人を幸せにする人になろう

1週間やってみた

◆19日の月曜から出勤。火曜・水曜・木曜と授業をなんとかこなす。研究室にいてPCにむかっての仕事であればやれる、というものでもない。あれをやるために資料を出してくるとか、本を探すとか、それさえ大変だが、どうにか出しても戻すのがメンドウで、そこらへんに置いておく。それが累積すると、あたりが雑然とし、足下が危なくなる。金曜日に頑張ってゴミはゴミ、戻す資料は戻し、本は本棚に戻す。そんなことで、活動力は1/3くらいに感じる(1/3くらいしか仕事はできないと認識すべし)。ぱっぱとやれないのである。トイレに行くにも、コピーを取るにも、ゴミ箱のゴミを外の大箱に捨てに行くのさえ大変なのである。
◆車はありがたい。運転はまったく大丈夫である。そうでないと通勤さえ大変な労働になる。
◆24日の土曜日、奈良女に、奈良女+三重大+京都府大の合同卒論中間発表会に行く。今年から声をかけてもらい加わったもの。12:30~。この日は夕刻から京都で陵墓の会議があるため、最後のところ、自分のところの卒論生の発表を半ば過ぎまで聞いたところで抜けさせてもらう。陵墓の会議の議題は、順調に議論が進み、比較的早めに終わり戻ってきた。帰って久しぶりに風呂で体を洗う。
◆いろんな仕事を列挙してこなそうとしているが、膨大でクラクラする。普段なら、だいたいの優 先度で手をつけ、簡単なものはチョコットやって済んでいるが、いまは絶対に今日やることを決め、それはやるといったやり方にしないとダメだろう。ということで、いま25日の日曜日、朝から研究室にいるが、今週にむけて、仕事を確認しつつ今日やることを決めよう。
【写真】入院中の写真。南面し、平尾山?から日が上り、大県遺跡を眺めていました。2週間、せっせと原稿を書いており、だいたいできあがってきたのですが、さてこの2本、仕上げに時間がかかるとして、もう切られたか・・・。

森ノ宮貝塚をめぐるシンポジウム

◆大学と大阪市博物館協会の連携事業で実現したもの。もっと早くアナウンスすべきだったのです が、現場と入院のドタバタで遅くなってしまいました。申し込み制で、締め切られています・・・。先月末の打ち合わせ時の申込数は(〆切前)、歴博のホールがそこそこ埋まる数字でしたが、まだ余裕はありそうな状況でした。当日の飛び込みもありかどうか・・・。いずれにしても、これにあわせて今は通常は開けていないピロティホールの展示も午前中に公開されますし、歴博でやっている発掘速報展の一画で、森ノ宮貝塚の資料をならべるなど、関連して、いろんなことをやっていただいています。
【追記】〆切後も参加できないかという申し出が連日あるそうです。200名を越えてきて、発案者としてとてもうれしい限り。当日、博学連携なので、大学側として司会の1人で座ってますが、素人的立場から、理解をしてもらう上で質問を振るところは振る、くらいなことはやるつもりです。なので、参加希望の方は歴博に電話し「大阪の縄文の・・・」と言っていただければ、対応いただけるようですよ。

社会復帰

◆すいません。10月4日にカカトを骨折し、翌日入院、翌々日に手術、16日に退院しました。本日、職場にやってきましたが、入院が2週間で済んだとはいえ(最初、城陽市の病院では1ヶ月と・・・)、追いつくのはたいへんそうです。この間にも、ひとつ約束のあった講演をキャンセルさせてもらい、現場指導をひとつキャンセルし、同窓会も見送りとなりました。松葉杖では移動が思うに任せず、行動が著しく制約され、テキパキ処理して遅れを取り戻すのもなかなか厳しそうです。何をするにもスローなので、効率的に動かないといけません。
◆カカトの完治、すなわち完全に前のように体重をかけられるようになるまでには時間がかかる(5ヶ月と・・・)そうなので、これからも多方面にご迷惑をおかけすることになりそうです。申し訳ありません・・・。

久津川車塚9月30日(水曜日)

