人を幸せにする人になろう

雑用が多すぎるぅぅぅぅぅぅぅ!

◆18時から4時間さあやるぞと思いきや、メールをチェックするとそうはさせてはくれません。あのデータはどこやったかいな。調査票を出して、この返事して、と時間は過ぎていきました。

思いつきですが

◆授業で都城の本を読んでいるのですが、宮の構造の変遷なんてまったくの門外漢。が、まあ平城宮を掘っていた経験からの知識くらいはある。本題はさておき、前期難波宮の内裏前殿をなぜ大極殿とよばないんでしょうか。それがわたしには理解できません。おそらく文献で大極殿という名前が出てこないからでしょうか。浄御原宮からだと。あるいは藤原だと。が、藤原大極殿に対し、前期難波宮を内裏前殿とよぶ理由はとくにない。内裏前殿→大極殿という変化を示すために、内裏前殿とよぶのかもしれないが、前期の南の部分が朝堂院なら、正殿たる内裏前殿は大極殿とよぶべきで、そのなかでのあり方の変化をたどるのが実際的である。16朝堂の成立とセットであり、それ以前の王宮から飛躍した難波宮こそ、大極殿成立の画期である。朝堂院といった名前だって記録に現れるのは後のことで、だけど平城のものを朝堂院とよびますよね。それなら内裏前殿は形態・機能から大極殿とその時点から学問的にはよび、殿舎の名前としての大極殿はこれこれが初出である、という説明の方が適している、と思う。
◆で本題。今日の履修生の報告で、平城の中央区・東区について、ふと、これ政祭分権王制と結びつくのではないか、と思ったのである。政務の場である東区に対し、(長安含元殿の話はよくわからなかったが)、中央区の4朝堂をもつあんなものを伴うもう1セットを平城で設ける理由がわからんわけです。即位や元日朝賀という儀礼の場である中央区、それはかつての国家的祭礼と統治という別機能を2人が担っていたことと、なにか通じるように思われてならない。どんなもんでしょうか。

理系のリーフレット

◆土曜日に仕上げて印刷屋に送ったのだが、届いてませんよと。あれ~。で送り直したのが火曜 日。なぜ届いていないのか、解せない。これで数日のロスは痛い。まあ、ともあれ、今年度はなんとか前半のヤツは作った。裏表紙だけ挙げておきます。市大の樹木として履修生が取り上げた8種をキャンパスマップ周囲に配置し、上辺には、これまで撮りためてきた大学の風景写真をちりばめてみました。

播磨シリーズ赤穂(坂越)

◆土曜日は、18時で切り上げ実家へ帰る。翌日、赤穂に出かける。播磨各地をいろいろめぐりた い。城陽の全史協近畿地区研修会で赤穂市の文化財課長と久しぶりに話をしたのも背景にある。史跡整備の進められている赤穂城。内部に大石神社。討ち入りは14日?、来週である。マツケンが来るというポスターがあちこちに。
◆本丸の史跡整備の様子を見る。本丸御殿の表示を学ぶ。天守台の上の建てられることのなかった天守閣の模擬足場とイルミネーションはどうかと思うが。二の丸、三の丸、などの整備中の様子がわかる。ここも県立高校がかつて内部にあったようである。その移転で整備が本格化する。
◆歴史資料館で、塩田、赤穂城、上水などを学ぶことができる。とくに塩田ですね。勉強になりま す。鹹水を作る方法の発達ということか。昼を食べ、坂越の集落へ(城下 をゆっくりめぐるのはまた)。城が海に突き出してあり、両側の東浜と西浜が塩田。そこで作った塩は、坂越の港へ運ばれ出荷される。その港町のまちなみがなかなかよい。さびれているわけでなく、いまもカキなどを食べさせて客も多く、民家に空き家は少ないよう。会所の建物、別のまちなみ館として開放されている建物のほか、酒屋が大きく、内部でイベントをやっていた。フリマ、試飲、その他、なかなかよかった。また、この酒屋の蔵?が民俗資料館として開放されている。夕方からの予定があるため、焼カキを食っている暇はなかったが。

12月6日

◆朝から雑用を猛スピードで片付けて、いま15時。理系のリーフの仕上げにかかろう。とはいえ、今日は18時までしかおれない。完成するでしょうか。なんとかやっつけた。1730。さて、河内の条里図をやるか、帰るか・・・。

