人を幸せにする人になろう

いじめ返してやれ

◆沖縄県知事を徹底して無視しているらしい。沖縄県民の民意はあなたにある。権限を最大限使って、辺野古を邪魔してやれ。頭を下げに来るまで。

GDPの中身か、いい言葉だ

◆けっこう面白かった。
◆もひとつ。毎日が投票日かもしれないというのも面白い。こないだ書いたパチンコともつながりますね。自分が働いてえたカネを何に使うか。あるいはどこで買うか、とか。考え方も大事だけど、結局は行動が大事だし、たいそうな運動をせずとも、自分が大切にしたいと思うところを支援できるわけだ。最近は、できるだけ日本酒を飲むようにしているが、考え方は共通する。

やめられない

◆もひとついうと、倭の国家形成は早い。百済や新羅よりも。が、なんで王の在位年を含む王統譜がぜんぜん復元できないんでしょうか。百済王や新羅王についても、細かく言えば間柄とか、在位年に数年の異論はあっても、基本的に順番と在位年は判明していますよね。なぜ、日本はそうでないのでしょうか。記録がなかった?、口移しの伝承で不確かだった?。それだけではないと思います。なんで紀元前660年に神武即位をもってきて、引き延ばしたのか、それは古くしたいからなんでしょうが、5世紀の話でいえば、なんでわからなくしているんでしょうか。むろん、古事記崩年干支から、おおよそのところはわかる。ホムダワケが4世紀後葉で、オオササギからミズハワケが5世紀前半で、允恭が5世紀中頃で、雄略が後半だと。なのに、なぜ允恭紀年は42年あり、仁徳紀年は87年もあり、応神紀年は41年もあるのか。
◆なぜ5世紀の王の在位年を長くしているのか、そんな作為をなぜしなければならなかったのか、それには当然理由があると、わたしなんかは考えるわけです。紀年論は「はやれへんからな」、そうですか。しかしバカにしているKさんは果敢にそれにチャレンジして、答を出している、とわたしは思っています。倭五王の朝貢記事が『宋書』にあり、記紀編纂者の手元にはあったんでしょう。が、中国への使節派遣の記事は雄略朝に2回だったか、あるだけではないですか。百済王の関係記事は収録しているのに。なぜですか。5世紀のことはかなり明瞭に伝わっていたと思います。正しく在位年を配置すればいいのです。そして、それ以前の王の在位を水増しし、欠史8代で不足ならもっと加えて、神武即位にもっていけばいいのです。が、そうしていない。仁徳さんは87年も、高句麗長寿王なみに長い治世があったと、なぜしなければならなかったのでしょうか。文献史の人は解明してくださいよ。

もひとつだけ

◆帝紀といわれても、考古学の人間にはね~。まあ、宮や墓やキサキや子らの基本的情報?。どっちかというと特段の理由がない限り、信憑性は高く、あまり作為を考えない方です。すなわち尊重しなければならない、と。
◆しかし、白石先生がおっしゃる通りだと思うんですね。仁徳・履中・反正という連続する3人の王の墓が百舌鳥にあったと伝えられている(崩年干支でいけば427と432と437)。それしかない。で、比定されているわけです。ミサンザイ(埴輪Ⅲ-2)・大仙(埴輪Ⅳ-2)・ニサンザイ(埴輪Ⅳ-3)があると。だけども、確実に、ミサンザイと大仙の間に古市の誉田御廟山が入る。これって誰の墓になるのか。白石先生の言うとおり、百舌鳥に陵を築いたということは、王の基本情報として伝わり、それが添えられているとみたいところではあるが、百舌鳥古墳群の有り様を考えれば、そうでもない。何かが違っている、と考えざるをえない、ということになる。これって説得的ですよね。仁徳の墓はぜったいに百舌鳥にあるんだろうか。履中の墓は?、反正の墓は?。むろん百舌鳥の3大古墳にあてない、という考え方はありうるが、それはそれで、3大古墳のあるものは、あれだけ大きいのに王墓じゃないということにもなる。
◆そう、全部を懐疑的にみるわけではないが、しかしある部分は違っている、正しく記載されていないと考えるほかはないのである。文献史の人がそれでも王名と王陵名が正しい組み合わせなんだと固執するなら、王の即位順がいじられている、という解釈にならざるをえないと思う。

