人を幸せにする人になろう

蘇鉄

◆離宮八幡宮にあった蘇鉄。新しい葉がのび、くるくる巻いた状態の姿がならぶ。

山崎を歩く

◆とはいえ時間は限られていて、さっとだった。離宮八幡、国境、駅家跡など。離宮八幡には、油 祖像なるものがあった。で、山城/摂津の国境。こないだ備前と備中で見 たのとほぼ同じ石の標柱がある。江戸時代に統一的に立てさせたのですかね。ここでもまた小河川というのか溝が国境である。
◆京都駅に出て、昼飯、というより飲み屋で呑み・・・、西大寺に向かう。14時から16:30。17時頃から、西大寺でえんえんと呑み会。ついつい飲み過ぎる年数回の委員会後の懇親会である。今回もまた、八木から準急に乗るも、八尾まで行き、引き返したら関屋、そして家に帰り着く。ふとんに倒れ、朝まで同じ格好だった。翌日またまたアルコールで頭がしんどかったが、無事、懸案である大阪の歴史演習、大歴の委員会をこなす。
◆しかし、いろいろ整理すると、あれやこれや、やることが多いことに愕然とする。日々、その日暮らしで、毎週毎週なんとか乗り切っているが、7月にかけて仕事が山積。あんまり呑んでいる場合ではないですね。が、土曜日は姫路で高校時代の恩師とクラブの先輩や後輩(4学年)と呑む予定が入っております。

2015年6月14日、大山崎山荘

◆午後から条里制研の委員会がある。前々日、一人で酔っぱらい、前日の土曜日は丸1日あったの に、二日酔いで能率悪く、岩屋山の墳丘復元などをやってつぶしてしま い、非効率なこと。大歴の大会議案をまとめてないし、大阪の歴史演習の個別相談の準備もやってないし、朝だけでも仕事に行こうかと思っていたが、まあなんとかなるさで、大山崎山荘に行く。1週間前に新聞に出ていて、来客も多かった。前に乙訓の見学会で資料館に立ち寄ったとき、ランの画譜の原画が展示してあり、学芸員の方に丁寧に説明いただいて、前から行きたいとは思っていた。また、山崎は見所がたくさんあるが、前の見学会の時は雨で、車から降りて町歩きはしなかったし。
◆ということで、JR山崎に降り立つ。踏切で、てっちゃんが5人ほどカメラをならべている。山を上 がっていき、山荘に入り、美術館を見学する。900円。保存問題の経緯も知 る。美術品はモネの絵があるのと、あとは陶器だが、まあさっと見て、デッキでビール。天気が良ければ、正面に男山があり、3河川が合流し、南山城が見晴らせるが、どんより。

2015年6月17日

◆朝、伏見に行き、現場を見る。オヨヨ、SK大N氏、H市S氏、K市K氏がおられた。帰ってきて、博 学WGの会合。そこから、今日は何かするのでなく、ひたすら片付けを、 と。とはいえ、資料を片づけていると、なんかやってみたくなり、脱線気味。土曜日がだいたい1週間の片づけの日になるが、そこが行事等でつぶれると、平日の乱雑さが解消されないまま次の週へ。片づける前の研究室の惨状です。
【追記】記者発表があり新聞報道されました。金箔瓦でなく、石垣の写真が出ないもんですかね。それと指月城の全体推定の上での今回の位置を示すような図。

尾上車山

◆いわゆるギリギリ山です。岡山市マイブンセンターの紀要を送っていただきました。若き同志が 測量調査をやってくれています。うれしいですね。話は前に聞いていた。図面を見ると、そして形象埴輪があるというので、渋谷かなと。でやってみました。1000分の1にして、渋谷の既存が2000分の1で重ねると、そのままいける。ちょうど1/2ということですね。
◆改変はあるが、前方部の2段分は説明可能というか、あてはまっているように見え、後円部についても、渋谷のテラスに相当する部位に、ちゃんと平坦面もありそうに見えます。どうでしょうか。

依羅池の機能

◆もうさんざん明らかにされているのかもしれませんが、読んだことはありません。大阪の歴史演 習というので、社会人で住吉区のガイドをされている方がおり、セミプロみたいな人です。その方が依羅池のことを調べており、聞かれても、むこうの方が勉強していて、答えられないという悲しい現実。が、7世紀の開発とか、この地域の条里ともかかわり、関心はある。で、そこに大阪市立大学も乗っている。我孫子の台地。タンボにはしにくい。で台地上で地形がよくわからん。
◆いつも使う大阪府1961は、大阪市域のこのへんは区画整理がされてしまっていて、条里は消えている。やはり明治の仮製図に立ち戻る。この地図、等高線をかなり明瞭に入れてくれているので、それをなぞり、色20%乗算で重ねて高まりを表現する。それと水田域が明示されているので、それを緑でと。
◆こうして考えると、よさみ池は、西除川の西側、赤の破線のところに水路を通さないと、その間は耕地化できません(灌漑域A、上)。それと、池から細江川につながる部分の水田域(B)。メインはAの方かと思う。西除川自身もつけかえている可能性があると思いますが、そういうことが言われているかどうかは不明。が地形的には、西除川の東側に谷筋が入るので、本来であれば、そこを流れているのだろうと。それをやや西に振った可能性はあるように思います。しかしそれだけではまだダメで、A域を灌漑するには、西除川の上流部からさらに高いところに水を引き、よさみ池を作り、そこから水路を引かないとAは無理。A域を灌漑するために、よさみ池を作ったのかな、と。まあ、そんな風に思います。
◆西除川から水路をさらに西に引き、池に引水していることはわかるのだが、池から出て行く水の水路については、神社蔵の絵図には表されていない。しかも大和川が18世紀初頭に付け替えられ、新大和川下流側の水利は一新され、西除川筋の水利も、村が離脱していくとのことで、大和川付け替え以前の水利関係は、江戸時代の中で不明瞭になってしまっているのかもしれません。とにかく、よさみ池、近世史の問題でもあるが、古代史の話である。崇神朝に書いてあっても推古朝がほんまだろうと、そういう議論はあるけれども、で実際に何を目的にして造営されたのか、そういう話はこうした作業をしないとわからないのである。がしかし、近世に改変されているので、それ以前の姿を復元するのも一苦労。けっこう読まないといけないし。まだ序の口。が、基本的機能の骨格はこれでいいのではないか。

