人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
再度言う
◆防衛省予算は5兆円、100億円の無人探査機、何十億円かのオスプレイ、1000億円のイージス艦、そんなものには金を投入するが、国立大学の金は削ると。教育よりも武装が大事なんです。憲法第99条には、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。解釈改憲について、憲法違反で訴えればいいのに。そういう国なんです。どうしてもホルムズ海峡で機雷除去をやったりしたいのです。中国や北朝鮮が脅威とあおり、情勢は変わっている、対応せなあかんと。外交努力をすれば5兆円浮きまっせ。戦争をしない、軍隊をもたない、人類史的な実験に挑戦すればいい。
考古研の同窓会開催案内
◆日曜に第3回目の幹事会に出かけました。現役の学生・院生も参加してくれました。うちのサテライトの談話室も日曜日は休みなもんで喫茶店でした。現時点で140名ほどの住所を把握しました。そう開催日は10月12日(祝)と決まりました。さてその案内文の文案もその日の午前中に作っておりました。ハガキで開催案内を出し、出欠返事は専用のメルアドを作り、そこへということにしたのですが、開催案内は結局はこちらがやらなあかん、ということ。毎日がサンデーの人にやってほしいものです。現役はそんなヒマじゃねえ、とそこはそうも言えず・・・。
宣化は即位した?
◆今日の授業で継体末年の話をする。宣化って何なんだ、と前からず~と考えているが、まあ即位してないんとちゃうかなと。安閑が535年にたぶん殺されたんだと思うが、宣化は蘇我と近くなりみたいな話を読んだことはあるが、積極的にそういえる根拠はあるんだろうか。鳥屋ミサンザイはしかし、即位してないとすれば大妃墓ともいえんわな。そうすると大兄墓。いかん、また循環してきた。
◆巨勢男人は大臣なんですね。市尾墓山は70m。大臣の墓はそれくらい?。断夫山や岩戸山や、七輿山はそれよりはるかに大きいぞ。
◆歴博の研究報告と、考古学研究の論文を書き始めました。歴博の研究報告は何を書くか、いまだに腰が据わってないのですが、ひとまず纒向石塚の報告書をぜんぶ読むところから始めました。考古学研究の原稿を書くために、鏡の専門家にご教示をいただいていますが、難解というか、まあついていけません。淮派とか呉派とか言われても消化するのは難しいのです。少しずつ、少しずつ、まあやってみましょう。
◆巨勢男人は大臣なんですね。市尾墓山は70m。大臣の墓はそれくらい?。断夫山や岩戸山や、七輿山はそれよりはるかに大きいぞ。
◆歴博の研究報告と、考古学研究の論文を書き始めました。歴博の研究報告は何を書くか、いまだに腰が据わってないのですが、ひとまず纒向石塚の報告書をぜんぶ読むところから始めました。考古学研究の原稿を書くために、鏡の専門家にご教示をいただいていますが、難解というか、まあついていけません。淮派とか呉派とか言われても消化するのは難しいのです。少しずつ、少しずつ、まあやってみましょう。
博物館実習で
◆理学部の資料を調べてます。2週間、共通教育の実験棟の標本類を調査して、だいたい終わった。 完全に終わったかどうか、各班の調書を点検し確認が必要。これ地球学科。今日は、二手に分けて、生物学科の研究室を調べる班と、地球学科の倉庫の調査に着手した。岩は重い・・・。生活科学にも問い合わせて、建築関係の模型などあると聞いていたような気もするが、実際に聞くとほとんどないと。
◆来週は、すこし目先をかえて、今度、大学史が移転する際、展示機能を強化しようとしており、ひとまず初代学長の恒藤恭の常設展示のプランを考えないといけないのですが、それを実習でやってみようと思ってます。日記とか、手紙とかスケッチとか、芥川書簡とか、主だったものを見せてもらい、展示予定スペース(いまの学長室ですわ)を確認した上で、展示プランを各班で考えてもらおうというもの。
◆またいずれ図書館にも突入しようかと。古文書とか絵図とか、江戸期の版本や稀覯本など、いまは図書扱いで入れてしまっているが、本来は貴重な資料として図書館の管轄でなくていいものもあるとのこと。そういう資料の存在を確認していくという作業。
