人を幸せにする人になろう

2010年10月27日第3日

◆8:00集合でホテルの前で朝食、牛頭チゲ(?)。9:10出発。今de59bf8e.jpg日はやや薄曇り。春川にはc80fa922.jpgバスケットボールチーム(チーム名はハンセ?)があるのか、あちこちに選手の写真の幟がはためく。まず国立春川博物館。2002年に開館してまだ10年たたない新しい博物館。考古の展示はワンフロア。江陵・草堂洞の新羅時代の馬具、襄陽・浦月里の棺座金具、蝋石の百万塔、鉄製の仏像などを見る。受付でパンフレットと春川の地図をゲット。カフェモカ(2000W)。10:30終d629102e.jpg了、中島(チュンド)に向かうが、途中、10:45、チュンサンの家に立ち寄る。8ba3818b.jpgポラリスのネックレスを買うべきところ、ストラップにする。写真をオマケで付けてくれる(公式なものでなく、撮影時に撮影したペヨンジュンとチェジウの写真)。ちなみに隣は初恋の撮影場所だそうだ。
◆話は変わるが突帯紋の年代が昨日より問題となっていて、こっちの年代ではBP3500~BP2800くらいだそうで、日本の突帯紋とスムーズに連絡するのではないか。韓国での畑稲作から水稲がどのように定着し、倭にもたらされるかが問題だが、印象としては韓で一定の成熟を経て倭へと言っているが、意外に短期間のようにも思う。20339485.jpg
◆11:10中島の渡しに着く。ダムができて湖ができ、中島遺跡はほんとうに中之島になっている。ダム湖が春川市街隣接地にまでおよんでいる格好だ。このダム、1960年代末にできたそうだ。いま、堤防工事のために、中島の沿岸部各所で発掘が行われており、船で中島に渡り(5300W)、レンタサイクルで発掘現場をめぐる。写真の先頭は、釜山大を出て、歴博つまり総研大で博士号を取った李昌ヒ、2004年に釜山で会っている。
◆途中、和田晴吾氏から電話あり、今城塚の墳丘復元を急遽やらねばならないのだが、今日の夕方、天王寺に出てこれるかと。それはムリ。f90aab37.jpg
◆発掘現場は合計4箇所めぐる。ce8c9c06.jpg最初はD地区、支石墓がいくつか、その下層で青銅器時代の住居が見つかっている。現在の堤防、自転車の遊歩道の内側を発掘しているのだが、遺構面は水面くらいで、低い部分は水に浸かって発掘できないという。2箇所目は住居は1棟だが、鉄器時代かと思われる畑のあとが面的に検出されている。北漢江と昭陽江の合流部で洪水を常に受けてい64736354.jpg3d3177f3.jpgる様子だ。松木氏いわく「ローマの土器がブリタニアで出てるようなもの」、これはこの地域の鉄器時代の中島式土器?に百済の瓦質土器が入ってくるという状況を喩えたもの。3箇所目は、鉄器時代?の中島式の炉跡。炉とカマドが併存するのだ。4箇所目は竪穴1棟のみ。
◆見学を終え、渡しに到着し、自転車を返し、13:50、昼飯。14:30の船に乗ることとなり、15分ほどあき、冬のソナタのロケ地をめざし、1箇所を見学して時間。14:45バスで出発、今日のafcf0176.jpg1d8c0666.jpg予定はほぼ終えたのだが、オプションで2箇所まわる。15時、小林謙一氏をバスターミナルで送り、整備された支石墓(15:30頃)、高句麗時代の芳洞里古墳群(片袖式石室)を見学、16:10出発し、今日の宿泊地である龍仁市に向かう。ナミソムには行けず(涙)。
◆18:00水原インターで降り、ホテル着(ジュエリーホテル)。ガラス張りのシャワー室があるバスは、記念物課旅行で課長と浦安に泊f06909e4.jpge148dfa8.jpgまって以来だ。ベッドはダブルベッドとシングルのツイン。今日は魚ということで、サシミをはじめいろいろ堪能し(21:00終了)、そのままカラオケになだれ込む。いや~みなさん、よく歌いますわ。写真は広島大学と岡山大学の先生。23:30頃終了か。
◆ホテルに戻るもネット環境がなく、ブログは書けない(記事だけは書いておき、翌28日に儒城でアップ)。

