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ベルギーの歴史(ウィキ)

 紀元前6世紀ごろになるとケルト人がライン川を渡って到来。紀元前後になるとローマ人との接触 がはじまる。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ。ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となる。ローマはゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン・トゥルネー・アルロンといった植民都市が築かれる。アウグストゥスの時代に、ベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州となるが、ドミティアヌスはライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアとなる。
 3世紀に入り、フランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退する。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となったそうな。
 フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国は、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認め、481年、サリ族の王となったクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国する。クロヴィス1世は、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した。しかし没後、王国領土は4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進む。
 でカール大帝。今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、800年、サン・ピエトロ大聖堂において西ローマ帝国の帝冠を授与される。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した、のだそうな。

ベルギーの旅(7)

◆ベルギーについて勉強しましょう。以下、ウィキ。

 ベルギー王国は、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。欧州連合(EU)の原加盟国であることや、地理的には欧州のほぼ中央部に位置する交通の要衝にあり、その主要機関の多くがブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)に置かれているため、ブリュッセルはEUの首都とも言われている。憲法上の首都は、19コミューン(自治体、区)から成るブリュッセル首都圏。中心部にはその自治体のひとつブリュッセル・ヴィルがある。
 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年に北部オランダ語圏のフランデレンと南部フランス語圏ワロンとフランス語とオランダ語二カ国語が公用語のブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。

◆1993年に連邦制に移行したんだって。その内実がどんなんか、ということはあろうが、連邦政 府はあるんだろうが、基本的には三つの主権地域に任されているということなんでしょうね。これにEUといった枠組みができあがり、安全保障や経済政策といったものがより広域の枠組みで決まるとなると、ベルギー王国としての枠や、連邦政府という役割は、なくなりはしなくとも一応のひとつの単位として、また代表という意味合いということになるのでしょうか。
◆いわゆる国家なるもの、中央集権的な近代国民国家を経て、望ましいのはこの連邦制のような姿なのかもしれません。実際的な地域圏こそが基礎的な国であって、自治的な運営をむしろ強め、より広域にわたる問題のみ、従来から存在し、それをなくすことは当面はないであろう国家的枠組みで対処する、といった姿。国民が自らの生活や生活圏について自治的意識をもって民主的に運営するには、そんなに大きな単位ではないんでしょうね。そして21世紀において、競合や戦争といったものがなくなり、共存を課題にするとすれば、そうした単位を基本にし、しかしより上位の利害調整機能も置いておく、というのが望ましいのでしょう。
[写真]どうも選挙があるらしく、これ選挙ポスターらしい。

ベルギーの旅(6)

◆部屋は広いが、まあビジネス用で、アメニティとかはあんまり整っていない。バスもなくシャ ワーだけだった。三角形状の不規則な形で、その隅の方の机を占拠する。
◆眠ったら眠ったで、朝4時頃だったかに目が覚める。6時間近くは寝てるんでしょうか。もう寝ていられなくなり、『市大日本史』の仕事をする。ポーター書評!。フリーのワイファイがあって、少々のろいが、なんとか仕事はできる。そんなことをやっていると、写真に撮られてしまいました。

ベルギーの旅(5)

◆ホテルの角のところにレンタサイクルがならんでいる。どれくらい利用率があるんかいな、と 思ったが、翌日とか、20台中18台が出払っている状態。客層はわからないが、ブリュッセルの町はむろん大きいわけだが、人口100万人強くらいのようで、自転車があればだいたい回れるのかもしれませんね。
◆部屋は2階の248。夜22時前に入ったのだろうが、この5月4日は32時間あった1日なので、5日午前0時といえば日本時間では5日の朝8時、すなわち徹夜して朝が明けたことになる。荷物を置いて、ベッドに横たわると眠りに落ちる。

ベルギーの旅(4)

◆19:08のTGVがブリュッセルに到着したのは、ほぼ21時でした。かなりの線数のレールがある。 いったい何番線まであるのだろうか。向こうに高い塔が見え(これは最高裁判所の建物のよう)、ランドマーク的存在。ホームはきれいなもの。国鉄の駅では、ブリュッセルには北駅・中央駅・南駅があるようだが、南駅に到着。いろんなところに向かうターミナル駅としては南駅みたい。
◆ホテルは駅すぐ横のイビス。駅の東北から道路を隔てた向かいだが、驚いたことに信号がない。横断歩道があり、勝手に歩行者は渡り、車は止まる。
◆予定では、ここに2泊する。明日5月5日はブリュッセルを見てまわり、5月6日に朝から会場であるオステンドへ向かうことになっている。オステンドで2泊3日、8日夜にブリュッセルに戻り泊、9日午前の飛行機で、今度はブリュッセルからオランダ・スキポール空港経由で戻ることになっている。

