人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
埼玉大学紀要のコピーを送っていただく
◆三友国五郎さんの論文を求めていると話をすると、京都大Y氏がたぶん図書館にあるだろうから送るよと、ありがたい言葉をいただき、お願いし、送ってもらった。ありがとうございます。関東の条里地割をながめ感動。で、欲していた上野国交替実録帳の言及の箇所を見る。86巻の成巻の話は、史料に書いてあることであって、史料を示し結論を簡単に述べたくらいで、この論文を引用していた論文から得ていた知識を大きく越えないものであった。こっちとしては、もうすこし解説が欲しいが、まあしゃーない。『群馬県史』を見るかな。また、有名な重要史料なので、その後の研究でも論究しているものは多くあるのだろう(知らないが)。
難波宮研で
◆文献史の発表を1本聞く。孝徳朝の検地、一定の私有地の収公、石母田の賦田制に相当する、それ らによる田地のあてがい(出生や死亡による見直し班給をしない段階)を認めようというもの、と大筋を理解した。わかる。50戸という戸単位の人口把握、検地による土地調査、それをふまえた古墳時代的、部民制的なものから、班田収授制に近い公地の再分配をやっているということですよね。それについて文献史側からも認められるのではないか、という発表だった。
◆だが、直線的に発展しない、のちの班田収授とは違う、孝徳朝は浮いている、みたいな結論になってしまうのだ。
◆それに対して反論した。孝徳朝に公田の再分配を、実態追認の面があるにしてもやっていることをチャンと評価すべき。それについて、日本がめざした人員の増減に応じて再分配を繰り返す班田収授までは、すぐにはいかないのは当たり前なのである。670年庚午年籍ができて初めて条件が整う、そして条里地割については、オレは683年頃の「五十戸」から「里」への表記変更はこの時点で領域的編制ができたことによると考えており、それを待って持統朝に班田収授が始まるというのは、順調、スムーズ、だと考えているわけです。なぜ、孝徳朝を浮いたものとして特異な時代として孤立させなければならないのかが、まったくわからんわけです。孝徳朝にほぼ構想はできあがる。あとは実施に向けての基盤整備、それに40年を費やしている、そんなもんとちゃいますか。後退して、天智朝くらいから再びやり始める、なんて「そんなことあらへん」と思っているわけです。
◆図は『条里制研究』の原稿の最後の結論図として作り始めているものです。
◆だが、直線的に発展しない、のちの班田収授とは違う、孝徳朝は浮いている、みたいな結論になってしまうのだ。
◆それに対して反論した。孝徳朝に公田の再分配を、実態追認の面があるにしてもやっていることをチャンと評価すべき。それについて、日本がめざした人員の増減に応じて再分配を繰り返す班田収授までは、すぐにはいかないのは当たり前なのである。670年庚午年籍ができて初めて条件が整う、そして条里地割については、オレは683年頃の「五十戸」から「里」への表記変更はこの時点で領域的編制ができたことによると考えており、それを待って持統朝に班田収授が始まるというのは、順調、スムーズ、だと考えているわけです。なぜ、孝徳朝を浮いたものとして特異な時代として孤立させなければならないのかが、まったくわからんわけです。孝徳朝にほぼ構想はできあがる。あとは実施に向けての基盤整備、それに40年を費やしている、そんなもんとちゃいますか。後退して、天智朝くらいから再びやり始める、なんて「そんなことあらへん」と思っているわけです。
◆図は『条里制研究』の原稿の最後の結論図として作り始めているものです。
難波宮研10月3日
◆やはり条里制は7世紀後半なんだ、という話と、サトは領域だという話を90%、のこりで、大阪市 域を中心とする地域でこういうことがしたいという構想発表に終わりました。
