人を幸せにする人になろう

4月13日、寝屋川+布施

◆土曜日の夜、に鍵を研究室に置いたままロックしてしまい、駐車場で鍵を忘れたのに気づく。日 曜日も仕事と思っていたが、守衛さんに開けてもらうのもめんどくさく、大学に行くのをやめにする。摂南大学にまず行くことにする。
◆玉造で降りて、買い物のためロイヤルホームセンターに向かう。前に大学院生と歩いたことを思い出す。伏見坂町だったか、風呂屋があるところ。ホームセンターだが、たいがいコーナンに行くが、こっちの方が品揃えがいい。朝からやっていて便利だ。
◆途中、森ノ宮神社に寄る。鵲森の宮というのだそうな。おみくじを引く。吉。これから運勢はよくなるらしい。
◆さらに北上し京橋まで歩いた。途中、1945年8月14日の京橋駅爆撃被災者の慰霊碑にでくわす。ここか。

遅ればせながら日本史新歓

◆車塚から戻って翌日の8日は、日本史の新構成員を迎える新歓コンパでした。新たに日本史コース に所属する2回生13名、3年次編入生2名、修士院生2名、博士院生4名です。

翌日からは考古学研究会

◆院生3人と岡山へ。ひとつのテーマが前方後方墳めぐり。記事を書く余裕はあんまりなさそうなので、ひととおりの経路を書いておきます。
◆処女塚→西求女塚→兵庫県立考古博物館→(権現山50・51パス)→赤磐市の資料館→備前国分寺→両宮山古墳→森山古墳→朱千駄古墳→馬屋遺跡→牟佐大塚古墳→賞田廃寺(備前車塚パス)→16:00岡山大学。2日目は、報告を聞いた後、吉備津神社→古代吉備文化センター→鯉喰神社→楯築→造山古墳、帰る。大阪駅10時前。
◆鯉喰で特殊器台の破片を見つけました。

4月19日の金曜日

◆週1回の整理等の作業日。この日は、耐震工事で片付けていた2階踊り場の展示復旧、そのあと旧 法学部棟の倉庫に入れている、難波宮跡、糞置遺跡の遺物、発掘器財、博物館実習用に購入してもらったもの、などを経済学部棟4階の倉庫などへの移動で、ほぼ17時までかかる。

もひとつ近鉄奈良線100年イベント

◆要するに駅のチラシをもってきたわけです。近鉄奈良線開業100年、生駒山にトンネルを掘る 難工事の上に開通したのが1914年。5月26日の隣地講座に行きたいものです。

5月3日は玉7?

◆玉手山公園で小松山合戦まつりが行われる。大阪の陣1614から1615ということで、大阪では、 400年事業があちこちで行われることだろう。大河ドラマで松寿丸と剣の稽古をし ている後藤又兵衛は、小松山合戦で討ち死にする。玉手山1号墳の別名は小松山古墳。3号墳の別名は勝負山古墳。玉3の発掘調査では鉄砲玉も出土している。7号墳脇に後藤又兵衛の石碑が建てられている。7号墳後円部の石塔は戦没者慰霊塔だったっけ、か。
◆河内国分駅には、幟もはためいている。
【追記】歴史秘話ヒストリアで、長政と又兵衛をやってました。いちばん最後の5分だけ、だったが。再放送を是非みたいもの。

文殊院西の陰影図上がる

◆安倍倉梯麻呂墓の石室陰影図が仕上がりました。
◆さっそく、改新シンポにむけて作っていたものを、線描実測図に変えて陰影図を貼り込んでやってみました。高麗尺、玄室は14尺×8尺、羨道は玄室とやや軸が触れていますが、幅6尺で羨門で半尺ずつ絞り、ハの字に開くようにしている。玄室と羨道の天井高は2尺、羨道の段差は1尺です。
◆続いて岩屋山古墳のデータも上がってきたが、この公表は了解がいるので、しばらく寝かせておきます。

市大日本史は

◆4月14日月曜日、論文1本、購読の授業のまとめの原稿、そして午後はず~と合同調査の原稿の編集をやっていました(22:20)。で、これを入稿し、1日、市大日本史の仕事で終わりました。
◆今号は、まだ論文が2本入っておらず、どうなるでしょうか。一段と厳しい・・・。これまで大会に間に合わなかったことはなく、今年もとは思いますが、1回くらい間に合わなくてもいい、くらいで構えることにしたいと思います。むろん仕事はしますが、間に合わないものは間に合わない。