◆まあ、そんなんで、調書を取り、写真を撮り、資料を把握するということをやっています。これ、こっちが大学ミュージアムを念頭にやっているのだが、博物館実習としても実践的訓練になると思ってやってます。履修生は、みなちゃんとやってくれています。今日のホルマリン漬けの魚はちと気持ち悪かった。
◆来週は、すこし目先をかえて、今度、大学史が移転する際、展示機能を強化しようとしており、ひとまず初代学長の恒藤恭の常設展示のプランを考えないといけないのですが、それを実習でやってみようと思ってます。日記とか、手紙とかスケッチとか、芥川書簡とか、主だったものを見せてもらい、展示予定スペース(いまの学長室ですわ)を確認した上で、展示プランを各班で考えてもらおうというもの。
◆またいずれ図書館にも突入しようかと。古文書とか絵図とか、江戸期の版本や稀覯本など、いまは図書扱いで入れてしまっているが、本来は貴重な資料として図書館の管轄でなくていいものもあるとのこと。そういう資料の存在を確認していくという作業。
◆まあ、そんなんで、調書を取り、写真を撮り、資料を把握するということをやっています。これ、こっちが大学ミュージアムを念頭にやっているのだが、博物館実習としても実践的訓練になると思ってやってます。履修生は、みなちゃんとやってくれています。今日のホルマリン漬けの魚はちと気持ち悪かった。
安保法制は違憲といわれ
◆3人の参考人である法学者が3人とも違憲だと言い、そんなあほなことあるかいと与党は反論。全国の法学者よ、バカにされてるのとちゃいますか。法律の専門家のいうことなんぞ、取るに足らん、と言われているのですよ。一斉に蜂起した方がいいのではないですか。専門家が尊重されない。一定、それを認めながら、しかし、という言い方をするのでもない。
◆法科大学院について、お前のトコロやめろと指示できるようにするとかなんとか、しばらく前に記事にありました。文科省が法曹人を増やすために作ったものでしょ、そのために大学は金をかけて体制を整え、環境整備などして対応したのですよ。それをあんた、すっかり道筋を別のものにして、お前らの言うとおりやったものをつぶしにかかるんか。金返せ。保証しろ、ということだ。間違ってましたと頭を下げんかい。
◆文科省の言うことなんぞ、しばらく寝かして様子を見ることです。さっそくに対応することが無駄になることが多いんとちゃいますか。なんか言っとる、くらいで。恫喝があっても、やってみい、と開き直ればよい。
◆国立大学の人文系など、役に立つ人材を育てられないところをつぶすといった記事が出てまし たね。あほちゃうか。いま地方を元気にする大臣を置いているんと違うんですか。人口が減る中で、いかに自律的に地域がまわっていくように、各地で頑張っているし、文化庁だけでなく、国交省も町づくりということを政策に掲げるようになっているのではないのですか。地域に暮らし働き、そこで地域のために生きていく、地域のためによかれとおもうことをやる、そういう学生を育てないといけない。地域の培ってきた文化や歴史こそが、固有の拠って立つべき重要なファクターで、そういうものを大事にしながら、人づくり、町づくりをやろうとみんな頑張ってます。それこそ、それぞれの地域の地勢や地理や、自然環境、人の暮らし、歴史、文学、民俗、芸能、気質、そういう広い意味の文化がそれぞれにあり、それを研究するのが人文学でしょ。そういうものは研究せんでいいという宣言ですよ。日本文化は東京や、と言われているのに等しい。そんなあほなことがあるかい。そういう直接的な人文学の必要性のみならず、人文学というのは、人々が生きていくベースに経済でなく考え方としての文化を据える、そういう人間を育てていくという大事な仕事がある。何か役に立つ技術開発とかそういうことも必要でしょう。けど、そういうものだって、それを誰のためにどう使うか、というのは人間性の問題です。ハートがなく、それが自分らだけが、会社だけが、日本国だけが、金を儲け、いい暮らしができればいいという思考のヤツばかりなら、なんぼ技術ができても意味はない。
