人を幸せにする人になろう

生目3

◆在地柄鏡形として説明する方が合理的なのだと思いますが・・・。あえて渋谷向山と重ねれば・・・。墳丘規模はアバウト100 歩なんでしょう。
【追記】これ見直しました。

横瀬

◆横瀬は大仙だと思うが、もうすこし詰めないといけない。前方部東側の調査区はおさまりませ ん。ここ定点がほしいところ。

自民党のなんとか勉強会

◆ひどいですね。とくに百田。朝日新聞によれば、「軽口、冗談のつもり、本意ではない」と弁明したという。小物ですね。本心をはっきり言えばいいのに、言い訳しているのが、なんとも見苦しい。どうせやったら堂々と主張したらいい。安倍も、実際にどういう発言を誰がやったかを確認し、それにたいしてコメントすることを、まったくする気がない。

陵墓となっている古墳の名称

◆次の世界遺産推薦は古市百舌鳥になるのかもしれない。結果は知らないが、もうすぐ発表されるだろう。古市百舌鳥古墳群が世界遺産になってほしいと願う。だが、推薦にあたって、大仙または大山古墳は「仁徳陵古墳」に、誉田御廟山古墳は「応神陵古墳」になった(これ自体はずいぶん前のことです)。森浩一先生のウン十年の取り組みがフイになった。大仙は允恭墓で、誉田御廟山は反正墓だと思っているが、そうした被葬者論の個人的見解ははさておき。現在の日本の考古学では、誉田御廟山はTK73型式期で、暦年代観は分かれるが、年代を上げる見方の根拠である共存木製品の年輪年代は412年あたり。応神没年は古事記から394年とみられている。大仙はON46の須恵器が実際に出土し、これはTK216とTK208の間(216新相)であり、これも暦年代観に差はあるが、TK216にともなう馬具と同じようなものが新羅皇南大塚南墳(トツギ王=458年没)から出ている。TK216と208のハザマがおよそ5世紀真ん中くらい、大仙は450年代くらいというのが一般的な理解。仁徳オオササギの古事記による没年は427年。誉田御廟山は応神没年より新しく、大仙は仁徳没年より新しい。むろん違う意見はあってよいが、現状の日本考古学界の理解では、それぞれ応神と仁徳の墓とみることは困難というのが大勢だろう。
学術的見解からすると、遺跡の名称を固有の倭国王の墓として命名することは不適当であり、少なくとも現時点ではそう決めることはできないとするのが良識的判断。森浩一先生が、そうした固有の倭国王名をあてることの学問的な不具合を指摘し、地元の地名や言い方にもとづき命名すべきとし、ようやく教科書や遺跡名称も、誉田御廟山古墳や大仙古墳で定着をみてきた。しかし世界遺産にするため「応神陵古墳」「仁徳陵古墳」という名称に転じ、登録されれば正式名称として決まる
◆こういう議論をすると、世界遺産登録に反対するのか、という意見がついてまわる。むろんそうではなく、世界遺産になることを望む。が、そのために「応神天皇陵」「仁徳天皇陵」と呼ぶことを受け入れよと言われるなら、受け入れられません。宮内庁は受け入れない「だろう」から、名前が適当でないとの主張=世界遺産反対なのかという言い方は問題をすり替えている。むろんシンドイ議論だ。あくまで宮内庁管理の国有財産だし、むこうの名称を用いるというのはわかる。しかしそこは、議論をし、例えば併記するなどの折り合いをとことん追及すべき重要課題であるはずだ。
◆「応神陵古墳」や「仁徳陵古墳」という名称を使うことは、オーセンティシティの問題に波及する。被葬者がわからずとも、5世紀を中心とする世界的に興味のあるモニュメントとして世界遺産としての価値は十分である。が、構成案件の名称として「応神陵」とか「仁徳陵」とかにしてしまうと、それはほんとうですか、確かめられるのですか、ということになるだろう。
◆古市百舌鳥の世界遺産登録には、こういう問題が横たわっているのである。

味は太市、姿は山城

◆これタケノコの話です。長岡天神の錦水亭に行ったことはないが、乙訓のタケノコは有名。けれど味は姫路の太市なんだそうです。
◆こないだの長尾タイ山古墳の調査から35年の呑み会で、太市に住む恩師に、タケノコの収穫について聞きました。田んぼはもうやっていないが、タケノコは2t出荷しているのだそうです。で、その解説によると、6期に分けられるんだそうです。
◆(1)3月20日前後。このタケノコは前年の10月にでき地中で越冬したものだそうです。なので、堅くエグミがあるということだったか。しかし初物で、においを味わうんだそうです。味噌汁の具。(2)4月はじめ。(3)4月10日前後。ほぼエグミがなくなるのだそうです。で、盛りが(4)4月20日頃で、これがピーク。柔らかく芳醇で、ナマでもばりばり食べられるのだそうです。(5)4月25日頃。大きくなりエグミが出てくると。最後は(6)GWの頃。

東大で

◆聞くところでは、日本人院生は、PCで数値計算をやり、その元データを取る実験はしないんだそうです。「ぼくら計算するから」と。で、手を汚す実験は留学生がやるんだとか。でもまた、留学生だと、言葉の問題もあるだろうし、やっぱり手順とかわからないし指示を待つと。指示をしたらやるんだとか。東大でこれですからね。それぞれの専門分野での、一定の発想やその見込みにもとづき、どういう実験をするのか、そのためにどのような器具を用意し準備すれば有意なデータがえられるのかから始まり、改良を加えていき、その上に実験を繰り返し、確からしさを裏付けていく、そういう研究の本質に直結している実験を回避する日本人。ありゃ~・・・