◆大阪市域の発掘調査事例など、具体の話について、市の研究所で現場を知っている人にかなうわけがなく、ほとんど同じようなことを京嶋さんがやっているらしく、それは任せましょう。すこし大枠のところで、これまで歴史地理学で考えられてきたことに、なにか理解を前進させる新しいことを加えることをめざしているのと、大阪市史の付図で既にまとめられている条里について、大阪府の3000分の1地形図レベルで、もっと実情に沿った、上町台地と、その両側の低地部・平野部のイメージを図示したいこと、そこに郡界はむろんだが、なんとかサト域について特定できないか、といまのところ考えている。
◆長原遺跡を含む丹比郡条里が、磯歯津道基準から「長尾街道」基準で割り直しているという私説について、京嶋さんも紹介してくれているようだ。歴史地理学が指摘してきた北大木条里は、長原遺跡下層に一致する。5年以上前からそれは既に自分のなかではわかっていたのだが、ちょこちょこと図示するだけで、すごく明瞭になった(左図―いまやっている条里制研究の原稿で出します)。これを見ると、青の北大木条里では、赤の長原あたりの現存条里と、南北線も相違することに、遅まきながら気づく。池島福万寺の南北軸(セン線)の問題も、これで解決できるかもしれませんね。それでいけることの確認と、ではその南北軸の当初の基準はどこだったのか、それを追究すれば、アウトラインができあがりそうである。
◆話は変わりますが、三島もそうだと思っている。もともとは淀川に沿った斜行条里で、西国街道、山陽道を基準とし、郡界もその直交方向で切られた。しかしやはり8世紀を迎える頃に正方位条里にやりなおしているんだろうと、これもず~と前から思っている。これはたぶん、天坊さんが戦前に考えているのではないのかな。条里って、長い研究蓄積が正当に継承されていないのである。足利先生だって、条里109mについて、「なぜだか」と書いているのを見ると、愕然としてしまう。
◆大阪市域の発掘調査事例など、具体の話について、市の研究所で現場を知っている人にかなうわけがなく、ほとんど同じようなことを京嶋さんがやっているらしく、それは任せましょう。すこし大枠のところで、これまで歴史地理学で考えられてきたことに、なにか理解を前進させる新しいことを加えることをめざしているのと、大阪市史の付図で既にまとめられている条里について、大阪府の3000分の1地形図レベルで、もっと実情に沿った、上町台地と、その両側の低地部・平野部のイメージを図示したいこと、そこに郡界はむろんだが、なんとかサト域について特定できないか、といまのところ考えている。
◆長原遺跡を含む丹比郡条里が、磯歯津道基準から「長尾街道」基準で割り直しているという私説について、京嶋さんも紹介してくれているようだ。歴史地理学が指摘してきた北大木条里は、長原遺跡下層に一致する。5年以上前からそれは既に自分のなかではわかっていたのだが、ちょこちょこと図示するだけで、すごく明瞭になった(左図―いまやっている条里制研究の原稿で出します)。これを見ると、青の北大木条里では、赤の長原あたりの現存条里と、南北線も相違することに、遅まきながら気づく。池島福万寺の南北軸(セン線)の問題も、これで解決できるかもしれませんね。それでいけることの確認と、ではその南北軸の当初の基準はどこだったのか、それを追究すれば、アウトラインができあがりそうである。
◆話は変わりますが、三島もそうだと思っている。もともとは淀川に沿った斜行条里で、西国街道、山陽道を基準とし、郡界もその直交方向で切られた。しかしやはり8世紀を迎える頃に正方位条里にやりなおしているんだろうと、これもず~と前から思っている。これはたぶん、天坊さんが戦前に考えているのではないのかな。条里って、長い研究蓄積が正当に継承されていないのである。足利先生だって、条里109mについて、「なぜだか」と書いているのを見ると、愕然としてしまう。
10月1日、『図書』の対談記事