つどいの原稿

雄略天皇の奥津城は何処か

 岡ミサンザイ古墳とするのが有力です。今日はなぜそう言えるのかをお話しします。
  ◆
 5世紀代の倭国王の在位年ははっきりしません。『日本書紀』の在位年が允恭以前は水増しされているからです。『古事記』の崩年干支はいけると思っています。一方、考古学的に、古市・百舌鳥古墳群の倭国王墓の年代が明らかになっていなければなりません。この両者がそろわないと、王墓の被葬者を考えることはできないわけです。
  ◆
 倭国王の在位年がはっきりしない理由は、倭国王が2人いたからで、それを7世紀段階の王統譜整備に際し1本にまとめたことに起因すると考えています。
 履中系と允恭系(実は仁徳系)の対立論と、倭の五王の「讃・珍」/「済・興・武」の異系論は、履中系の反正が倭王珍で、允恭=倭王済とみるのが定説ですから、見事に対応するわけです。つまり、河内政権内での主導勢力の交替です。わたしは倭国王墓の検討から、この両系統こそ、オオヤマト段階から続く執政王と神聖王という2王の系譜に対応すると考えています。つまり、副系列墳の被葬者である応神(ホムダワケ)-履中(イザホワケ)-反正(ミズハワケ)-イチノベオシハワケ(在位しただろう)という執政王に対し、主系列墳の被葬者である仁徳(オオササギ)-允恭(オアサヅマノワクゴノスクネ)-キナシカル-清寧(シラカ)という神聖王が並立するとみています。神聖王の系譜については、「天皇」の地位に就くことを「治天下」と表現し執政者を王と位置づける『古事記』において、ウジノワキイラツコ・允恭・キナシカル・清寧のみ「日継」の表現が用いられることを、倉西裕子さんが指摘しています。ちなみに、ウジノワキイラツコは実在せず、それはオオササギのことだと考えています。また執政王の地位こそ「ワケ」だとみています。
    ◆
 そして、履中系(=執政王系)優位から、允恭即位(433年)以後、允恭系(=神聖王系)優位に逆転するわけです。これは倭国王墓にも反映するはずで、それは、上石津ミサンザイ古墳、そして後続する420mの誉田御廟山古墳と、副系列墳が最大規模墳となっていたものが、次の段階に、主系列墳である大仙古墳が540mと凌駕することに対応すると考えていいでしょう。ですからわたしは、誉田御廟山古墳=反正(倭王珍)墓、大仙古墳=允恭(倭王済)墓とみています。
    ◆
 既に5世紀の王墓の被葬者論について結論の一端を示したわけですが、いますこし説明しておきます。『古事記』と『日本書紀』で没年がほぼ一致するのは、453年(記)と454年(紀)の允恭しかありません。被葬者論に必要な、5世紀の倭国王の在位年については、倉西さんの研究にもとづいており、これが妥当と思われるので用いていますが、その詳細については省略します(図に結論は記入しています)。
 一方、古市・百舌鳥古墳群の倭国王墓の年代観の方です。王墓の築造順序については、埴輪の研究や、すべてにともなうわけではありませんが出土須恵器を手がかりにほぼ固まっています。問題は実年代です。わたしは、古墳時代中期の開始時期を4世紀後葉とする従来の年代観に立っています。現在、須恵器にともなう木製品の2点の年輪年代により、中期の開始はより古く、4世紀後半にさかのぼるとみる意見が有力になりつつあります。そのデータを尊重しないわけではないのですが、一方で、日韓の馬具や陶質土器の比較研究から、例えば須恵器のTK73型式を430年代に位置付ける意見も手堅いと思っています。最近の諫早直人さんの馬具の年代観も、それを支持するものとみています。また、伽耶における陶質土器の拡散の様相、また倭の初期陶質土器のあり方から、倭への陶工の渡来は、南下した高句麗軍により400年に金官国が大打撃を受け、その混乱のなかでの波及とする趙栄済先生の見解も説得的だと考えています。
