人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
そのあと背ノ山に行ったんです
◆前から行きたかったんですけど、つきあってくれるというので接近。斜面は果樹園で道は付いて いる。で、1周したのち、山道を上がっていきました。まあ農道で細いので すが、なんとかたどりつきました。畿内と畿外を分ける丘陵地で、電波鉄塔が建っている。二の峰といったか、頂部は背山と妹山という2こぶになっている。南の紀ノ川に面しているのは背山。
◆右が東の畿内を見たところで、左が西の紀伊を見たところ。とはいえ改新時の話です。頂上に神社があり、説明看板がひとつ。樹木の植え込みがめぐり、公園風にしており、ベンチもある。が、やはり訪れる人は少ないのだろうし、維持できていないみたい。東西方向の見通しがつくように、両サイド、一定の伐採をしている。しかし、南面、紀ノ川の地狭部を見下ろすには、うっそうと樹木が茂り、ここで地勢が区切られているという姿を一望することはできない。
◆いい場所なんで、きっと前期古墳があると思っているのだが。パッと見では、神社のところが一段高いが、明らかにマウンドといったものは見あたらないが・・・
◆右が東の畿内を見たところで、左が西の紀伊を見たところ。とはいえ改新時の話です。頂上に神社があり、説明看板がひとつ。樹木の植え込みがめぐり、公園風にしており、ベンチもある。が、やはり訪れる人は少ないのだろうし、維持できていないみたい。東西方向の見通しがつくように、両サイド、一定の伐採をしている。しかし、南面、紀ノ川の地狭部を見下ろすには、うっそうと樹木が茂り、ここで地勢が区切られているという姿を一望することはできない。
◆いい場所なんで、きっと前期古墳があると思っているのだが。パッと見では、神社のところが一段高いが、明らかにマウンドといったものは見あたらないが・・・
3週目が終わった
◆なんとか火曜日の授業3つをこなし、GWです。ちょっと処理能力を超える雑用量で、それが溜まっている が、早めに片付け、GWの課題に向かう準備をせねば。
【写真】日曜日に和歌山紀美野町でタンボを鋤きました。とはいえ、もう作ってないんですけどね。月1ぺんでも、めんどう見れて、カミサンの両親に負担をかけないなら、米を作ってもいいのですが、そこまでの決意はできません。で昼に北側を見ると、シュロが植えてあり、槇の木が2本。いずれも先端が2つあって、面白いなと。
◆考研の発表もあり、危機感をもって望んだからか、市大日本史の編集作業は順調に来ている。あと入っていない原稿は、自分の書評・・・、とほほです。それとこれも自分がいつもまとめている研究室便り・・・、とほほです。これはバトンタッチですね。来年からは若いモンに任せよう。
【写真】日曜日に和歌山紀美野町でタンボを鋤きました。とはいえ、もう作ってないんですけどね。月1ぺんでも、めんどう見れて、カミサンの両親に負担をかけないなら、米を作ってもいいのですが、そこまでの決意はできません。で昼に北側を見ると、シュロが植えてあり、槇の木が2本。いずれも先端が2つあって、面白いなと。
◆考研の発表もあり、危機感をもって望んだからか、市大日本史の編集作業は順調に来ている。あと入っていない原稿は、自分の書評・・・、とほほです。それとこれも自分がいつもまとめている研究室便り・・・、とほほです。これはバトンタッチですね。来年からは若いモンに任せよう。
ヒストリアが来た
◆まあ頑張りました。20頁くらい書いてます(人の文の転載が多いが)。兵庫城の文章を読むと、 校正が適当だったな、とは思うが(4月上旬はめいいっぱいだったの で)。御廟野の、自分のノートに書いた想定スケッチを見ると気恥ずかしいが、でも文章で書いても伝わらないと思ったので、メモ書きをそのまま載せた。