◆送ってもらったものを読む。甕で炊かれたご飯のお焦げは、海洋リザーバー効果を受けるのだろ うか。土は海の生き物を摂取しないだろう。空中の空気と水、土中の栄養分・・・、オレにはわからん。一方で、年輪年代の元データは、やはりちゃんと提示されないと、これはいかんでしょうね。日本の較正年代だって、年輪年代があるから原理的に可能なわけだが、その大元が確かであるというカッコたる基礎がないと、危ないことになることはよく理解できる。
◆話は変わりますが、今日は東海道新幹線開業50周年だとか。自分はちょうど同じ歳なのですが、まあそれはよいとして、2014といえば、第1次世界大戦から100年なのです。8月にロンドン塔に行ったとき、焼き物製のバラが88万本ディスプレイしてある。何かと思ったら、内部の展示をめぐっていると、第1次世界大戦における(範囲不明ですが)死者数みたいです。英文の説明があるのですが、読む努力をしていないので、きわめて不正確ですけど。
◆話は変わりますが、今日は東海道新幹線開業50周年だとか。自分はちょうど同じ歳なのですが、まあそれはよいとして、2014といえば、第1次世界大戦から100年なのです。8月にロンドン塔に行ったとき、焼き物製のバラが88万本ディスプレイしてある。何かと思ったら、内部の展示をめぐっていると、第1次世界大戦における(範囲不明ですが)死者数みたいです。英文の説明があるのですが、読む努力をしていないので、きわめて不正確ですけど。
サバティカル終了し、明日の授業を
◆今日は火曜日で、後期は明日水曜日から、すこしほっと。火曜日にたくさん授業があるもの で・・・。土曜日にうちわだが難波宮研究会というのがあって、発表しないといけないのです。構想、というか、こういうことができるのでは、でなく、こういうことがやってみたい、なのですが、まあ5%くらいしかできていません。なので条里の話を半分してお茶を濁すしかないかも。やりたいのは、渋河道、シワツ道、長尾街道、茅渟道、国境、郡境、郷界なんだけれど、大阪市というのは区画整理が戦前にさかのぼるので、条里が1961年地図では消えているんです。堺市もそうなんですけど。また条里地割の復元研究の基本は、ほぼ昔に終わっていて、古い文献を読み込まないといけない。が、なかなか読んでもわからんし、昔の印刷物で図が不鮮明でわからない、いろんな苦がありまして、簡単ではありません。
◆12月の大阪市と市大の連携講座も、このテーマで、そして今年もやります改新シンポⅡでもこのテーマ、要するに段々と、いくつかの機会をえて、勉強していきましょうという戦略なのですが、とはいえ10月4日の土曜日はやってくるわけです。
◆話は変わりますが、高槻市の森田さんにいただいた対談記録から、一部掲げておきます。明日の博物館概論でも紹介しようかな。
◆12月の大阪市と市大の連携講座も、このテーマで、そして今年もやります改新シンポⅡでもこのテーマ、要するに段々と、いくつかの機会をえて、勉強していきましょうという戦略なのですが、とはいえ10月4日の土曜日はやってくるわけです。
◆話は変わりますが、高槻市の森田さんにいただいた対談記録から、一部掲げておきます。明日の博物館概論でも紹介しようかな。
また呑んだくれ
◆日曜日に、条里制研究会の委員会があり、午前中は和泉市史を書き、昼からナブンケンに出かける。きっと呑むことになるだろうとは思っておりました。会議は14時から2時間で終了しましたが、オプション議題で編集の方だけ残って議論してましたが、その間、おれは待機。で小一時間で終了、西大寺で、会長、事務局長、編集担当、時期事務局長と、5人で17時前から飲み始め、またまた、とても楽しいもんでついつい飲み過ぎ・・・。
◆南下し、八木で乗り換えたんだけど、覚えていない。難波方面の急行か、普通か、まったく記憶になく、気がついたら、どこかの駅で、やばい乗り過ごしたと降りる。でもどうやらその駅どまりの車両だったよう。ここはどこ、国分まで帰る電車はまだあるのか、と朦朧と考えている。そこへ駅員さんが寄ってきて、酔っぱらいを捌きにやってきた。どう言ったか覚えてないが、もう電車はないといったのかな。しゃーない、体を起こし、階段を上がる。で、改札で駅名を見ると、河内国分だった。