黒江漆器

◆知らんかった。以下、ウィキ。

 紀州漆器は、和歌山県に伝わる伝統工芸品の一つであり、経済産業大臣指定伝統的工芸品。会津漆器、輪島塗・山中漆器などとともに全国三大産地の一つと言われる。主な産地は海南市黒江であり、室町~戦国時代に近江系の木地師集団が定着し、紀州桧を木地に木の椀を製造したのが始まり。一部では根来寺の職人が豊臣秀吉による根来寺焼き討ち後に黒江湊に移住したという説もあるが、定かではない。
 明治維新の後、廃藩置県で紀州藩の保護を失ったが、明治3年(1870年)に元紀州藩の木村友重(南友重)が漆職人を束ねて漆製品を生産し、南家の船で本格的な貿易を開始したことによって次第に活気を取り戻し、明治12年(1879年)には他府県産の沈金彫の技術を導入した。また、明治31年(1898年)には京都府より蒔絵師を招いて、蒔絵の改良を図った。
 その後、天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案された紀州漆器は特長を一段と発揮させ、昭和53年(1978年)には通商産業省より伝統的工芸品に指定されている。
 主産地である海南市黒江には、漆塗りの体験ができる店や紀州漆器伝統産業会館(うるわし館)などの観光施設があり、団体旅行客も多く訪れる。また、毎年11月に漆器市としては西日本随一の規模と観光客動員数を誇る『紀州漆器まつり』が行われ、2日間で全国から5万~7万人が訪れる一大イベントとなっている。

もひとつ

◆西陵が古く(TK73)、西小山とニサンザイがほぼ同一時期(TK216)で新しい、というのが通 説。が、今回の埴輪を見て、やや新しくTK208くらいにかかる時期に下げても、という意見を聞くことができた。須恵器でもそう思われないこともないという。
◆そうなってきた時、西小山との比較は不可欠ながら、あれをニサンザイと同時期で、なんかしらんけど主墳に対する同一時期の弟分の墓みたいに捉えるよりも、西陵→西小山→ニサンザイという3世代として捉えられないのだろうか、と思う。西小山は並の造り出し付き?円墳あるいは帆立貝形でなく、かなり大きく、もちろん副葬品は優秀。そうすると、西陵の独自的な形態の大型前方後円墳(葛城系)から、規制を一度受け、大仙型のニサンザイへという流れが、よりスムーズに理解できるようにも思われる。
【追記】写真は検討会会場となった公民館の展示ケースにあった西陵古墳の埴輪。

大阪湾という湖(内水)

◆淡輪から戻るとき、海を眺めると、島と橋、そう明石海峡だ。今日はとても風がきつく、その 分、空気は澄んでいるんだろう。ということもあり、かなり近くに見える。

紀小弓墓?

◆北側に上面がかなり削られた造り出しがある。張り出し部の両入り隅部が出ている。
◆で、南側です わ。測量図にバッチリ出ているもの。これ図面を見たらわかるのだけれど、現場を見たら一目瞭然、見たことのない風景である。下段上面のテラスがある。下段斜面が下る、が谷間となっており、そこから「造り出し」が高まり、上面はテラス面より高いのである。谷間には埴輪列。なのでけっこうある斜面には葺石。上面では、家のほか盾、ユギ、その他、埋葬施設上の形象埴輪群のような破片があり、頂部縁辺には埴輪列がある。鍵の手の囲みではない。
◆そう、これは方墳なのである。埋葬施設はきっとある。宮内庁さんの認識でいい。がヘンである。こんなの見たことないわけだ。このヘンさ加減を見ると、通常の感覚でいえば、のちにこの場所を墳墓地として利用したのではないかと。もともと両側に造り出しがあったかどうかはわからん。山側の南側にはなかったのかもしれないし、あるいはあったかもしれない。いずれにしても、後付ではないかと思った。だから、谷間に断ち割りを入れれば、そのへんは解明されるだろう。墳丘の埴輪と、南造り出しという名の方墳の埴輪とで時期差があるのかどうかも要チェック。
◆そこで、ふと、これが探し求めていた紀小弓墓ではないのか、と。大伴卿が埋葬したという・・・。そんな妄想が浮かびました。独立した古墳を営めず、先代の墓に造ったと。5世紀後半代の首長墓がほかになく、西陵、西小山、ニサンザイは時期的には古く、小弓墓には当てられない。とすれば、そういうことも想像してしまうのである。

淡輪技法

◆淡輪技法の埴輪、底部に輪っかがある。叩き成形、ばりばりの須恵質。たしかにあるのだが、テ ラスに立っている埴輪は褐色土師質がほとんど。聞くところによると、北くびれ部、造り出し周囲で顕著だとか。

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索