◆またまた考古学研究会大会の話をする。やろうと思ったのは、よくできた図を作ること、レジュメを完璧にすること、パワポに工夫をこらすこと、語りを魅力的にすること、である。委員会にむかってちゃんとやったでしょ、といったポーズのためではない。意識したのは聞きに来る学生・院生等にむけて話すということ。
◆まずレジュメとは何か。いちばんよくできているといつも思っているのは、うちの近世史のレジュメ。まあ文献史では普通なのかもしれないが。要するに、論の運び、章・節・項が実にきっちりと組まれており、この根拠からこれが言え、次にこれがあり、それによってこうではないか、という論理立てを表現したもの。発表の前刷りは文章なのかもしれないが、レジュメというのは違うと思っている。文章で書くものではないと。
◆自分の経験でいうと、ヒストリア大会報告の時、準備報告を2回し、それによってレジュメがど んどん整備されていったという実感があったのを思い出す。よくできたレジュメは、それを設計図にして文章を書けば論文になる。うちの近世史は、卒論・修論で、実際に書き始めるまでに、整ったレジュメを完成させる指導を行っているようだ。
◆自分のところの考古の学生に対してもそういう。レジュメは文章じゃないと。論じる組み立てだと。はじめにで、自分の考えるところや意図を5~6行の文章で書くのはいいが、本論レジュメの本体は文章で書くなと。まあ我流です。無駄なできの悪い文章を書き連ねると、一定のボリュームになり、またなんとなく伝わったらそれでよしとなる。ちがう。レジュメは、論理展開の設計図なのだ。
◆またまた考古学研究会大会の話をする。やろうと思ったのは、よくできた図を作ること、レジュメを完璧にすること、パワポに工夫をこらすこと、語りを魅力的にすること、である。委員会にむかってちゃんとやったでしょ、といったポーズのためではない。意識したのは聞きに来る学生・院生等にむけて話すということ。
◆まずレジュメとは何か。いちばんよくできているといつも思っているのは、うちの近世史のレジュメ。まあ文献史では普通なのかもしれないが。要するに、論の運び、章・節・項が実にきっちりと組まれており、この根拠からこれが言え、次にこれがあり、それによってこうではないか、という論理立てを表現したもの。発表の前刷りは文章なのかもしれないが、レジュメというのは違うと思っている。文章で書くものではないと。
◆自分の経験でいうと、ヒストリア大会報告の時、準備報告を2回し、それによってレジュメがど んどん整備されていったという実感があったのを思い出す。よくできたレジュメは、それを設計図にして文章を書けば論文になる。うちの近世史は、卒論・修論で、実際に書き始めるまでに、整ったレジュメを完成させる指導を行っているようだ。
◆自分のところの考古の学生に対してもそういう。レジュメは文章じゃないと。論じる組み立てだと。はじめにで、自分の考えるところや意図を5~6行の文章で書くのはいいが、本論レジュメの本体は文章で書くなと。まあ我流です。無駄なできの悪い文章を書き連ねると、一定のボリュームになり、またなんとなく伝わったらそれでよしとなる。ちがう。レジュメは、論理展開の設計図なのだ。
大阪市博物館協会との打ち合わせ
◆木曜日の10時からでした。ほんと、ちゃんと会議を開き、次の企画を考えていく、形ができてきているように思う。改新シンポⅢ、それから昨年度に提案した森ノ宮貝塚のシンポ、さらに4回の講座をやれということで、幕末大阪湾の台場を提案、3つとも企画を組むのはオレ。もちネタの総動員。まあ、けっこうやりがいをもってやっているので苦ではないが、もっとみながいろんなアイデアを出し、アイデアにあふれ、どこからやろうかといった姿が望ましい。出てこないのがそもそも問題。例えば加賀屋新田もやりたいし、大阪砲兵工廠もやりたいし、近代建築もやるべきだし・・・。まあそんなんで、あまたネタをもっとかんといかんわな。大阪本願寺だって、難波宮の調査で本願寺時代の遺構や遺物を集めればそこそこネタはあるだろうに。