韓国第2日

29c905a0.jpg991980f5.jpg◆あいかわらず頭が痛い。朝は9:30出発に変更される。まず春川市内の江原大学で博物館の見学。江原道でもっとも大きい国立大学。ひととおり並んでいる。興味を引いたモノ、朝鮮時代の土馬、日本の8世紀のものと起源を同じくし、それが残存しているとすれば、結構長くまで残っているといえる。同じく朝鮮時代の水切り瓦も、平瓦は桶巻きである(分割破面がばっちり残存)。石製の容器、食器、これも日本ではあんまりないものである。
◆春川は人口27万人だそうである。
◆次に、同じ春川市内の翰林大学(私立)の陳列室。博物館はない8873e07d.jpge425e472.jpgか、と思ったが、入ってみると、陳列室はけっこうな面積で、購入品の参考資料もあり、報告書もけっこう出している。館長は近世史らしいが、考古担当の2人の女性に対応いただいたが、けっこう充実している。
◆それにしても韓国の大学は、なかなかどことも立派である。日本の大学との違いは何なんだろうか。ひとつはキャンパスの広さ、ゆったりとした敷地に、個性豊かな建物がある。無機的な建物が密に建っている、わが大阪市立大学との差は歴然だ。なんとはなく、大学生の雰囲気も大学生らしいようにも思う。
◆東大の設楽さんのリクエストで、昼はジャージャー麺。話をしていると、キムチって、植民地時代以降のものだそうである。韓国の伝統かと思っていたが、20世紀以降のものと知ってびっくり。12:30昼食終了。
◆それから、春川を離れ、北漢江をさかのぼり、華川市の発掘現場に向かう。大統領の主導で97f5b768.jpg北漢江の上流域の開発が進められているらしく、川沿いで数万㎡の発掘が行われている。13:15、最初に行ったのは北岸(西岸)の現場だが、これは見学を断られる。どうも、この開発自体かなり疑問視されているらしいが、大統領の主導なため、重要な成果が挙がっている場合、保存問題になるとやっかいなので情報が隠されるらしい。どことも同じようなもんだ。それが担当者によって異なるらしく、そういったデリケートな問題なので伏せる担当者と、そうでないところで違いがあり、最初のところは×だったらしい。
◆2箇所目は対岸で、コレリ遺跡というらしい。数地区に分かれ、江原道文化財研究所の調査で、100棟の建物が検出されている。川沿いで、砂地でサクサクの土壌で、残りの良い住居跡を見ることができた。面積は広大、早くやれ、そういうことらしい。そのまま遺跡公園にすればよいのに。ここは、いまは川にごく8c5a7cfe.jpg2994ae4a.jpg近いが、それはダムができて、川幅が増した結果で、遺跡のある時期(青銅器時代)は、川沿いの段丘上になるのであろうか。看板ではMinistry of landとある。国土省直轄事業らしい。ダムを新たに造るわけではないが、二風谷ダム開発を思い起こしていた。
◆3箇所目は、同じ側の別地区。ちょうど、遺跡の検討会が行われたらしく、プロジェクターがセットしてあり、プレハブでレクを受け、そのあと現場に。実際に作業員さんが土を掘っており、道具を含めて興味深く見学する。15:25には現地見学を終了し、春川に戻り、江原道文化財研究所の事務所を訪問する(16:23)。
◆ビルのなかの2フロアくらいか。実際はもっとあるのかもしれないが、事務所の階と、報告書作成の階を見学した。突帯紋の土器を見せてもらう話になっていたようで、藤尾氏ほか、熱心に資料を見ている。ここで出版している報告書が棚にならんでいた。どううやらシリーズ名があって、順番にならべてあるらしく、見るc940e6f6.jpgと、いちばん古いものが2001年、2009年までに80冊を刊行している。いかにこb1222a4d.jpgの10年、大開発が進められ、発掘調査が激増したのかがよくわかる。なかなか整理体制は整ったものである。整然とコンテナが整理され、きちんと注記され、シールが貼ってあり、図面が整っている。あたり前のことではあろうが・・・。別れ際、むこうの代表みたいな人が、日本から資料を見に来ても、それっきりのことが多く、研究上の交流を継続的にしたい、是非、みなさんのところの成果物を送って欲しい、との要請あり。オレは2004年に滞在した時にお世話になった、4~5の大学には報告書を送るようにしているが、手広くはムリだ。
◆ホテルに戻り(モーテル・サンシャイン連泊)、今日は焼肉!ということで、ホテルのおばちゃんに店を紹介してもらい、歩いて焼き肉屋へ。運転16719438.jpg手さんが隣となり、肉を全部焼いてくれ、ハサミで切ってくれる。焼酎を飲めと、しきりに勧められ、そこそこ呑みました。話もいろいろ盛り上がる。冬ソナの話ににもなり、わたしのリクエストで、明日は30分予定より早く出て、ロケ地を見せてもらえるようになったらしい。楽しみである。
◆晩飯終了後、20:20ロビー集合で、飲み足りない者は出掛けていくが、オレは今日も辞退し、ホテルに引きこもることにした。867608a1.jpg