◆自分、原田、道上、山口、佐藤、園原 城陽市担当者
◆朝からラジコンヘリの空撮。10時過ぎには終了。その間、朝方にはまだ雲があり、調査区を一周しつつ写真を撮る。この写真は使える写真になりうるものだろう。空撮も、雲の切れ間から時折日が差したりして、デジカメデータをぜんぶもらって見たが、日が差しているのは、いいアングルでも使えないものもある。1枚だけ示しておく。
◆そのあとは、ず~とそれぞれ持ち場で実測。北辺・西辺の葺石は平面・立面とも終了。いちばんたいへんな南区は、上の部分は立面の途中。下のもっとも状態のいいところは、平面・立面とも途中。1/20は、2枚完了し、3枚目。このほか昨日に2枚にゆいては調査区フレームができあがっている。あと1日あれば終了できそう。埴輪列1/10はまだ手つかず。土器の出土状況は、長友さんが平面をぜんぶやってくれているが、今日の15時以降、3箇所か4箇所、立面を作る(1/1)。

久津川車塚9月29日(火曜日)

◆自分、道上、山口、大澤、安藤 城陽市担当者
◆朝から3D計測(午前中)午後から、南からの全景写真、排土山2箇所からの全景。この日も天気良すぎ。影が伸びてきて、15時過ぎに終わり?。1/20平面図にかかる。3Dをやった上で測っているとややむなしいが、遺構部分はこっちの認識の輪郭でちゃんと図化することも重要。フレーム等はアラアラでもよいと言い聞かせつつも、やっぱり手測り図となると、あまりいい加減なこともできない。

久津川車塚9月28日(月)

◆自分、原田、道上、佐藤、土井、大澤、園原、吉村、作業員さん3人 城陽市担当者
◆先週末は、写真は土器のところのみ。今日は全景。午前、調査区内の清掃、作業員さんも、シート・土嚢を片付けなどののち、合流。午後、2時頃からか、ヤグラを立て始め、西側および北側からの撮影を終える。天気は雲ひとつない秋晴れ、コントラストが強く、深掘り部ではシャドウもきつい。調査区もカリカリに乾いている。でも、まあいたしかたなし。16時、影がきつく撮影は翌日とし、残り図面を取る。
◆明日、光の加減次第だが、午後から残りの撮影予定。南から全景を撮り、そのあと葺石、埴輪列、埋葬施設等の部分写真に入っていく。3D計測は朝から稼働。なんとか午前中でいいところまで終えられないだろうか。水曜日はラジコンヘリの空撮が午前11時まで。そこからはフルスロットルで図面に・・・。木・金は天気はよくないみたいだ・・・

9月25日から27日、和泉市北田・中の歴史的総合調査

◆翌日、集合時間が早くなっていることを知らずに出かける。とはいえ、8時頃には和泉中央駅に到 着していたのだが、バス停側の反対側に乗り入れ、一周まわってくる間に、第1便を乗せたバスは出発。なんとか、自分の車にあてがわれていた数人を拾って、和泉市でも横山地区の大字北田・中に送り届ける。
◆疲労が回復しないままだが、和泉市合同調査が始まった。予備知識を詰めておくこともできず、必要な地図類データなども用意しないまま、水利班に貼り付く。が、事前にかなり調べてくれており、よくできた図面も既にあった。1日目午前は水利の聞き取り調査、2日目は午前午後とフィールドワーク。3日目は農業の実行委員会の聞き取り。
◆5つの水利系統からなる。横山でもいちばん低地部分。東槇尾川の北では、東の福瀬からの水利があり、南では、南の小野田からの水路が、また岡町側からのものもある。検地帳に上がっている溜 池の特定ができていないものもあり、現状はおよそ把握したが、突き合わせが必要。それと何で川をはさんだ「北田」と「中村」ががっちゃんこしたのか。こういうのが近世の特質か。支配の単位を明確にして村を切る。その時に北田と中村をあわせて単位としたのだろう。中世までの実質的な領域はむろんあるのだろうが、人口と土地からなるムラの規模にもいろいろあって、北田と中村は一緒になったと。その際に近世の村の範囲を定めるときに、むろん実態に規制されつつも、人為的な切り貼りもあるのだろう。元禄からは204石だが、延宝検地段階は288石で、いまは福瀬の溜池も北田中になっており、17世紀の中で調整もあったのではないか。まったくのド素人ながら、そんなことを考えていた。
◆最終日、いつものように研究室に運び込むものを積み込み、ドクター3人と大学へ戻る。自分なりのまとめをしようと地図を少しいじりかけるも、もはや気力は0。

