人を幸せにする人になろう

東大寺山

◆東大寺山の報告書を見る。墳丘復元案があるが、さらに下位にもう1段あるのではないか、と思 う。石山古墳も同じような感じで、きれいに成形しているのは上2段だが、下段は、成形できるところはしているんとちゃうやろか。
◆ちなみに陵山と重ねてみる。

兵庫県議に感謝

◆泣き叫ぶ県議会議員。みなあぜんとした。が、あの人のおかげで、市町村、都道府県、政務調査費が見直され、デタラメをやっていたヤツは退場する事態も生まれた。領収書の公開も、PDFにすれば簡単で、時間も人手もさほどでもない。そうなると都道府県は、ほかがやっている以上、うちはできないという理屈は成り立たなくなり、オープンが拡大していくだろう。そのためにも、チェックと、デタラメの追求の手はしばらく持続することが望ましい。
◆ついに国会議員へも飛び火し、小渕君のデタラメが明々白々となりつつある。でも政治団体の人間が処分されても、議員本人は責任が回避できるのでは、とか。連座制にすべきですよね。まずは、誰でも簡単にアクセスできるよう、国会議員の諸経費についても、領収書はすべてPDFにして公開すべきですね。地方政府はそれができても、国ではできないというのは理屈は通らない。

阪神タイガース日本シリーズへ

◆1614年大坂冬の陣、1615年夏の陣、大阪は東京に敗北する。とはいえ、既に江戸幕府はできており、1600年関ヶ原がやはり分かれ目なんでしょう。3世紀の関ヶ原、狗奴国戦争というのはどこで戦っているんだろうか、考えてしまう。
◆阪神が思いもよらぬ4連勝で東京を下し、これほど痛快なことはない。

冨波古墳

◆前に冨波古墳へ行って看板を見て、墳丘規模を計算する。42mは30歩、後方部・前方部の長さは各15歩、前方部幅は13歩だ、と思った。全長に対して1:1である。
◆西求女塚とか元稲荷とか、備前車塚とか、前方後方墳が実際どういう各部寸法で、どのように設計しているのだろうかと、少しいじっている。王墓との関係も。なんとなく、前方後円墳を基準に、どのように前方後方墳を割り付けるのか、ということが何となく思いつきつつある。西求女塚はやはり箸墓型で、元稲荷が西殿塚型で、下池山が茶臼山型で、というように、やはり王墓の前方後円墳に対応する前方後方墳がやはりあるんだろうと、それを裏付けたいと思っている。

広島大学は・・・

◆広島大学では、全教員の前年度の仕事がすべて点数化され、順番がつけられ、貼り出されるのだとか。ようやるわ。それを見に行くのもいいかもしれない。

「若い頃の苦労は買ってでもせよ」は死語

◆「若い頃の苦労は買ってでもせよ」という言葉がかつてあった。いまは高校入るのも推薦、大学入るのも推薦、受験という関門をちゃんとくぐらない。そういう甘ちゃんな生き方が大手を振っている。人の頭がいいとかそういうことは、入学試験の学力とはまた別だとは思う。が、そういう人もいるのは認めるが、一般論として、結局、いくつかの節目に努力して突破するということが回避できる仕組みが整えられている。まあ、勉強しませんよ。苦労などしないのである。
◆うちの学生はちゃいますよ。ちゃんとセンター試験、個別学力試験を経て入学してます。当然、一定の学力を有し、ちゃんと話が通ります。

小学生の塾通いは児童虐待ではないのか

◆22時とか23時に、電車で塾通いの小学生、とくに体の小さい子を見ると、児童虐待だと涙が出る。かわいそうに。そして彼らの息抜きがゲームだとしたら、廃人になると思ってしまう。

五塚原のテラス

◆新聞記事を見る。テラスがあることに意味があるのか、それがくびれ部で収束するようなあり方が箸墓に似ているということに意味があるのか、もひとつわからん。が、どうやらテラス面はくびれ部当たりで消失しているという調査結果らしいとは読み取れる。ほんとにそうなんですかね。少なくとも西殿塚はそうでないことは視認している。だから行燈山もテラス面は後円部にスロープで接続しているだろう。問題は箸墓。
◆前に『ヒストリア』に図も出したが、確かに4段にすると、3面のテラスが細いくびれ部で通っているのか、という疑念は生じるだろう。箸墓の場合、とくに前方部のいちばん上のテラス面と、後円部のテラス面の高低差はかなりのものだろうから、スロープで接続しているという理解はしんどいかもしれない。が、少なくとも、スロープはなくとも、くびれ部で、前方部・後円部のテラスがそれぞれ収束するということはあるかもしれない。前方部のテラス面が、くびれ部に向かいつつ終わっていくという復元が妥当なのか、疑問なのだ。
◆箸墓でわからない以上、手がかりは相似墳で、五塚原の調査成果は尊重すべきなんだろうとは思う。が、テラスの外側は消失するもんですよね。古い時期のくびれ部、きっと側面は急傾斜にしてでもテラス面を確保しており、だいたいは流れてしまう、というイメージでいるが、そういう理解はできないのだろうか。
◆新聞記事を見ての感想。

遊びで邪馬台国を

◆邪馬台国九州説を乗り越えることをいろいろ考えるわけです。トータル論は別です。倭人伝の記 載からすると九州内だというもの。これ実にその範囲では説得的なわけです。それがすべてとは思ってませんよ。それならそれで、奴国や伊都国をも従える邪馬台国を明らかにする必要がありますよね。それにふさわしい遺跡や、北部九州の中での卓越を示すことがセットでないとダメですよね。
◆で、マツラ国から伊都国が東南で、伊都国から奴国が東南で、ということでいけば、図のようなものになるわけです。奴国から、投馬国まで水行20日というのは、どういうことなんですかね。川を遡上したというのもいいけれど、きっと筑後まで歩いていく方がいいんとちゃいますか。で、投馬国とか邪馬台国とか、水行や陸行となるのは、おっしゃるように陸地で、むこうが見えているような間の○里といった捉え方ができないということなんだろう。ゆっくり筑後に向かったって別にいいけど、船で瀬戸内海を行く、ゆっくり行ってもいいけど普通の行程で行っても別にいいわけです。
◆すべてを整合的に捉えることはできない。有利不利はある。が、決定的とはいえない曖昧さがある。倭人伝の経路記事だけで特定できるものではないわけです。遊びです。

『延喜式』の檜隈坂合陵

◆『延喜式』段階では、仁徳陵は大仙、応神陵は誉田御廟山、履中陵は上石津ミサンザイとされていたことは、兆域が8町四方、5町四方、5町四方で、たぶんそうだったんだろう。欽明陵は4町四方。これは300mの五条野丸山にふさわしいんとちゃいますやろか。決史八代のうちの3つ、舒明の父母をのぞけば、崇神から舒明までの陵のほとんどは1~3町で、4町以上は上に挙げた四つのみです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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