ベルギーの旅(3)

◆シャルルドゴールは15年ぶり。なんにも憶えてませんけど。TGVでブリュッセルに向かう。 TGV、これなんて読むんですかね、テゲベですか。18:48発で、だいぶ ある。が、あんまり空港内に店がない。PAULというファーストフードみたいなやつが多い。飛行機内で2食し、最後のやつは到着2時間前くらいだったし、あんまりお腹は空いていないが、ビールを。
◆5番線だかの表示がやっと出て、1号車というのでホームの端まで行き、乗り込む。座席は固定で回転しない。シートはでかく贅沢。片側1列、反対側2列の、計3列。1列席の前後の指定ではあるが、シートが回転しないので、向き合えず個々。また進行方向に対して後ろ向きで発車する。が、途中、リエージュで長く止まったそうで、そこからは逆向きに走り、進行方向に向いていつの間にか走っていました(睡眠中)。窓の外の風景は、ひたすら田園地帯。

ベルギーの旅(2)

◆11:30発、エールフランス、シャルルドゴール行き。たばこ、買いました。また値上がりしたの で、10個4500円のところ2900円。中央4列のまん中ということだったが、窓側の席も空いているようで確保。が、窓側に座らせてくれなかったので、今回は外の風景は見れず。
◆映画を3本見る。時差が8時間で、フライトが約12時間、まてよ11:30+12ー8=17:30。着はほぼ16:30で予定より早かったようだ。まあ割と楽。ふだん起きている時間に飛行機に乗り、着いてから、その日の終わりまでが長くなるが、まあ頑張って起きていれば、スムーズに翌日になる。

ベルギーの旅(1)

◆カミさんの学会発表に同行しベルギーに(いちおう自分の課題もあるのですよ)。5月4日発、10日朝着予定。3日、大学で仕事をして、帰ろうとしてメールチェックすると、『市大日本史』の校正が7本くらい来ていて、とにかくダウンロードし、プリントし、家に戻る。旅行の準備といっても簡単。それから市大日本史の校正の仕事をし、スキャナーはないのでデジカメで撮影し、印刷屋に送り、寝る。
◆翌日、7:24分の電車でと思っていたが、出るのがやや遅れ、車で関空に向かう。順調だったが、8:27、岸和田の料金所を抜けてしばらく行ったところで車が止まる。GWおそるべし、やっぱり電車にしとけばよかった!・・・と思ったが、もう遅い。が、これは事故渋滞だった。泉佐野と泉南の間で2㎞と確かに手前で表示されていたのを思い出すが、それが伸びてきたらしい。これはまずい。パトカーが何台も現場へ向かう。
◆たぶん9:00頃、関空道分岐までたどりつき、そこからはスイスイ。その分岐箇所で「ここで出よ」の表示が立てられている。阪和道は完全ストップか。「ここで出よ」と言われても、分岐点の先に数珠つなぎの車がある。どうやって出るの?。あ~あ、GW5月4日快晴、行楽日和、みなさんの予定は大きく狂うことになるのだろう。関空道への連絡のところ、対面側も阪和道へ入ろうとする車が延々と止まっている。引き返したくてもバック不可。関空道も同じ。
◆りんくうタウンの駐車場に入れ、無事、空港にたどりつく。

市大日本史も大詰めで

◆5月3日、憲法記念日。小松山合戦のイベントに集まってきているらしい人を横目に、大学へ行 き、市大日本史その他。今年は約50頁減。このためか、いつもよりスタートが遅かったにもかかわらず、もう終盤に近づいている。じゃじゃこしい原稿がそう多くないこともある。また、サバティカルで授業なく、常に校正返りに即対応できたこと、入稿のテクニックの進歩など、いくつかあるのだろうが。
◆ともかくも、いつもより約1週間早くカタがついた。とはいえ、まだ終わりではない。個々の校正とともに、全体に目を配る必要はあるし、目次もこれからだし、完全校了まで気を抜かず・・・。
◆明日から海外逃亡します。だから急かしたわけでもありませんが、前にGWに丹後で測量していた時も、いないことを前提に対応してきた。早め早めに越したことはありません。

池尻15号墳

◆それから、池尻15号墳を見に平荘湖へ。カミサンには「結局、古墳なん」と言われるが。まあ美 しい4段積み。高校時代、この古墳には何度も通ったものである。
◆なお、地蔵寺古墳だったか、平凡社の地名辞典によれば、7世紀のものという。これも見に行かなあきません。こっちは見たことない。
【追記】地蔵寺古墳をネットで調べると、切石石室ではないが、かなり整ったものです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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