◆家にたどりつき、ドアを開け、廊下を進み、そこで倒れて4時まで寝てました。
◆南下し、八木で乗り換えたんだけど、覚えていない。難波方面の急行か、普通か、まったく記憶になく、気がついたら、どこかの駅で、やばい乗り過ごしたと降りる。でもどうやらその駅どまりの車両だったよう。ここはどこ、国分まで帰る電車はまだあるのか、と朦朧と考えている。そこへ駅員さんが寄ってきて、酔っぱらいを捌きにやってきた。どう言ったか覚えてないが、もう電車はないといったのかな。しゃーない、体を起こし、階段を上がる。で、改札で駅名を見ると、河内国分だった。
◆家にたどりつき、ドアを開け、廊下を進み、そこで倒れて4時まで寝てました。
根使主はどこにいたのか
◆で、合宿中、空き時間に和泉市史を書いておりました。中日の昼に会議が行われ、このままでは3月に出ない、出してない者は責任感がなさすぎる、みたいなきつ~いやりとりもあり、出していない者の一人として神妙に聞いておりました。
◆でまあ書くことは、信太地域を中心としつつ、和泉の古墳時代をどう捉えていくか、これまで10年以上にわたって、だんだん形成されてきたイメージを顕在化させるという作業になる。
◆で、根使主を考えているわけです。それとからんで淡輪をどう考えるかも。帰ってきた翌日の土曜日に、だいたいはイメージを固めました。〆切は10月9日に延びましたが、会議で、9月中にアラアラ書く、といったもんで、今日・明日でひととおりの分量書いてみようと思います。ワープロA4で14枚くらいだったと思うのですが、9頁分くらいまで来ました。
◆根使主事件は、要するに履中系から允恭系への転換の和泉における局面でいいと思うが、より具体的にどこまで書けるか、が課題です。
◆でまあ書くことは、信太地域を中心としつつ、和泉の古墳時代をどう捉えていくか、これまで10年以上にわたって、だんだん形成されてきたイメージを顕在化させるという作業になる。
◆で、根使主を考えているわけです。それとからんで淡輪をどう考えるかも。帰ってきた翌日の土曜日に、だいたいはイメージを固めました。〆切は10月9日に延びましたが、会議で、9月中にアラアラ書く、といったもんで、今日・明日でひととおりの分量書いてみようと思います。ワープロA4で14枚くらいだったと思うのですが、9頁分くらいまで来ました。
◆根使主事件は、要するに履中系から允恭系への転換の和泉における局面でいいと思うが、より具体的にどこまで書けるか、が課題です。
太田井
◆2泊3日の合宿、1日目は2時まで、2日目は3時?、もっと、呑んでいました。呑んでばかりじゃないですよ。19:30からみっちり2時間のミーティング、6班の報告と質疑があり、終了すると呑み会に移行する。だいたい22時くらいから。
◆サバティカルで授業をもってないもんで、新2回生の顔も名前もわからん。で、この呑み会で3人を覚えた。3回生とも話はできたし。泥のように眠り、最終日、合宿所の掃除があり、早めに起きてという総務統括の勧告にもかかわらず、みなが飯を食い終わる頃、ようやく食堂までたどりつき、飯を食う気にもならずオカズをかき込む。でも3日目、使い物にならないというわけでもなく、起きてましたよ。
◆この調査で太田井水利はちゃんとわかった。坂本氏が掘り、推古朝のマエツギミ糠手も見たであろう太田井である。だいたい歩いた。昨年の課題、伯太の水はどこから来ているのかについても、目処をつけた。山の溜め池らしい。
◆サバティカルで授業をもってないもんで、新2回生の顔も名前もわからん。で、この呑み会で3人を覚えた。3回生とも話はできたし。泥のように眠り、最終日、合宿所の掃除があり、早めに起きてという総務統括の勧告にもかかわらず、みなが飯を食い終わる頃、ようやく食堂までたどりつき、飯を食う気にもならずオカズをかき込む。でも3日目、使い物にならないというわけでもなく、起きてましたよ。