◆理系のいろんな分野があり、とても1大学でぜんぶカバーなどできやしないでしょう。そこは全国にあまたの大学があり、自分のやりたいことに合致する大学院に進学すればいい。人文学は、どの地域にも、人の暮らしある限り、生きた人々がおり、残してきたものがあり、それを研究する必要なものなのである。
【追記】うちの文学部、2000年に赴任したころは108名の定員だったが、いまや69名です。さらに減るようです。
◆法科大学院について、お前のトコロやめろと指示できるようにするとかなんとか、しばらく前に記事にありました。文科省が法曹人を増やすために作ったものでしょ、そのために大学は金をかけて体制を整え、環境整備などして対応したのですよ。それをあんた、すっかり道筋を別のものにして、お前らの言うとおりやったものをつぶしにかかるんか。金返せ。保証しろ、ということだ。間違ってましたと頭を下げんかい。
◆文科省の言うことなんぞ、しばらく寝かして様子を見ることです。さっそくに対応することが無駄になることが多いんとちゃいますか。なんか言っとる、くらいで。恫喝があっても、やってみい、と開き直ればよい。
◆国立大学の人文系など、役に立つ人材を育てられないところをつぶすといった記事が出てまし たね。あほちゃうか。いま地方を元気にする大臣を置いているんと違うんですか。人口が減る中で、いかに自律的に地域がまわっていくように、各地で頑張っているし、文化庁だけでなく、国交省も町づくりということを政策に掲げるようになっているのではないのですか。地域に暮らし働き、そこで地域のために生きていく、地域のためによかれとおもうことをやる、そういう学生を育てないといけない。地域の培ってきた文化や歴史こそが、固有の拠って立つべき重要なファクターで、そういうものを大事にしながら、人づくり、町づくりをやろうとみんな頑張ってます。それこそ、それぞれの地域の地勢や地理や、自然環境、人の暮らし、歴史、文学、民俗、芸能、気質、そういう広い意味の文化がそれぞれにあり、それを研究するのが人文学でしょ。そういうものは研究せんでいいという宣言ですよ。日本文化は東京や、と言われているのに等しい。そんなあほなことがあるかい。そういう直接的な人文学の必要性のみならず、人文学というのは、人々が生きていくベースに経済でなく考え方としての文化を据える、そういう人間を育てていくという大事な仕事がある。何か役に立つ技術開発とかそういうことも必要でしょう。けど、そういうものだって、それを誰のためにどう使うか、というのは人間性の問題です。ハートがなく、それが自分らだけが、会社だけが、日本国だけが、金を儲け、いい暮らしができればいいという思考のヤツばかりなら、なんぼ技術ができても意味はない。
◆理系のいろんな分野があり、とても1大学でぜんぶカバーなどできやしないでしょう。そこは全国にあまたの大学があり、自分のやりたいことに合致する大学院に進学すればいい。人文学は、どの地域にも、人の暮らしある限り、生きた人々がおり、残してきたものがあり、それを研究する必要なものなのである。
【追記】うちの文学部、2000年に赴任したころは108名の定員だったが、いまや69名です。さらに減るようです。
けいたいさん
◆継体はやはり王族で、息長氏とみるべきではないとのこと。ワカノケフタマタがおり、オオホド王がいて、オシサカオオナカツヒメがいると。倭国王が重要な拠点に王族を分封するということは、古墳時代にあると考えるべきなのでしょう。太田茶臼山は、森田さんの言うようにオオホドとみるのが妥当なんだと思います。応神394没、継体527没、単純な割り算で、1世代25年。オオホドはほぼ450年前後没となり、茶臼山にふさわしい。フタマタは425くらいで、墓山とかがいいのかもしれません。
◆三島の王族墓といえるのは茶臼山で、誉田御廟山型というのが妥当なら、フタマタ王家の次世代のオオホドは反正の段階に三島に封じられたということになる。王族の分封ということを考える上で、茶臼山は重要な位置を占める。
