人を幸せにする人になろう

でですね天理です

◆土曜日帰ってきてから、日曜日の天理のパワポを作り始める。こっちは授業でも他の講演会でも 使ってきたものがあるので、しゃべる筋にしたがって使えるものを配列しつつ、黒塚と行燈山のものを入れ込んでいく。だいたいできそうなメドが立ち、寝て、前日と同じように朝起きてから仕上げにかかる。同じように12時招集で、何時に出たのだったか、平端から天理駅に降り立ったのは11:30過ぎ。文化センターの方向に歩いていくが、市役所の方へ行きすぎ、引き返して到着。むかし大和天神山古墳の鏡がぜんぶ並べられたときに来たな~、と思い出す。山辺文化会議という名前で、天理の歴史文化を活かしたまちづくりなどをめざし、勉強会や、今回が5回目になるというシンポジウムを開催するなどしている。どこでも地域のために何かしたいと活動している人々がいます。
◆大学の先輩である天理大学Kさんが理事になっていて、今回の企画をセッティングしたようで、頼まれて断るわけにはいかない。3人が40分ずつしゃべって、結構長く討論時間があった。
◆黒塚の護岸工事の調査をやった反対側側面の方が残りよく、そのくびれ部を掘ったら、きっと葺石は残っていると思うし、全体に柳本藩の陣屋になり傷んではいるが、なんとか箸墓古墳に近いという判断ができる材料がえられるだろうと思う。あれだけの内容のものがあって、史跡は当然であるとしても、本来は、範囲確認をやって指定すべきなんだが・・・。まあそんなことは言いませんが、墳丘を確認してほしいという願望は表明しておきました。そして行燈山。なぜ崇神墓とみることができるか、という説明をして、ハツクニシラスの話をしてオチ、としました。参加者は230名くらい?。

生き急ぎ

◆木津での講演会の最後、なんだかご一緒したお二人からの私に対するメッセージをいただく形になった。なんであんなことになったか、どういう司会からの質問の振りだったかは忘れたが。まず「長生きしてほしい」と。わたしのアバウトさをしっかり指摘いただきつつ、認めてくれる面は認めていただいた。考古学的事実から歴史を語ろうとしている、と。日頃から努めているところである。What happened in history そこにどこまで肉薄できるか、ただそれだけである。歴史的な意義とか理論とかは関心はない。なんで久津川車塚古墳があり、180mもの巨大前方後円墳が築かれ、そして芭蕉塚のあと消えていくんだろう、どこまでそれが説明できるのか、といったことに挑戦し続けたいものである。遺跡にもとづく歴史学を追究したい、と思っている。そういう志向性があり、そういう人も必要なんだ、と認めてくれはりました。そして長生きしてください、と。
◆でもね。ある必要性からある本を読んだんですけど、専門家というのはそうだ、事象を説明できるようになりたい、資料に即して自分の考える歴史像なりを構築したい。そうやって、なるほど、と思われる脈絡を語れる、これがプロである、と。が、そこに資料と理解の緊張関係をどこまで保持できるか、ということ。ある見方や理解を学説として出す、そうするとそれに縛られるわけです。むろん、手堅く確実なことをコツコツ積み上げ、訂正を要しない人もいるだろう。が、わたしなんかは、元来、感性的で、実証はアバウト。ころころ見方も変わる。このことを友人にも指摘される。なので、そもそもダメなんだけれど、しかしいい線いっているところも、たぶんあると、これはまあ自分くらいは信じてやりましょう。だけど、その本質にかかわるものほど、変えられなくなる。いままでの研究が瓦解するから。実はその危機感はあります。
◆話が脱線しましたが、その本では、一定の筋道や理解や脈絡を説明できるようになることが、次の段階には、それにもとづく解釈になっていくと。そういう頭になってしまっているわけだ。難しいですね。ある見方なりで、事例にあたっていき、それが通用することで事例を増やし、より確からしいものにしていくという深化と、ヘタをすれば別の見方をしなければならないのに、その線で理解してしまおうとする、きわどさがある。そのへん、資料に向かう常にフレッシュな頭で観察する姿勢というか、オヤ違うなと思ったら柔軟に組み立て直すみたいなことが、どこまでできるかですね。それができなくなったら引退すべきですね。
◆で、もうおひと方からは「生き急いでるように見える」と・・・。そうですね、なにもかもできんし、いろいろ委ねて、ゆったりと進みたいもの。50を越えて徹夜して、タバコをプカプカ吸って資料を作りパワポを作り。いみじくも、その日の朝、カミサンに「死ぬで」と言われたところ。自分でも自覚はあり、たぶんやられるとしたら心筋梗塞やろな、と思っている。早く死んでは、そこで終わってしまい、長生きしてこそ、やりたいこともやり続けられるんだし。持続するようにしないといけませんね。でもまあ、ストレスかというとそうではあっても、こういう機会をいただくことで、いろんな勉強ができ、楽しくやってはいる。
◆すいません。木津の講演会だけで、長々と。が、あの最後のいただいた言葉は、ほんとにありがたいものでした。