韓国第1日

◆そのまえに、10月23日と24日のことを書かねばならないが、疲れ12af8cd9.jpg63a2eebf.jpgてているので、いまはやめよう。
◆06時02分高井田、天王寺から関空快速で07時15分には関空に着く。チェックインして、モーニングで腹ごしらえ。いくつか買い物。09時50分離陸。アシアナOZ115便。
◆日本の天気は悪く、雲が多かったが、だんだんよい天気に。日本海でひたすら海だったが、気がつくと陸地。モニターで慶州付近であると知る(10:45)。韓国の山や谷が見える。谷筋に沿って奥深くまで田が広がっている。と同時に、黄土色の造成地がやたらめったらある。この国の国土開発のすごさが窓からよく理解できる。いったい何ができるのかは知らないが、都市部でない田園風景の広がるエリアだが、そちこちに造成地がある。
◆11:30にはインチョンに着くが、入国の列が多く、12:00までかかる。
◆大型タクシーで遺跡に向かう。空港からしばらくは、大造成の工事現場、2014年にアジア大会がインチョンで開催されるようで、サッカー競技場やらなにやら、大工事となっているらしい。着陸直前、空から見ていると、埋め立てもすごい。3362e1c0.jpgまわりを囲って、沖積土のごげ茶色の土壌df432fe3.jpgが干上がって、なにやら赤い色の草花が。こういう土壌って沈むだろうな~と思いながら・・・。快晴。
◆とにかく日曜日以来の不眠で頭が痛く、つらい。13:35、金浦市雲陽洞遺跡という(青銅器時代の集落跡+原三国の墓が重なる)、丘陵上の遺跡を見学する。民間でなく、日本でいう住宅公団の大宅地造成のようだ。解説によると、北朝鮮国境まで12㎞ほどで、これまで開発が進まなかったところで、韓国政府は、主要都市の次に、周辺地に力を入れて開発を進めているらしい。そちこちの小高い丘陵上に遺跡があるが、ひとつくらい緑地で残せばいいのにと思うが、完全に削平するようだ。
◆住居は、長方形で長い、単婚家族ではなく、数世帯の血縁同居のようだ。炉も3箇所にある。長辺に壁溝があるが、主柱は中央一列が多いようだが、検出しているのを見ると、あんまり整わない。
◆14:20には終了、次の遺跡に向かう。遼寧式銅剣が出たという。7f86bf17.jpg吉田のために、ブツが見れないか問い合わせたが、既に保存処理にまわったと6f934fc6.jpgいう。ソウルに入る、15:57チャムシル、オリンピックのスタジアム、16:25到着。
◆広州市駅洞遺跡、これも小高い丘陵地。さっきのものと同じような長方形の住居などがある。で、銅剣が出たという埋葬施設。まだ下部が未調査で、やりとりを聞いていてもよくわからず、木棺墓なのかどうか、とにかく石があり、上にも載せてあり落下したモノを含めて石があって、骨はまだ残っているものもあった。
◆17:30出発し、19:00春川に到着。思わず冬ソナの音楽を口ずさむ。夕食を食べ(鶏肉の料理)、そのあとホテルに(モーテル・サンシャイン)。みなさん呑みに言ったようだが、オレは疲れ果てており、10日間もたせなければならないので、今日は早く寝ることにしよう。
◆夕食時、韓国の人と話をしていると、韓国でいう財団というのは日本の財団と同じなのかどうかよくわからんし、民間会社も多いのかもしれない、いずれにせよ、既に入札で業者を決めているらしく、5・6年前よりもさらに進んでしまっているらしい。とにかく、この20年、いままさにピークのようだが、あまりにも急激な開発に、行政での体制整備など吹っ飛び、いきなり会社・入札に突入しているらしい。いずれこの無秩序な開発も落ち着くのだろうが、その先に待っているものはなんだろうか。