◆問題はそのあとで、1世代のみ。妹が允恭のキサキとなるも、三島の王としての地位は次世代では認められないということ。オシサカオオナカツヒメが允恭キサキであるので、一定の優遇が続いてもよさそうだが、そこは厳しい対処といえようか。三島県というのも、茅渟県などを考えれば、オオホドを送り込んだが、直轄化に移行し、領地は取り上げられ、三島県を設け、その管掌は県主にまかされると。フタマタ王家としては、オシ王、ウシ王と続くものの、オオホド後はどこへ行ったのか。田中大塚がどうのこうのという議論があったが、あれは何だったか(読み直そう)。近江に移されたのでしょうか(フタマタ王家の奈良南部の領地であるオシサカは、ナカツヒメ後も伝領されていくのでしょうが)。
◆即位前の継体は、どこにいたんでしょうか。やはり近江なんでしょうかね。近江各地や北陸や尾張との関係が深く、婚姻関係を結ぶが、王族としての出自は三島にあり、山城を含めてオオホド王との関係も引き継がれているのでしょうか。恵解山は上石津ミサンザイ型で、久津川は誉田御廟山型とみているが、その上には太田茶臼山があって、密接な関係を保持していたとみられ、允恭即位後、退転はするものの、そうしたつながりは完全になくなるわけではないのだろう。継体が担ぎ出されることにより、三島県を王権拠点にしたと。
◆継体は日常、どこで政務していたんだろうか。隅田八幡の鏡で503にオシサカにいると。磐余宮は即位後20年も経ってからだと。入れなかったというが、そうではないと。一方で、今城塚こそ、王宮か王墓という議論において、大和じゃなく、権力基盤と思われる地に王墓を営んだとみられる事例になり、河内の王墓だって、王宮伝承のある奈良南部じゃなく王墓造営地こそが本拠地だという根拠として考えてきた。が、本拠地は三島と考えながらも、大和に入れなかったわけじゃないという議論、そして6世紀に奈良南部が中心になってくるイメージから、権力基盤は三島にあるが、奈良南部にいるんだろうと漠然と考えてきた。が、森田さんは三島やと思っているのだと思う。その主張を読んでいると、そうかもしれないなと。自分の勢力基盤という意味のみならず、畿内のなかで東西日本をつなぐ要所にあるのが淀川流域の三島で、大和・河内という古い王権に対し革新的な意義がある。
◆継体にとって、三島は権力基盤ではあるが生まれ育った場所ではなく、王位に就き大和の御田を与えられるも、もっと疎遠である。王権を支える中央豪族は、それぞれ大和にも河内にも本拠をもつ。大伴は大和築坂はわからんが最終的に住吉に引きこもる。物部も中河内と布留。大臣や大連とともに合議するとして、その前は河内であったわけであり、それが三島になるだけか。継体の王宮として、樟葉・乙訓・綴喜はあっても三島はないとの意見はあろうが、それらよりも三島のどまんなかの方がふさわしい。大伴も物部もその他中央豪族は、三島に必要な場合にはせ参じる、それでよいのではないか。継体については、そう考えるようになった。
◆次の世代である。とはいえ、安閑は即位するも排除されるわけだが、継体生前の話である。マガリ大兄とセンカという2人のメノコヒメを母とする子がいる。で、安閑未完陵である河内大塚山は松原にある。センカはよくわからないが、宣化陵は大和の畝傍山の西にある。王墓の所在地こそ本拠地との論理からすれば、安閑の本拠地は丹比である。そこは古市の本拠地でない、やや西に寄った位置であることが意味深長か。しりきれとんぼです・・・
◆いや~、近畿にいる者としては、吉備や日向のこともやれば面白いのですけど、それより近畿の古墳のあり方から話を作っていくのが本務だと改めて思うわけです。古墳の年代もかなり詰まっている、倭国王墓との関係について墳形はやはり有意。そういうことをふまえ、また記紀を参照すれば、もっと立体感のある歴史像を打ち出すことができるのでは、そういうことに一所懸命にならんとあかんな、と思う次第。どこから手をつければいいのか、しんどいですが。
◆三島の王族墓といえるのは茶臼山で、誉田御廟山型というのが妥当なら、フタマタ王家の次世代のオオホドは反正の段階に三島に封じられたということになる。王族の分封ということを考える上で、茶臼山は重要な位置を占める。
