ歩いていったところです。五重塔のなかに入れていただき、現在修理中の築地土塀の作業現場などなど。バスに乗り込み、ビールが配られる。石清水八幡宮の一画、松花堂(昭和32年に指定を受けた国指定史跡「松花堂及びその跡」とともに、2014年に国指定名勝「松花堂及び書院庭園」となる)。宇治太閤堤跡。椿井大塚山古墳を横目に見て、高麗寺へ。そして城陽。芝が原古墳に行く余裕はなく、そのまま城陽飯店へ。
◆いや~楽しいひとときをありがとうございました。それとともに、山口さんはじめ、文化財保護の仕事をやってきた市町村の人たちの仕事ぶりを、生の声で教えていただきました。長くやってきたベテランの蓄積・智恵・その他、継承すべきものは多い。それとともに「なんとかしたい」という熱意がコトを動かしていく、実現させていく、ということも。ほんま、記念物は土地の話だけに、理屈は必要ながら、実際的・現実的な手だてが求められ、決めていく、進めていく、やること、が重要であるわけだ。

2016年9月19日(敬老の日)20日

◆この日は出勤し、久津川のファイル類を整理するだけで、ほぼ1日費やしてしまいました。この日、息子と娘が帰ってくるので、少し早めに帰り、国分駅前の飲み屋に行く。そのあとボーリングにも行きました。右足首や左膝の傷みはあるが、タマは投げることができた。いまは子供らが帰ってきたとき、年2回程度ですね。
◆カミさんがこないだ函館に学会で行ったときの話。中国人と修学旅行生はじめ、観光客があふれかえっているという。五稜郭はじめ、いろんな見所があり、ちょこちょこ資料館的なものはあるらしいし、市立の博物館は移転中?展示替え?、とにかく開いておらず、それによるのかもしれないが、観光を打ち出しすぎていて、その元ネタである、それぞれの場所がどういうところか、知ったりする仕掛けが乏しいんではないか、と。
◆20日(火曜日)は台風。子供らを連れ、1日、実家巡りとし、和歌山に行くも、台風が近づき、早々に辞し(顔を見せることが大事)、加古川に向かうも、高速道路が渋滞していて断念する。昼を食べ、一旦、国分に戻る。それから18時の難波宮研究会に行く。有意義な研究会でした。2つの主要議題について、だいたい方向性が出ました。

で彦根

◆それで仕方なしに彦根へ。彦根城にはむかし子ども2人を連れて行ったかすかな記憶があるが、あ まり記憶もない。しかしここにも人が押し寄せており、なんでや、みんな城好きか!、と。まあ続々と上がってきますわ。途中、昼飯を食おうとするも飲食店がない。史跡だから?。でも休むところも欲しいです。天守は入場制限というか、1回に入れる人数を区切っていて、ならんでおり、こうなると「やめとこ」、と。博物館は行きました。1987年に御殿を復元して博物館にしたものという。まあしかし、殿さんのもっていた甲冑やら刀やら陣羽織やら、書物やら書画や焼き物やら、まあ、どこでもそうである。面白くはない。お城のことも博物館では学べず、本丸の片隅にあったパネルを読んだくらい。
◆行き帰り、豪雨でした。

2016年9月18日、長浜・彦根

◆松山に遊びに行こうとしていたのですが、19日はカミさんが授業があり、18日だけ何処かへ行こ うと。宇陀松山の伝建案もあったのですが、長浜へ。
◆お城は廃城後の跡地に模擬天守を建てたもので、博物館となっている。もっと長浜全体の歴史を学べるのかと思ったが、まあ城の博物館である。なんでお城の駐車場(臨時駐車場というのか第2駐車場だったが)がいっぱいなんだろうと首をかしげる。お城というか博物館を訪れる人も多い、というところに妙な違和感を・・・。そのあと駅舎の保存施設に行き、これもおもしろかった。長浜が北陸や湖北などからの物資を大津へ輸送するターミナル駅であり、舟運との結節点であったこと、やがて東海道線とつながるが、湖北から敦賀、また敦賀から福井へ、鉄道をつなぐことが難関であったことなど、学ぶことが多い。
◆そのあと、いよいよ町へと向かうと、ほぼすべての駐車場が満車で、内部は1回横切っただけだが、とにかく人があふれている。ラーメン屋には長蛇の列。なんじゃこれは・・・。びっくりです。以下、ウィキ。

 黒壁スクエアは、滋賀県長浜市旧市街にある、伝統的建造物群を生かした観光スポット。黒漆喰の和風建築である「黒壁1號館」から「30號館」までの総称であるが、一般に北国街道と大手門通り(美濃谷汲街道)の交差点である「札の辻」(江戸時代に高札が立った場所であることに由来)を中心とする区域として紹介されることが多い。
 江戸時代から明治時代の和風建造物の連続性が高い情緒ある町並みとその古建築を活用した美術館、ギャラリー、ガラス工房等の文化施設、レストラン、カフェ等が集積するエリアで、また日本最大のガラス芸術の展示エリアとして知られ、年間約300万人の観光客が訪れる湖北随一の観光スポットである。
 旧市街地の中心である「札の辻」に建つ「黒壁銀行」の愛称で親しまれてきた旧第百三十銀行(1899年竣工)の取り壊しの危機に際し、旧市街の古建築の保存と再生のための博物館都市構想を掲げた第三セクター(長浜市と地元民間企業8社が出資)「黒壁」が1988年に設立された。  「黒壁」設立の主目的である旧第百三十銀行の保存と再生は同建築が1989年に黒壁一號館「黒壁ガラス館」としてオープンすることにより達成された。 さらに「黒壁」はこの一號館の周囲の古建築を、次々と美術館、ガラスショップ、工房、ギャラリー、カフェ、レストランへと再生してその数10館、「黒壁まちづくり」に参画する館を合わせると計30の古建築の再生に携わった。1991年に新快速が長浜駅まで延伸したこともあって観光客が増え続け、その活況はエリア内の他の古建築の再生・活用へと波及していった。
 400年の伝統に支えられた寂れた商店街と古い住宅街が、今や湖北最大の観光スポットへと変貌を遂げている。町おこしの成功例として有名で、日本各地から視察が絶えない。

◆というのはいま学習したわけだが、当日、これはどうなってこうなったん?、研究せなあかんと思った。しかしまずちゃんと訪ねマチをまわることですね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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