 100%の自信はありません。年輪年代は重要ですが、一方で馬具にもとづく年代観も棄却できないのです。現時点では、中期の開始時期が4世紀後半に大きく食い込むことはまだ確定したとはいえず、わたしは考古学的に求められている年代観に立っています。もひとつ正直にいえば、戦後の古代史研究では、応神こそ前代までの王統に取って替わる河内政権の始祖であることが導かれましたが、その応神の没年が『古事記』崩年干支から394年とみられるからです。従来、中期の開始時期を4世紀後葉と考えてきたのも、明言せずともそれに依っていました。より古くなるという新しい年代観でいくと、例えば白石太一郎先生は、現・応神陵である誉田御廟山古墳は、4世紀初頭くらいには位置づけうるので、394年没の応神の墓でいいんだと主張されます。そうすると、誉田御廟山古墳の前に、上石津ミサンザイ古墳や仲津山古墳や津堂城山古墳があり、河内政権樹立の立役者とされる応神の前に、既に河内に倭国王墓が存在していることになります。このあたりも整合がとれないと思います。
 なおわたしは、応神陵は古市・百舌鳥古墳群最古の王墓である津堂城山古墳とみています。最終的な解決は年輪年代データの蓄積を待って判断したいと思います。いずれシロクロがつくことでしょう。間違っていたら、組み立て直します。
 そしてこの年代観からすれば、埴輪・須恵器で判明している王墓の相対順に対し、最古の津堂城山古墳を4世紀後葉とし、TK73型式を430年代など、各段階を案分すると、誉田御廟山古墳に後続する大仙古墳は、TK216型式期で5世紀中頃に位置づけられ、454年没の允恭にみあうと思っているわけです。
    ◆
 以上が前提の話です。次にいよいよ雄略(ワカタケル)の話です。雄略即位にあたっては、かなり凄惨なできごとが『日本書紀』に描かれていますが、詳しい話は省略し、わたしの理解を説明します。神聖王允恭のあと、その王位はキナシカルが継承したと思っています(日継とされるので)。一方、雄略即位の意味を考える上で重要なのが、イチノベオシハワケを狩に誘い射殺することです。イチノベは『播磨国風土記』に市辺天皇とあり、反正後の執政王として即位していたと考えています。そのイチノベを殺害しての、允恭系の雄略即位は、本来は神聖王の系譜である允恭系が、執政王位を奪取すること、つまり両王位の独占を意味すると思います。ちなみに、倭国王を殺害しての王位奪取は『日本書紀』にはありません(殺されたことが明記されているのは安康と崇峻)。そこで、殺されたイチノベの在位を王統譜には入れず、ワカタケルによるイチノベ王の殺害は、実在しない安康に仮託したと憶測しています。
    ◆
 雄略即位は、群臣の推戴→王宮予定地に土壇→天つ神を祭る→神々から地上の支配を付託される。大臣=平群真鳥、大連=大伴室屋・物部目の任命という、即位儀礼の整備という点から注目されています。また、雄略の王宮が泊瀬(長谷)朝倉宮(はつせのあさくらのみや)と伝えられていることも有名です。
 さらに、「治天下大王」という君主号の使用や、王権の最高守護神の祭場を大和から伊勢に移設するとか、稲荷山鉄剣や江田船山鉄刀の銘文から、列島各地から上番し王に近侍するなど、特定の職務を担い集団を率いて出仕する体制が成立していることや、現業部門や実務系の職能集団もうかがわれ、朝廷組織の整備の面からも注目されています。また、のちの時代からも画期とみられていたことを岸俊男先生が論じています。
 また各地の古墳群のあり方からも、有力豪族の押さえ込みに成功したことがうかがえます。5世紀前半段階の執政王系と結びついた各地の大豪族は、ほぼことごとく押さえ込まれます。そして、これにかわり中小豪族が起用され、大型円墳などが顕著になり、王権により従属的な豪族の起用が進んだようです。文献にも、吉備下道前津屋、凡河内香賜、播磨・文石小麻呂、根使主、伊勢・朝日郎など、地域勢力を殺害する記事が数多く記録されているところです。
 ただ、雄略段階は、そうした中央権力の卓越が大きく進展した段階であることは認めますが、やはり画期は允恭朝にあり、雄略朝はその延長にあると思っています。各地の古墳群の消長の上でも、5世紀後半よりも5世紀中頃に、有力前方後円墳からの退転が顕著だからです。
    ◆
 雄略の在位期間ですが、『日本書紀』では457年~479年とされますが、『古事記』崩年干支では没年が489年で10年違っています。これ、かなり困った問題です。雄略没後、河内政権は弱体化し、継体が擁立されることになりますが、継体擁立前の河内政権混乱期がおよそ20年続いたのか、10年くらいなのか、ということは大問題かなと思うからです。『古事記』の489年とみるべきかと思いますが、なぜに『日本書紀』と一致しないのか、なにか理由があるのだと思います。