やめてもいいのだが

◆全史協の冊子をざっと見た。これ以前に、出たばかりの時に、白石先生が送って下さったようにも思う。中身を見ると、前にも書いてきたが、西殿塚の前方部に土壇があって、それが後円部の埋葬ともども、台与段階の分掌した2人という点については考えないといけない。
◆お願いしたいのは、茶臼山古墳の年代をどう考えるかということと、266年にどうやら台与が晋に朝貢しているということを、どう考えるかということに尽きる。白石先生の考えでは、西殿は古い埴輪が出ているので、266年の朝貢直後くらいに死んで葬られ(30歳前後ということになるでしょうか)、次いで茶臼山の被葬者が王になり、在位短く270年過ぎくらいには死に、メスリ山古墳の王が4代目になり、これが死んで崇神が立った、ということなんでしょう。266年から318年まで3代だから、1人17年くらいでちょうどいい、ということなんでしょう。
◆まあ、それでもよし、としておきましょうか。卑弥呼の在位は約50年で、台与もそれくらいの長期の王であってまったくおかしくないと思うが、それはわからん。考古学的に西殿を突き詰めることですな。そこはこっちも宿題が残っている。
◆西殿塚型、元稲荷、普通円筒はない、古相。東之宮、これはまた弁天C1と同段階で、これは新相で3世紀末に近いだろう。台与の在位はそれなりに長く、相似墳も幅がありうる。むろん普通円筒は西殿で表れ、孤立して古く、畿内の前期古墳で埴輪を持ち始めるのがⅠ-3というのは別にそれでもいい。が、まあ東之宮くらいが西殿の年代くらいでいいのではと思っています。宮山型とか都月型で古くするわけにはいかず、普通円筒で考える必要があり、それは東殿とかメスリの埴輪に対し、むろん1段階前に置いたらいいのだが、実年代としてどこまで開くだろうか、ということです。270年頃に西殿の普通円筒があったか、と言われれば、ないんとちゃうやろか、と。
◆西殿の前方部埋葬は特異ですね。あれをどう考えるのかは確かに難問。白石説でいけば、箸墓と西殿の前方部には男が入っていたということになりますね。で、茶臼山とメスリ山は1人が権力を集中させる段階に入るという見方だ。そこで王権としては分掌的なあり方を解消させるということのよう。

Kさんの評判は悪いが

◆PDFを文字化けしていないか点検していると、文字化けはないのだが、直したいところが2箇所でてきた。もうCDにも焼き終わっていたのだが、再び2章分のPDFを打ち出す。そこだけ差し替えようとするが、うまくいかず、再度統合することに・・・、その間を利用して、あーでもない、こーでもない、と書き連ねています。
◆口頭試問で、結局Kさんに依拠しているのね、といわれ、これには少々カチンと来る。全面的によっかかっているわけではないですよ。もっとも依存しているのは、イチノベ、允恭、きなし、清寧の系譜と、紀年論のところ。しかし、あそこまで書くのに、どれだけ理解しようと努力し、自分で納得できるものにするために、いろいろやったことか。その上で、使える、と判断した。まあ、しかしそこは依拠している、といわれてもそれはよい。なんだか全体がのっかかっているみたいに言われたので、それは違うときちんと反論すべきであった。オオヤマト6墳について、文献の人だって考えて欲しい。考え方の筋道は示しているわけだから。それでもって、2系列が一定の性格差があるんではないか、ということはけっこう説得的ではないか、と自分では思っている。でそれが出発点なんですよ、とういうこと。で、5世紀もそれが続いているんではないか、というところでK説を用いているのであって、2王並立論そのものがK説から生まれたのではないのである。
◆全史協の研修会でしゃべったテープ起こしに、年末、手を入れ提出しておいた。インデで挿図も含めて編集してみようかと思い、過去の冊子を送ってくれませんかとお願いして、それが届いた。でもまあやめとこうと思う。そんなヒマないし。送ってくれたものを見ていると、白石先生が、オオヤマトのオレの理解は成り立たないと、かなりしゃべっている。なので、ちょっと反論してみましょうか。

応神元年は390年

◆応神3年に百済アカ王(即位392)の記事、応神8年分註に百済王子直支の来倭(397年)の記事、応神16年に百済アカ王の死没(405)の記事があり、これらは応神元年を390年として配列している。これは堅い。元年というのは重要だろうと思いますね~。そうですか、ホムダワケ即位年は記紀編纂者は390年としているんですか、そうみたいですね、でもそれが正しいんですか?、とうそぶくことは可能。そこから先を読み取ろうとはしない懐疑派はほっときましょう。応神元年は390年に設定してある、これは事実。次にそれは架空じゃなかろうと。日本書紀のタテマエでは、応神在位は270から310年です。なぜそこに、例えば応神3年条に392年の記事を入れるのでしょうか。そこが392年だから、でしょう。で、それは392年ではあるが、応神3年のことだったというのはウソなのでしょうか。そうでもないと思いますよ。
◆応神元年は河内王朝にとって重要な年です。やはり390年ではないのかな。前年に宇治市街遺跡の木が伐採されている。まあ晩年にようやっとクーデタを敢行したと、こっちは思っているわけです。むろん、それよりも4世紀後半に、河内で活躍していたことが重要なわけで、そこに佐紀から河内政権への準備期間があったという面が考古学的には大事なんでしょう。
◆ところで須恵器の年代なんですが、TG232があって、中期はじめにはまだない段階があると。だからTG232が4世紀末で、中期のはじめは4世紀後半だと。しかし、擦り合わせはできないだろうか。中期≒須恵器でもいいのんとちゃうかな。須恵器は400年以降だと書いたことと齟齬をきたしてしまうが。なんかそのへんが答のようにも思うのである。つまり4世紀後葉が中期であり、ほとんどイコール陶質土器も生まれている可能性である。