秋の講座に続き

◆市大の文化交流センターの講座、2012年度に古墳でやり(企画+1回)、2014年度に上町台地科研の成果でやり(1回担当)、2015年度はまた企画を考えよということで、台場でやろうとしている。
◆と思ったら、小豆島からメールが来て、大阪城と石切丁場で話をせよ、と。小豆島の石切丁場をめぐりたいと思いつつ果たせていないが、こういう形で機会をいただけるのはありがたいことである。が、専門でもないし・・・。
◆とはいえ、これまで大歴でいろんな機会にやってきたことが、いろんな種を播くことになり、つながっていくことはうれしい限り。専門でない故に、素人的立場から、いまわかっているところをわかりやすく伝えるメッセンジャーになれれば、そういう役割として求められているなら、やろうかなと。

岩屋山の墳丘がわかりませんかね~

◆難問です。明日香村の図と、奈良県の図と、方位も違うし、まあよくわかりません。奈良県の図 をベースに明日香村の図をあわせトレンチを落とし、いろいろやってましたが、住宅地図で見ると、石室は南面してません。かなり振れはある(10度)。奈良県の図の方位は真北でない。磁北だとこんなんなんですかね。
◆西宮の復元図を参考に、天井石部分を上段、羨門部の先端を中段とし、いちおうその下にももう1段あるとしました。玄室奥壁が墳丘中心でもあるのか、そのへんがわかりませんが、残存墳丘の状況からそう考えて、北側は折り返します。なかなか痩せ細った墳丘で、いまの等高線から多角形状だということは危ういかも。明日香村トレンチでのバラス残存状況から指摘されているようですが、いまの復元案のような8角にせよ、これを22.5度ふったものであれ、説明がつく位置ではない。まあ、しかし上段部相当の墳丘はそこそこ8角的か。下段があるかどうかも怪しいかも知れませんが、東北に残丘があって(逆?)、その間が溝状のようで、それからすると方墳ではしんどく、8角にしてみると、辺としてはいいのかなと。
◆段の塚の8角が南北東西に稜角が張り出す設定とされており、それが7世紀後半には方墳の隅落としの8角になるとされている。右の図は、古いタイプでないということになるので、そのへんがしっくりきません。

あそびで

◆新聞記事を見て、改めてグーグルで場所を確認してみました。そうすると、小山田遺跡の画像 は、なんと昨年の発掘中の写真です。シートがかかっていますが。で、その正方位との振れも確認できる。そうすると、西へ行ったところの墓地の高まりが気にかかる。方向はほぼ同じで、方墳らしい。こっちのがやや小さいか。

松井さんがなくなった

◆知りませんでした。昨日は3つ授業があったもんで、どっからか電話が入っていたのかも知れません。本日10日に帰ってきて新聞を見るまで知りませんでした。今日のお通夜に行くべきでした。明日、日中の告別式に行けないこともないのですが、木曜日は授業と研究会があり、考古の院生・学生に向き合う日で、これを優先することにします。
◆いつだったか、2年前くらいか、条里制研究会の委員会で奈文研に行き、終わって外へ出たら、松井さんが犬の散歩をしていたのにでくわし、研究室に誘われ、お茶をいただき、中国の学会の話を聞かせてもらったが、それが最後だったか。64歳は若すぎます。一匹狼的なところがあり、自力で道を切り開き、研究費を取り、機械を買い、分野を作っていった苦労はわれわれにはわからない。一方で、いろんな制約もありつつも、国立の研究機関に職を得て、やりたいことをやってこれたという面もあるのでしょう。めんどうみのいい人だったと思います。ぜんぜん人との間に壁をつくることもない。平城の若造との接点は日常的にはほとんどなかったが、研究の話をする時の語りで、熱意はよくわかりました。たぶん、山中先生とは気があうのでしょうね。山中先生もよく松井さんの話をしていたし、その山中先生が死んだことを最初に聞いたのは、上で書いた時の松井さんからだったと記憶します。
◆明日は行きませんが、こころのなかで、お見送りしたいと思います。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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