◆大阪レキハクが、名前の通り「大阪」の「歴史」を伝える博物館で、歴史に関するネタをあまたもちあわせ、順々に調査研究し、企画展示をしてブックレットを出していくといったことを、ほんとうはやってほしいのだ。博物館というところはそんなところであるべきと思っている。何やろ~じゃなくて、あれもこれもやりたくってしかたない、というのがあるべき姿だと、博物館の授業では言っている。福屋工務店でなければならない。伝えたい熱意がすべて、である。
◆大阪レキハクが、名前の通り「大阪」の「歴史」を伝える博物館で、歴史に関するネタをあまたもちあわせ、順々に調査研究し、企画展示をしてブックレットを出していくといったことを、ほんとうはやってほしいのだ。博物館というところはそんなところであるべきと思っている。何やろ~じゃなくて、あれもこれもやりたくってしかたない、というのがあるべき姿だと、博物館の授業では言っている。福屋工務店でなければならない。伝えたい熱意がすべて、である。
考古研OB名簿も整わず
◆まあそんなことやってるヒマはなかったからね。日曜日が終わっても、市大日本史は日々の戦いだし。でも次の幹事会である土曜日が近づく。今日、ようやっと、再びエクセルにむかい、いろいろと手を打ったが、土曜日までになんとかするのは難しい。少しは前進させ格好をつけるほかない。ひとつ下の国文卒で国文学資料館に就職した後輩を調べると、南山大学に移っていた。U岡さんは信州大学だし。Mさんは神奈川大学だし。Iさんは松山大学(どっかで再会したのだが・・・)。1960年創設、55年分の名簿を整えるのは容易ではない。
藤ノ木のこと
◆もひとつ、藤木の石棺には2体の遺骸が残っていたが、遺存状況の悪い一方は、これまで男とされ ていたが、考古学的には足玉があり、普通に考えれば女性だと。結局、身長の長さによる判断で、人類学者は高いとみて男という。しかし、それはそれで足の指の長さから計算式で算出するもの(それもエエかげん)。そんなことしなくても、首飾りがあり、おおよその遺骸のあり方は想定でき、とても人類学者の算出した身長にはならない。少なくとも、男とは断定できないという言い方がまっとうな判断。ところが、当の鑑定をした人類学者は、まったく慎重さをもちあわせず、どこかの論文集で、こうしたマトモな発言に対しコテンパンに攻撃し、それを取り上げた新聞記者にも矛先をむける。そんなマトモでない原稿、普通の感覚からすれば、収録しないか、書き直しをお願いすべきものだと思う。おかしいものはエライ先生でもおかしいのである。
◆自分も断定的だといつも指摘される。反省しなければならない。が、学術上の根拠をのべあっての論戦とはこれは違う。今回の考研の発表後、いろんな若手の人に書いたものをいただき、そのへんの最新の研究を参照できていないと反省。ぱらぱらと見たが重要な論文もある。伝世鏡なんですけど、踏み替えしの技法が後漢代にず~とあるということを学ぶ。後世に踏み返したのでなく、当時の鋳造技術のなかに存在していると考えられるというもので、学び受け止めなければならない。間違っていたことは訂正します。それで結論も違ってしまうなら、ごめんなさいと言います(たぶんそんなことはないが)。そういう他者の意見は、取るべきところは吸収できるつもりです。が、藤木の応酬はそれとは違って、権威を守るための、反対意見に対する罵倒なのである。
◆おそらく女性でしょうね。男2人として被葬者に言及している方もおられるが、まあそんなことはないだろう、というところ。