久津川車塚の被葬者は在地豪族か

◆向日市のUさんはそうはみていないよう。わたしは突き詰めて考えていなかったが、そうだよな、そういうことも考えとかなあかんわなと。というのも、太田茶臼山である。あれは継体の祖父のもひとつ前の、フタマタ王の次のオホホド王と考えられる。そうでなければ、継体が倭国王に担ぎ出されることや、彼が三嶋を本拠とすること、新池で埴輪を焼くことが説明できないと思うから。オホホドは三嶋を任せるために河内政権から送り込まれたと。ただし後続しないことから、オホホドの次は允恭即位により近江方面かどっかへ転封されたと。
◆継体が担ぎ出され、倭国王となり地盤のある三嶋に返り咲いた、と。そう考えると、230mだか、 確かに久津川車塚古墳よりもデカク、墓山や市野山の規模とも同等で、そのクラスとなると王族とみることも可能だろうと思うが、しかしその線引きはどこやねんと。180mやったらちゃうとか、なかなか言えないだろう。箱塚とか、車塚の前身とか、4世紀末から5世紀前葉の車塚登場以前からの脈絡の復元が難しい点はある。しかし、あれだけの階層構成を取る久津川古墳群、そして180mもの車塚、それは河内政権期に王権と深く結びついた久世の首長と言い切れるかというと、確かに???なのである。また、恵解山古墳との格差も著しい。125mと180mの格差はたいへんなものである。
◆なお県の理解についても、向日市Uさんと違った。これも和泉市史での理解をしゃべったが、違うあり方もありうるなと。つまり王権直轄地に近い性格のアガタについて、和泉では伝統勢力をつぶした上で設置し、茅渟県主氏を管掌者として登用したと理解しているわけだが、重要拠点に王族を送り込むアガタがあっていい、ということだ。アガタの意味からして確かにありうる話やなと、とても勉強になった。和泉は百舌鳥古墳群とも近く、茅渟県の経営に王族を送り込まなくても済むんだろう。しかし畿内の要地(あるいは畿内だけでなく-アガタの論文を読まないといけませんね)については、王族を送り込んで(封じて)統治させる、ということは十分考えられるのだろう。ちなみにUさんは葛野県主は恵解山とみているようである。
◆まあそんなんで、やったらやったで、なにがしか前進があるし、地域の古墳群を調査し、歴史的脈絡を考えている方々と話をすることで、いろんな示唆をいただいている。多謝。