最大の前方後円墳が王墓なのか

◆キサキ墓は考えないといけないわけだが、おそらく王墓のような制度的なものはないだろう。ヒバス媛は丹後に帰葬しているはず。埴輪の伝承や石作り伝承はたぶん垂仁の頃のこととして伝承されていると考えてよいと思うし、それが佐紀陵山古墳に結びつけられているというのも、あたっているのではないかと思う。が、それが倭彦であったり、ヒバスヒメの墓のことかというと、そうではないのではないか。陵山古墳から甲冑片が出ていないもんかね~。陵山相似墳のあり方からすると、きわめて政治的・軍略的な関係構築を推進した人物像となる。そうした考古学の立場からすると、被葬者が女性であるとは考えにくいのである。
◆それはそれとして、王墓は最大の前方後円墳でないといかんのかと、どこかで聞いたようなフレーズ。こっちとしては自明なので、とくに書いていない。それはあかんわな。どこかで考えは明記しておく必要がある。最大規模墳でなければならないんです。造山だって260歩であって、ミサンザイの280歩よりは小さいのです。それを越えようとするならつぶされるであろう。それが前方後円墳共有システムである。そうした前方後円墳のあり方からすれば、王墓はなにも大きくなくていい、という論理は考えにくい。

本質的な問題

◆キサキ墓のことなんです。ほんまに2人の王がいるんか、という見方に対して、キサキ墓はどうなんか、佐紀寺間陵はどうなるねんと。古事記に陵名があり、むろん日本書紀でもヒバス媛の墓造りのことが書いてあり、帝紀の記述と見られているようです。否定できないんと違うか?、と。まあそうです、そういう突っ込みには弱い。手白香の西山塚はまあ認めてよく、大后墓が継体段階には確実にあるが、それ以前はないんだという積極的な理由も確かにない。
◆が、まあキサキ墓の記述があるのは、ヒバスと、ナカツヒメ(どっかにあったように思うが確認すると探し出せない)と、イワノヒメ(ナラ山)くらい。崇神妃ミマキヒメなし。景行妃イナヒノオオイラツメなし。景行妃ヤサカノイリヒメなし。日本武尊妃フタジノイリヒメなし。履中妃クロヒメなし。允恭妃オシサカノオオナカツヒメなし。安康妃なし。雄略妃カラヒメなし。顕宗妃ナニワノミコなし。仁賢妃カスガノオオイラツメなし。むろん、手白香以降だって記事はないから、キサキのなかでも国母となった者の墓を、王墓に準じた規模の前方後円墳に葬るものの、とくに陵墓名や造墓記事がなくても、それは一緒と言われてしまうのだろう。まあしかし、延喜式の祭祀対象はイワノヒメだけで、ヒバスもナカツヒメも表れないんですよ。
◆このへんは古代の婚姻関係や、キサキの地位の確立の話などとかかわり、手に負えない。が、一般的には、キサキ部とか壬生部というものの成立はそう古くない。そうした地位を占めないのに、佐紀陵山古墳という200m級の前方後円墳に、丹後出身のヒバス媛が葬られる、ということは考えにくいのではないか。やはり古い段階では帰葬と考えられるだろう。で、その帰葬という根拠はあるのか。中司さんの「つどい」の記事を読んだことがあるが、取っておかなかったか。調べてみよう。

博論関係も終わりそう

◆直しの作業を行い、打ち出し、複製を作り、本日この2通を製本屋に出す。それとともにPDFでも提出しないといけないので、昨日来、その作業をしている。100メガ以内に収めよとのこと、できるだけファイルサイズを縮小して、それでもダメなら複数ファイルでも良いと。やっていると、軽く200メガを越えてきたので、図面のデータをフォトショに置き換えて、なんとかそれぞれ容量を減らし、全体で100メガ以内に持ち込む作業を、本日ここまでかかってやった。いまアクロバット君が統合作業をやっている。
◆これらを提出してしまえば、尾張。あとは結果待ち。ようやっとここまでたどりついた。
◆この3連休は大阪城の石垣の原稿。それと、昨日だったか、センター試験の説明会が14時というので会場に向かうと、同僚がおり、関係書類をもっている。おや、オレんとこには来てないけど、と言うと、年末には入っていたと。そして従事者名を見たら、名前はなかったですよ、と。ラッキー。日本史から2人ということでオレも1人として届け出たわけですが、なぜだか免除になったらしい。これでセンター試験の2日間も使える。しめしめ。そこでなんとかコウケンの報告要旨をでっちあげてしまおう。そのためには漢鏡7期について、ある程度メドをつけとかないとイカン。さいわいなことに、2日与えられたので、これもなんとかなるかもね~。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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