◆自分も断定的だといつも指摘される。反省しなければならない。が、学術上の根拠をのべあっての論戦とはこれは違う。今回の考研の発表後、いろんな若手の人に書いたものをいただき、そのへんの最新の研究を参照できていないと反省。ぱらぱらと見たが重要な論文もある。伝世鏡なんですけど、踏み替えしの技法が後漢代にず~とあるということを学ぶ。後世に踏み返したのでなく、当時の鋳造技術のなかに存在していると考えられるというもので、学び受け止めなければならない。間違っていたことは訂正します。それで結論も違ってしまうなら、ごめんなさいと言います(たぶんそんなことはないが)。そういう他者の意見は、取るべきところは吸収できるつもりです。が、藤木の応酬はそれとは違って、権威を守るための、反対意見に対する罵倒なのである。
◆おそらく女性でしょうね。男2人として被葬者に言及している方もおられるが、まあそんなことはないだろう、というところ。
ピースおおさかのリニューアルオープンは30日 記事№2800
◆しばらく前にHPに上がったようです。4月1日かと思っていたが、月末とのこと。どこかでさっそく見に行かなければ。
4月12日、三田現地見学検討会
◆雨が降り続く中、土曜日から晴れ、さいわい12日の日曜日も晴れでした。京橋から東西線経由 で、尼崎、そして三田に行く。午前中、三田の町歩き。とても丁寧に町の成り立ちを教えていただいた。武庫川がしょちゅう氾濫していて、水に浸かっていたのだとか。いまでこそ橋がたくさんあるが、もともとはひとつで、武庫川西岸の本町などに対し、川をわたった東方の三輪社に至る街道沿いも町場となっており、複合的な面がある。
◆それと有馬郡のほぼ中央が三田で、郡衙はいまの市街地でなく播磨に抜けるもうひとつ南が有力候補地だそうだが、三田には古代寺院があり、やはり早くから盆地中央部の平野に面した地域の中心地であったようだ。しかし、近世の支配で、三田藩は有馬郡北半部となり、南半部は切り離されたらしく、これにより、その後、南は神戸市北区および西宮市に編入されていく。したがって三田市域は北半なのだが、三田市街は盆地中央部なため、市域の南端になって しまっているのだとか。
◆九鬼が志摩から入るが、お家騒動を好都合と、通説では水軍を擁する九鬼を陸に上げる幕府政策と言われているらしいが、そうでもないとのこと。そして、幕末に藩政改革を進める。九鬼隆一は東博初代総長として著名だが、白洲退蔵、川本幸民、あるいは神戸に出て儲け神戸市長になっていく家など、なかなか面白い人物達が輩出している。
◆午後の検討会の1本は、城跡や陣屋の発掘成果で、おおよそ三田城や陣屋跡がどこまでわかっているか、知ることができた。また町場の調査でも防火用の水溜めなどが検出されていることを知る。
◆それと有馬郡のほぼ中央が三田で、郡衙はいまの市街地でなく播磨に抜けるもうひとつ南が有力候補地だそうだが、三田には古代寺院があり、やはり早くから盆地中央部の平野に面した地域の中心地であったようだ。しかし、近世の支配で、三田藩は有馬郡北半部となり、南半部は切り離されたらしく、これにより、その後、南は神戸市北区および西宮市に編入されていく。したがって三田市域は北半なのだが、三田市街は盆地中央部なため、市域の南端になって しまっているのだとか。
◆九鬼が志摩から入るが、お家騒動を好都合と、通説では水軍を擁する九鬼を陸に上げる幕府政策と言われているらしいが、そうでもないとのこと。そして、幕末に藩政改革を進める。九鬼隆一は東博初代総長として著名だが、白洲退蔵、川本幸民、あるいは神戸に出て儲け神戸市長になっていく家など、なかなか面白い人物達が輩出している。
◆午後の検討会の1本は、城跡や陣屋の発掘成果で、おおよそ三田城や陣屋跡がどこまでわかっているか、知ることができた。また町場の調査でも防火用の水溜めなどが検出されていることを知る。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。