宇治二子塚はすごいですね

◆片袖式石室の話をして、まあ宇治二子塚が今城塚型という以前からの話を図で示した、というだ けのことですが、和田アツム先生が被葬者について言及しているようだ。継体の妃のひとり、ワニ臣河内の娘のハエ姫と。が、まあワニ臣河内の墓であって、ハエ姫は死んだら帰葬されるんでしょう。断夫山が安閑母のメノコ姫の父である尾張のなんとか墓と言われているのと同様、可能性はある、いや高いのではないか。つまり、そういう関係のもとでしか、6世紀前半に112mものあれだけの前方後円墳は説明しにくいだろう。
◆それよりでかいのが西乗鞍ですが・・・。まあそれは置いておき、やってみてびっくりしたのは、二子塚古墳の横穴式石室の基礎がとんでもなくデカイ、ということ。ご覧あれ。ちなみに置いているのは市尾墓山です。
◆あと、前方後円墳のあと、方墳が基調と思っているが、嵯峨野は円墳が多い(円山塚など)というのも興味深いですね。蘇我全盛ではあっても、ぜんぶがぜんぶ方墳になるわけではない。牧野や叡福寺とかくらいしか思い浮かばず、白石先生の挙げる壬生車塚を含め、限られた存在というイメージでみていたが、そんなことはないですね。いっぺんに方墳化はできず、前方後円墳は廃止されても、そりゃ円墳やろ、という層はしぶとくいる、と理解しなければならない。

芭蕉塚

◆芭蕉塚は大仙型だと思っていて、誉田御廟山から大仙の間に河内政権の主導権交替を考える自説 にとって、なんでやろと思ってきた。そんなところは普通はない。備中も昨年来、造山と作山は別系譜で、河内政権と結びつく勢力は交替したと考えており、岡山大学のN先生も同意見である。で、久津川では誉田御廟山の次に大仙型があるのは理解に苦しむところであった。
◆資料の作成をしていて、これを大仙型というのは強弁やわな、無理やわな、と。前方部はより細い。そうか、ウワナベだと。第3の系列というのは、巣山古墳の測量図が整備され、津堂と同じではないことが確定し、先立つ築山以来の伝統として前方部が開かない系列があると理解していた。新木山もそうかもしれない。で、ウワナベもそうで、西陵はウワナベ型だ、という結果図はえていたところである。葛城氏で独自の200m級の前方後円墳を保持していること、一時的かも知れないが、佐紀東群のウワナベもそれにつらなり、淡輪紀氏ともつながる、と。允恭即位によって基本的に大きく転換するが、葛城氏も雄略期にも弾圧が続くように、允恭即位でぜんぶ押さえ込まれたわけではない。允恭期に反主流派同盟のような提携をして、抵抗を見せたのではないだろうか、と。久津川の勢力はそうして芭蕉塚1代はそれで持ちこたえたが、雄略期には押さえ込まれた、そんな筋書きはどうだろうか、ということを考えました。
◆やはりちゃんと第3の系列をやらなあきません。ちなみに島の山もそうですが。

まあいろいろと

◆やっぱり地図作りから始めるも、古墳の名前を入れる余裕もなく・・・。  
◆いただいた資料を見て、いちばんショックだったのは、Uさんの図の寺戸大塚の現地説明会資料にもとずく前方部の姿。大阪府のHさんの向日市の報告書に書いていた記述から、京都市の発掘で柄鏡形でない成果がえられているという情報はもっていたが、図を見たのは初めてで、まあ頭をかかえる。発表時も舞台上で頭をかかえました。検討をやり直さないといけません。
◆妙見山は行燈山型かなと。
◆米軍写真を見ると、久津川車塚の横に前方後円墳らしきものがありますね。以前から言われてき たものの、否定的な見方が強かったようですが、その後の昭和30年の地図に高まりが記録され、米軍写真では前方後円形に見えます。

なんとか無事に週を越えました

◆土曜日の木津での講演会(画像の企画展にちなんだ記念講演会)。木曜日に大学泊、ほんまにカンテツし、昼11時頃までにはなんとか資 料を作成する。早く送りたかったが、11時以降は会議が続き、終了後の16:00頃、なんとか山城郷土資料館の担当者に送信する。17時まで別件の仕事をしたあと、パワポ作りに取りかかる。帰宅し、2晩徹夜というわけにもいかず、床にダウンし眠り、また4時半には起きて(緊張感で目が開く)、作成を続ける。研究室のデスクトップのバックアップハードディスクを駆使し、これまで作ってきたスライドを選んでは貼り、今回作成した山城の前方後円墳の検討図を、資料ではモノクロだったが赤とか色をつけて投影画像として見やすくしながら織り込んでいく。
◆なんとか仕上げ、12時に会場に到着するためには、高井田11:20だったか、駅に向かう。ノートPCが諸事情でアウトなので、ほぼ仕上げて家を出なければならない。まあなんとかやって・・・。大和路線が10分遅延で、木津駅着も12時くらいと遅れたが、Oさんが出迎えてくださり、会場に向かう。乙訓の古墳群について話すUさん、久津川古墳群について話すKさんは既に到着している。昼ご飯をいただき、データをPCに移し、なんとか一息。
◆14:40~16:10まで1時間半しゃべる。まあなんとか欽明期くらいまで到達。前方後円墳の廃止の話は時間がなくカット。まあ、およそひととおりしゃべれたかな・・・。参加者は150名くらい?。
◆17時くらいの木津駅発の大和路線に乗る。このまま天王寺まで行って、今度は翌日曜日のパワポ作りをしようかとも思ったが、まあ家でやれそうなので、高井田で下りる。