久津川車塚9月25日(金曜日)

◆24日(木曜日)朝、既に雨。写真・図面に向けて、全面シートせず、深掘り部分および上面の埴輪列内にかけていた状態だったので、隙間なくシート掛けする。午前、ひとまず待機とし、京大博に久津川石棺を見に行く。泉屋は閉館。昼過ぎに帰って来るも、雨の状況も芳しくなく、みなの疲れもピーク状況にあり、この日はなしとなる。この日、夕刻の会議・・・、すっかり頭からなくなっていまして・・・。関係方面のみなさん、たいへん申し訳ありませんでした。ぐったりした体を、明日からの和泉市合宿3日もあり、家でず~と寝ていました。
◆25日(金曜日) 全面のブルーシートをめくり、作業員さんは清掃。立命部隊は、北面・西面・ 南面葺石の平面図に取り掛かり、北面・西面については完了。南面については東区(上部)は終了、深掘部に一部とりかかる。
【追記】研究室のネットがしばらく前からつながらず、本日9月28日、ハブをはずし、直につなぐ。

久津川車塚9月23日(水曜日)

◆自分、長友、原田、道上、大澤・園原・木下・白木原、城陽市担当者、+
◆東南隅埴輪の残り作業→完了。土器出土部位の周囲の仕上げ→完了。土製品出土地点の周囲の仕上げ→完了。トータルステーションで、フレーム、葺石・埴輪以外の平面図にかかるが、方針を変更してやめる。
◆午後、墓坑東北隅部の段下げ、そのあと陥没坑のイメージ作り。ひとまず黄色粘質土を下げていく。その下、南半部では黄色い砂質土が顕著で、置き土の可能性のあるものだが、これもずっていることには変わりなく、埴輪も入っている。南小口にむかって上がっていくのだろう。中央部ではもうちょっと礫混じりの土が壁面となる落ちが明瞭だが、そのなかにも埴輪が入る。墓坑埋土の上部と洪水層のはざまにあって、埋土のずった再堆積土とみるのがよいのかもしれない。
◆埴輪片が密に入っており、陥没中心部は黄色の粘土がさらに入り込んでいるとみられるが、現在の掘削で落ち込みに埴輪が入り込んでいる様子を示すことはできているので、およそこれで仕上げて写真としよう。これらの埴輪も図化し(写真起こしになるかもしれないが)、取り上げ、そのあと、さらに下部に続くであろうが、それを採取して、さらにやや下げた状態で再度写真を撮り、そこまでとしたい。動いていない埋土まできちんと出すというところまではやらずともよいだろう。断ち割り断面の層位図は春に図化しているが、再度、点検しておく必要はある。
◆それ以外に、北辺中点位置の大型埴輪の周囲に散っていた埴輪の記録と取り上げ。埴輪列東北隅部の大型埴輪抜き取り坑の掘り上げ、そして埴輪列東辺の据え付け掘形の検出などを行う。布掘りの掘形は東辺・南辺でなんとか線引きしなければならない。
◆土器出地点4箇所について1/1での平面図作成→レベリングまで完了。
◆大学に戻り、ヒストリアの仕事をとも思ったが、できるはずもなく、図面の算段を考え  るので手いっぱいである。

レーダーと磁気探査

◆探査の結果が帰ってきており、レーダーでは深さ1.6m、ほぼ垂直に近く掘り込まれてい る反応をえている。磁気探査の赤は、撹乱溝にあたるので、土のないところの反応だろうと思う。レーダーの青部分は墓坑ときれいにあう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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