◆この調査で太田井水利はちゃんとわかった。坂本氏が掘り、推古朝のマエツギミ糠手も見たであろう太田井である。だいたい歩いた。昨年の課題、伯太の水はどこから来ているのかについても、目処をつけた。山の溜め池らしい。
和泉市合宿 芦部町
◆秋分の日あけ、24・25・26日は和泉市合宿でした。今年は今在家村、戦後、名称を芦部町に変更 した村。古代坂本郷。根使主後裔が6世紀に開発した中心部である。古代坂本郷は槇尾川の南にも広がるが、槇尾川北岸は信太山丘陵を背後にした東西に細長い場所。西は上條郷(府中)、東は池田郷。条里大区画36町のちょうど3単位分がならぶ。
◆話は変わるが、条里。坪並みの番号があるから初めて大区画を線引きすることができる。もし坪名の残存地名がなかったら、109mスクエアがえんえんと続き、区切りがあるように見えない。問題意識としては、条里が施工された7世紀後半に、大区画があったのか、という問題。結論はあった。中国のせんぱく制には、いくつかのククリがあり、畦や溝の大きさを差をつけて決めてある。当然、それを学ぶだろう。発掘遺構でも大畦畔はある。そして、和泉平野の郷は、たいがい大区画を基準に区切っている。言いたいことは、109m区画がある、そこに○条とか○里といった数詞をあてる時に、どこで区切ろうかというものではなく、施工時点である、ということだ。これ、考えてみれば、未証明じゃないかと思うのだ。
◆話を戻し、坂本郷の槇尾川北岸には3区画がある。とはいえ、川まで狭いので、6町の奥行きはないのだが。で、芦部町、近世村今在家村の村境は、この3区画のちょうど真ん中の大区画なのである。う~む。におう。
◆今在家村ができたのは、その名の通り新しいそう。中世後期、16世紀くらいまでしか、しかも伝承でしかさかのぼれない。が、条里大区画の3単位が、なんらかの生産単位であったというのは、これ中世とかの話ではないだろうと思うのだ。古代ちゃう?。岸和田市史を読んでいると、36町すなわち固有名里をひとつの単位として村がある、というのは、歴史地理では前々から言われているようで、そんなことが書いてあり、岸和田の村のあるところは、それに見合うというような話だった。芦部町でそんなことを考えました。
◆話は変わるが、条里。坪並みの番号があるから初めて大区画を線引きすることができる。もし坪名の残存地名がなかったら、109mスクエアがえんえんと続き、区切りがあるように見えない。問題意識としては、条里が施工された7世紀後半に、大区画があったのか、という問題。結論はあった。中国のせんぱく制には、いくつかのククリがあり、畦や溝の大きさを差をつけて決めてある。当然、それを学ぶだろう。発掘遺構でも大畦畔はある。そして、和泉平野の郷は、たいがい大区画を基準に区切っている。言いたいことは、109m区画がある、そこに○条とか○里といった数詞をあてる時に、どこで区切ろうかというものではなく、施工時点である、ということだ。これ、考えてみれば、未証明じゃないかと思うのだ。
◆話を戻し、坂本郷の槇尾川北岸には3区画がある。とはいえ、川まで狭いので、6町の奥行きはないのだが。で、芦部町、近世村今在家村の村境は、この3区画のちょうど真ん中の大区画なのである。う~む。におう。
◆今在家村ができたのは、その名の通り新しいそう。中世後期、16世紀くらいまでしか、しかも伝承でしかさかのぼれない。が、条里大区画の3単位が、なんらかの生産単位であったというのは、これ中世とかの話ではないだろうと思うのだ。古代ちゃう?。岸和田市史を読んでいると、36町すなわち固有名里をひとつの単位として村がある、というのは、歴史地理では前々から言われているようで、そんなことが書いてあり、岸和田の村のあるところは、それに見合うというような話だった。芦部町でそんなことを考えました。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。