 また、雄略(ワカタケル)=倭王武とするのが定説ですが、異論もあります。『宋書』〈倭国伝〉では462年に倭王済の世子興が献使したと伝えています。雄略紀の464年と468年に中国へ使者派遣記事があり、これに対応すると考えられます。また、有名な478年の倭王武の上表では、「父兄」が没し喪に服した後に献使したことが語られ、478年の前に王位継承があったと考えるべきです。つまり、倭王興の治政が462年頃~478年頃だとすると、それは『日本書紀』の雄略治世(457~479)とほぼ重なるのです。
 ちょっとこの問題は手に負えないので、ここまでにしておきます。
    ◆
 さていよいよ雄略陵の話に進みます。雄略すなわちワカタケルについては、記紀の記述とは別に、二つの象嵌銘入り刀剣に名前が現れ、考古学的な立場から活躍期を考えることができます。
 まず、埼玉稲荷山古墳の礫槨出土辛亥年鉄剣ですが、これは471年で間違いないところです。稲荷山古墳のくびれ部から出土した須恵器はTK47の古相とされています。この須恵器は稲荷山古墳の主人公の埋葬にともなうと考えられますが、礫槨が後円部の中心にないことから、中央部に未知の埋葬施設があるのかどうかについて議論があります。礫槨の年代を副葬品のうちの三環鈴からMT15段階に下るものとし、未知の中心埋葬を考える白石太一郎先生に対し、和田晴吾先生は三環鈴はTK47にさかのぼりうるとし、礫槨が初葬とみてよく、くびれ部出土の須恵器に対応すると考えています。それでいいのではないかと思っています。
 471年を含むヲワケ臣の活躍期は、≒ワカタケルの活躍期と思いますが、470年代を中心とする前後の時期と考えることができます。考古学のものさしでいえば、没年にともなう須恵器がTK47古相ということからすると、TK23型式期を中心とする時期でしょう。471年銘鉄剣をもつ被葬者の死没時期はもちろん不明ですが、471年からある程度経った頃でしょうから、5世紀後葉のなかにあり、TK47にかかる時期となります。
 次に柏原市の高井田山古墳の石室を取り上げますが、以下、柏原市立歴史資料館の安村俊史さんの研究によります。安村さんは高井田山古墳の石室について、熊津期の表井里型とは兄弟関係で、親は百済・漢城期の横穴式石室の1種と推定しています。そして、石室の規模や火熨斗などから、被葬者は百済王族とみています。なので、その被葬者は熊津再興前、すなわち475年の漢城陥落前後の混乱期に渡来したと考えておられます。とても興味深い話です。その高井田山古墳から出土した須恵器を、安村さんはTK23新段階としています。稲荷山古墳の須恵器とほとんど変わりませんが、わずかに古そうです。475年前後に来倭した被葬者の死没、これも5世紀後葉のことでしょう。
 こうしたことから、安村さんは、TK23を470~480年代に、TK47を490~510年代にあてています。なるほどと思い拠り所にしています。ただしTK23の頭は、もうすこし古くなりうるかと思います。以上の考古学的な材料からすると、ワカタケルの活躍期は470年代を中心とする時期で、須恵器でいうTK23型式期の頃といえると思います。
    ◆
 いよいよ雄略陵の話です。雄略陵は記紀に「丹比高鷲原陵」とあり、『延喜式』に「在河内国丹比郡」と書かれています。江戸時代には島泉村にある高鷲丸山古墳とされ、幕末・文久期にそのまま治定されますが、やはり違うでしょう。各地の豪族を押さえ込んだ雄略陵は、やはり巨大前方後円墳とみるべきです。
 そして繰り返しますが、雄略の活躍期は470年代を中心とする前後の時期、須恵器でいうとK23型式を中心とする時期と考えられます。
 その前のTK208型式期の倭国王墓は、主系列墳=神聖王墓が土師ニサンザイ古墳、副系列墳=執政王墓が市野山古墳ですから、これらに後続する王墓が候補になります。具体的には、古市古墳群中の、軽里大塚(前の山)古墳(主系列墳)か、岡ミサンザイ古墳(副系列墳)に絞られます。
 埴輪の研究からすると、軽里大塚古墳(埴輪Ⅳ期末)→岡ミサンザイ古墳(埴輪Ⅴ期初頭)とされ、時期差があるとされています。しかし軽里大塚古墳の埴輪は墳丘に樹立されたもの、一方のミサンザイ古墳の埴輪は周堤出土のものを中心とします。埴輪も没後生産ではなく生前ストックがあるのではと思いますが、いずれにしても、墳墓の最終整備時における埴輪の樹立において、墳丘に使用する埴輪が先行し、周堤の埴輪が遅れること、あるいは墳丘に使用する埴輪は大型品で丁寧で(二次調整ヨコハケ残存=Ⅳ群)、周堤使用埴輪は小型で粗雑(二次調整を省略したⅤ群)ということはありうると思っています。つまり、軽里大塚古墳が先行し、岡ミサンザイ古墳が遅れるとされていますが、実際には明確な前後関係にはなく、おおむね同時期ではないかと考えます。