またまた6年ぶりにサッカー

◆25日、古巣で南北戦があるのだが北は人が少なく来ませんかとのお誘い。発掘でお世話になっ ている院生から当日伝えられる。ええ~、で19時から?、と思いつつ、ほないこかと。膝がようやくマシになってきているのが不安材料だが。前に初瀬川を歩いたとき、展望台があって廃校になった高校があった(磯城高校だったそうです)が、その横に作られた奈良県?のサッカー場でした。ミッチーと田原本からタクシー。
◆短パンとかソックスとか靴とかは用意してくれておりました。始まるまでとにかくランニングし、屈伸をして、膝の準備をしていました。20分3本+延長20分(13人対13人だったか、全員入る)でした。2本目と4本目に出ました。最初はフォワードで、まあなんだか出したつもりがフィットしなかったがボールはデイフェンダーを抜けて通り、ゴールにつながりました。もひとつ、ふんわり高い玉が来たのを、ヘッドでゴール前に送り、これも点になりました。左寄りにいましたが、右サイドから攻め上がっていく時に、ゴール前に詰める動きを繰り返すのはきつく、息が上がる。後半、スローインの時に、自分は青なのに、朦朧としていてなんだか白が味方と思いこみ、相手にボールを入れてしまいました。あかんと思ったら、またサイドを割ったので、スローインを代わってくれと「交替」と言ったら、選手交代になってしまいました。後半途中で外に出る。
◆液体、液体!
◆4本目は左サイドバックで、足の速い向こうの右サイドを止めるぞ、と。最初に一発、絡んだときに、強引にボールを取りに行き交錯し互いにひっくり返る。まあ、ご挨拶。バックスでうろうろしているのは、まだできるかなと。でも、やはり早い動きについていけないというか、切り返そうと思っても、体がいうことをきかないのである。ま、しかし5-1で勝って悪い気はしません。
◆24号線まで送ってもらい、石見駅まで15分ほど歩き、南回りで返りました。写真はなし。歴史研究室のY君はなかなかですな。ひょろりとしてるんですけどね。メンツはまったく入れ替わっておりますが、北の前線にSさんとTさんがいるのを見ると、20年前と同じやん、と。
◆もちろん筋肉痛です。

あ~あ

◆公費・科研とも、納品の検収を受け、またこっちのサインをし、文学部事務室はなくなったので別の建物の会計係に書類をもっていき、処理をお願いする。これでも15分はかかるんとちゃう。生協なんか、責任もって検収印をもらい、直、事務所にもっていってくれてたんだけど。まあ、研究費もないし、限られた頻度ではあるが。むろん人削りは、事務職員の方がきつく、教員にもやらせろ、というのはわからんでもないが、そもそもウン千万円とか億単位の研究費で、というか、だからこそ不正があるわけでしょ。8000円の物品費に、そこまでの煩瑣な事務処理をやらせる無駄。教員の時間を奪う、この国のアカデミズム。山中伸一ではないが、米国とはぜんぜんちゃうんでしょうね。
◆なんかの委員をやれと。書類が来る。前はそれをもっていったら、事務処理をやってもらえてた。今年度からは、起案?の書類を教員にやらせる。おかげでメンドウだしひとつ寝てますよ。すいませんK市さん。簡単な書類で、1回やったら委員名だけかえればいいんだろうけど、こんなことまでやらすか。給料下げてもらって、こういう事務処理から開放してもらった方がマシではないかな。

淡路の旅(10)野島断層

◆これ天然記念物に指定された、阪神淡路大震災時に表出し段差となった断層跡、ならびに断ち割り断面の展 示施設。できあがったばかりの時期に見せてもらったことがある。この日、到着が17:10でアウト、入れなかった。でも、間に合っていても、入館料が700円というのを見ると、見送ったかもしれません。700円取るか?、タダにせえ。で、表側の外からガラス越しにのぞき、断層の表出の部分は見えたが断ち割り断面は見えなかった。
◆閉館後に到着したので、この6月の日曜日、昼間の有料入館者数がどのくらいあるのかわからんが、一度見た人はもう来ないのではないか。

淡路の旅(9)ゴッサ垣内遺跡

◆で、ゴッサ垣内遺跡に。海岸から4キロほど内側?。高地性集落であり、弥生後期の鍜冶工 房が出てきて著名。すぐに史跡になり、整備が進められる。ガイダンス施設あり。瀬戸内海が見わたせる。北部九州の脅威は・・・。
◆職員さんが1名おられ、まずビデオ見ますかと。見る。最後、この集落がなくなり、邪馬台国ができる、というところで、思わず違う!、と。ヤマト国はもうあるで。
◆それはともかくも、鍜冶体験とか、いろいろとやっており、そのための竪穴風体験施設を兵庫県教委が作ったらしい。史跡地にいいんでしょうかね。けっこう広域で、傾斜の高い方まで整備が進行中だが、足をのばす余力なく、ガイダンス施設のある中心的な一画のみ。いろいろ思うところはあった。ひとつは、実物を展示する施設がないこと。話題になり、淡路市も力を入れているわけだが、これまた市役所でも何かの文化施設でも、展示すればいいのにと思う。それと史跡整備され、けっこう話題になった遺跡だし、それなりに見学者は訪れると思うが、維持していくのはたいへんかなと。まあ、このくらいにしときます。
◆遺跡としてはいろいろ考えなあかんのでしょうね。それ以前の集落はやはり下なんでしょうし、なんで山に上がるのかとか、もうすこし広い範囲での集落動向のなかで考える必要がある。塩津山丘陵と比べてどうなんか、といったことも考えていた。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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