ああ天理の資料は出した

◆日曜日は天理。桜井との差別化も必要。急遽、黒塚と行燈山古墳にも触れる。あとはパワポだが、これ前日晩の徹夜ですかね(が年ゆえそう簡単ではない)。さて前日土曜日の木津での山城の古墳。まあ無理だわな。できる範囲で。まとまった時間はまずない。ちょこまか。おまけにノートPCが壊れ、新しいのは来たが、切り替えるのも手間。まあ言い訳はよし。覚悟を決め、なんでもかんでもでけへんし、しゃべれるところだけ、早く資料を。打開するため、今日は研究室に泊まりかな。

ああ山城!

◆22日の土曜日に、山城の古墳についてしゃべらないといけないのですが、どうにもこうにもなら ん。この土日しかなく、せっせとやってはいるのですが、あんまりです。梅本さんの編年表を見て、文章を読んで、大学1年時代にコピーした古い報告書のコピーなどをかき集めてはいるものの、新しいところはまったくもっていない。わたしの知識は90年代止まり、とほほです。

申先生ご退職お祝いの会

◆わたしに参加資格があるのかわかりませんが、案内がまわってきて出席すると返事。17時、森ノ 宮KKR。山城シンポの仕事をしていてハッと気が付けば16:30、遅刻!。おまけに八幡丘陵の古墳の文献を読んでいて、大阪城公園駅まで乗り過ごし・・・。着は30分遅れ。
◆会場に入り、空いている席をさがして着席。隣は初村君であった。式は乾杯の挨拶の最中。主催者側の挨拶に、申先生のご挨拶もあったが、聞けず。偉い人たちの席には近づかず、2次会を含めて、久しぶりの人たちといろいろと話をすることができました。そこそこワインを飲む。1次会の終了時には会場から外へ出たところで記念写真。カメラマンの滋賀県Tさんにカメラを渡し、ちゃっかりと生画像を撮ってもらいました。2次会は同じホテルの6階へ。終了後、森ノ宮駅に向かい、3次会に行く人は行く、まあここまでと帰ってきた。
◆申先生には、2003年の約40日の在外研究、直後のCOEがらみの釜山の文化財保護の取材、歴博共 同研究で韓国へ行った際、4世紀の土器の勉強をしたく延長して釜山大博に何日かお邪魔をするなど、その都度、たいへんお世話になりました。この日、昔の映像が投影されていましたが、そのなかに私も1枚写っているのがありました。九博での歴博との年代についての研究会に赴き、そこでも打ち上げで話をさせていただきました。そして2008年の府立博物館の存続問題の時、わざわざ来ていただいたことも忘れられません。そう、釜山大の考古学科記念論文集の時、電話で寄稿依頼されたことも、とてもびっくりしながら、ありがたく、感激でした。
◆常連のみなさんや、留学していたみなさんほどの関係ではありません。しかし、先生に受け入れていただいた2003年の在外研究、この時韓国の遺跡を見てまわったことは大きな財産であり、また大成洞はじめ、わたしの古墳時代研究の視野を広げる大きな転換点になった。心より感謝申し上げます。先生のご健康と、ますますの活躍を、ささやかながらお祈り申し上げます。

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HN:
雲楽
年齢:
60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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