◆問題はそのあとで、1世代のみ。妹が允恭のキサキとなるも、三島の王としての地位は次世代では認められないということ。オシサカオオナカツヒメが允恭キサキであるので、一定の優遇が続いてもよさそうだが、そこは厳しい対処といえようか。三島県というのも、茅渟県などを考えれば、オオホドを送り込んだが、直轄化に移行し、領地は取り上げられ、三島県を設け、その管掌は県主にまかされると。フタマタ王家としては、オシ王、ウシ王と続くものの、オオホド後はどこへ行ったのか。田中大塚がどうのこうのという議論があったが、あれは何だったか(読み直そう)。近江に移されたのでしょうか(フタマタ王家の奈良南部の領地であるオシサカは、ナカツヒメ後も伝領されていくのでしょうが)。
◆即位前の継体は、どこにいたんでしょうか。やはり近江なんでしょうかね。近江各地や北陸や尾張との関係が深く、婚姻関係を結ぶが、王族としての出自は三島にあり、山城を含めてオオホド王との関係も引き継がれているのでしょうか。恵解山は上石津ミサンザイ型で、久津川は誉田御廟山型とみているが、その上には太田茶臼山があって、密接な関係を保持していたとみられ、允恭即位後、退転はするものの、そうしたつながりは完全になくなるわけではないのだろう。継体が担ぎ出されることにより、三島県を王権拠点にしたと。
◆継体は日常、どこで政務していたんだろうか。隅田八幡の鏡で503にオシサカにいると。磐余宮は即位後20年も経ってからだと。入れなかったというが、そうではないと。一方で、今城塚こそ、王宮か王墓という議論において、大和じゃなく、権力基盤と思われる地に王墓を営んだとみられる事例になり、河内の王墓だって、王宮伝承のある奈良南部じゃなく王墓造営地こそが本拠地だという根拠として考えてきた。が、本拠地は三島と考えながらも、大和に入れなかったわけじゃないという議論、そして6世紀に奈良南部が中心になってくるイメージから、権力基盤は三島にあるが、奈良南部にいるんだろうと漠然と考えてきた。が、森田さんは三島やと思っているのだと思う。その主張を読んでいると、そうかもしれないなと。自分の勢力基盤という意味のみならず、畿内のなかで東西日本をつなぐ要所にあるのが淀川流域の三島で、大和・河内という古い王権に対し革新的な意義がある。
◆継体にとって、三島は権力基盤ではあるが生まれ育った場所ではなく、王位に就き大和の御田を与えられるも、もっと疎遠である。王権を支える中央豪族は、それぞれ大和にも河内にも本拠をもつ。大伴は大和築坂はわからんが最終的に住吉に引きこもる。物部も中河内と布留。大臣や大連とともに合議するとして、その前は河内であったわけであり、それが三島になるだけか。継体の王宮として、樟葉・乙訓・綴喜はあっても三島はないとの意見はあろうが、それらよりも三島のどまんなかの方がふさわしい。大伴も物部もその他中央豪族は、三島に必要な場合にはせ参じる、それでよいのではないか。継体については、そう考えるようになった。
◆次の世代である。とはいえ、安閑は即位するも排除されるわけだが、継体生前の話である。マガリ大兄とセンカという2人のメノコヒメを母とする子がいる。で、安閑未完陵である河内大塚山は松原にある。センカはよくわからないが、宣化陵は大和の畝傍山の西にある。王墓の所在地こそ本拠地との論理からすれば、安閑の本拠地は丹比である。そこは古市の本拠地でない、やや西に寄った位置であることが意味深長か。しりきれとんぼです・・・
◆いや~、近畿にいる者としては、吉備や日向のこともやれば面白いのですけど、それより近畿の古墳のあり方から話を作っていくのが本務だと改めて思うわけです。古墳の年代もかなり詰まっている、倭国王墓との関係について墳形はやはり有意。そういうことをふまえ、また記紀を参照すれば、もっと立体感のある歴史像を打ち出すことができるのでは、そういうことに一所懸命にならんとあかんな、と思う次第。どこから手をつければいいのか、しんどいですが。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。