  ◆
 雄略は日継とは表現される存在でなく、執政王位に就いていたとみるイチノベを殺害して即位し、数々の地域豪族を倒した記事からして、執政王位にあったのでしょう。候補となる2墳のうち、岡ミサンザイ古墳こそ、市野山古墳に後続する副系列墳すなわち執政王墓とみられます。そして、岡ミサンザイ古墳の所在地は、現在も残る野中の地名、あるいは野中寺にも近く、古代の丹比郡野中郷の範囲に含まれると考えて問題ありません。岡ミサンザイ古墳からは年代の特定できる須恵器は出土していませんが、様相が明らかになっている埴輪はTK23型式期に平行するとされています。
 以上のことから、考古学的な年代観からも、墳丘が副系列墳であることからも、また『延喜式』の所在地との整合からも、雄略陵=岡ミサンザイ古墳でよいと思います。
    ◆
 一方、ほぼ同時期とみている軽里大塚古墳ですが、土師ニサンザイ古墳に後続する主系列墳ですから、執政王雄略と並立した神聖王の墓と考えられます。雄略世代の神聖王とすれば、それは『古事記』において日継という系譜関係が示される清寧(シラカ)が候補となります。清寧陵は、『日本書紀』に「河内坂門原陵」とあり、『延喜式』には「在河内国古市郡」とあります。いま宮内庁は軽里大塚古墳のすぐ西にある白髪山古墳を清寧陵としていますが、6世紀に下ります。軽里大塚古墳そのものは、日本武尊陵とされているわけですが、東にのびる段丘先端の好位置を占め、白髪山古墳より規模も大きいものです(約200m)。そして古代古市郡にあたると考えてよく、所在地としても問題ありません。したがって、軽里大塚古墳が清寧陵と考えています。
    ◆
 以上のように、軽里大塚古墳を清寧陵とすると、基本的に雄略と活躍期の重なる2王という関係になります。記紀の王統譜では雄略-清寧を父子としていますが、同世代の兄弟ではないかと思います。
 また允恭段階で主系列墳(神聖王墓)大仙古墳が副系列分を凌駕し、後続する土師ニサンザイ古墳もまた、標準規模には戻りますが約300mを維持し、イチノベ陵である副系列墳の市野山古墳225mよりはるかに大規模です。しかし次世代の雄略の段階においては、雄略陵である副系列墳(執政王墓)である岡ミサンザイ古墳が240m(160歩か)であるのに対し、主系列墳(神聖王墓)である軽里大塚古墳は210m(140歩か)と、允恭系の2王独占体制のなかで、雄略の執政王位の方が、神聖王よりも大きくなっています。
    ◆
 なお、岡ミサンザイのあとの執政王墓は見あたらず、一方で墳丘形態や築造時期から、軽里大塚古墳に後続する神聖王墓はボケ山古墳で、これは治定通り仁賢陵でいいと思います(MT15期=6世紀前葉)。そして、6世紀初頭にオホド王が担ぎ出されることになります。そうすると、河内政権の神聖王が存在するなかで、実際の統治を担う執政王にふさわしい人物は不在となり、そこに継体が担ぎ出されるといった解釈も可能ではないかと思います。そして仁賢後、白髪山古墳の存在から河内政権の後裔もなお残存しており、その段階での継体との関係はよくわかりませんが、いずれにしても継体の段階で2王並立が解消され王位が1本化すると考えています。ただし、2王並立の伝統は残存するとみられ、王位は1本化されるものの、その王位のもとに王族執政者として加わる「大兄」こそ(継体の子である勾大兄が最初)、執政王の地位の後身にあたるとみています(中大兄まで)。

久津川車塚のトレース図

◆数日、帰りの電車でトレースして、なんとか、ひととおりできあがったので、披露しておきま す。おおむね矛盾はないのですが、やや怪しい箇所など、終わったつもりだが、チェックしないといけない箇所もいくつかある。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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