1989雪野山

◆M2の夏、滋賀県竜王町の雪野寺跡の研究室発掘のあと、京都へ戻ると、NBK埋文センター長のt氏から電話が入り、雪野山6380e101.jpg8d5309af.jpg古墳へ。大阪大学があとを引き受けることになり、そのまま参加。
◆この時は、あんまり自分で写真を撮ってる余裕はなかった。

同じ年、若狭で古い5世紀の横穴式石室墳を掘った

◆鬼神谷を終了し、若狭向山古墳の発掘に梯子。ちょうど、主体部が床近くまで掘り進んだaa13e545.jpgところに合流し、そのまま石室の調査をやった。
◆短甲2領、鏡2、金製垂飾付耳飾などを掘った。だが未報告、これは責任がある。そのときの記念写真。

1988但馬・鬼神谷窯跡

◆M1の夏、竹野町の95d3cc4a.jpgTK23の地方窯を掘った。そのときの写真。

もうひとつ、いま宮内庁のa君

◆奈文研にいたとき、所内科研とやらがあり、応募して10万円ほどもらい(もっとすくなかったかな)、姫路市壇場山古墳の測量を一部やった。トータルステーションでの測量の実験的試み。d7e19e8d.jpg
◆この時、奈文研にアルバイトに来ていた、橘のnさんとnさんにお願いし、別に、立命のy君にお願いして、2~3人ほど人を出してくれないかと頼み、やってきたのがa君だった。
◆わたし、すっかり忘れていて、宮内庁に行ったa君に言われるまで気づかなかった。ごめんなさい。姫路市内の宿でのワンカット。
【書類出てきました。諸謝金5万円、旅費3万円、でした。】

土曜日に京都で

◆奈文研人会があるのですが、その案内よりも早く、京大考古学研究室にいらした藤澤さんの会35efceb5.jpgがあり、なんにもしてないが世話人のため、京都にいく。
◆で、映写する機会があるかどうかわからないが、わたしが在籍していた時の写真を配列したパワポを作成した。昨日の晩と、今日の午後でだいたいできた。こんなことにまた一所懸命になっている。で家のアルバムを見て、適当に抜いてスキャンをしたが、途中、いろいろと思い出深い写真があったのでついでに。
◆文化庁時代に尾瀬に行ったときの写真、。小林さんがいるので、たぶん1997。

倭名抄の耕地面積

◆山城国、田8961町、大和国、田1万7905町、河内国、田1万1338町、和泉国、田4569町、摂津国、田1万2578町、計5万5351町。
◆伊勢国、田1万8130町、尾張国、田6820町、三河国、田6820町、美濃国、田1万4823町、計4万6593町。
◆備前国、田1万3185町、備中国、田1万0227町、備後国、田9301町、計3万2713町。
◆筑前国、田1万8500町
◆筑後国、田1万2800町
◆肥前国、田1万3900町
◆肥後国、田1万3500町
◆むろん、倭王権成立後の畿内の開発の進展度合いは考えなければならない。が、そこそこ第1次生産としては、2世紀においてもあったに違いない。で第Ⅴ様式土器圏を形成する。東海もけっこうなものである。尾張は意外に少なく、伊勢・美濃が大きい。吉備は、上東式の範囲は知らないけれどのちの備前・備中・備後すべてとして、そこそこはある。
◆で北部九州だ。それぞれすごいわな。筑前一国で大和国をやや越える。農耕をいち早く始めた筑前地域の開発は相当に進んでいたに違いない。そして、筑後も、肥前も、肥後も、1万町を越える。問題は2世紀段階における地域圏である。土器様式からすると、筑前は筑前だろう。筑後と肥前はどうなんだろう。吉野ヶ里が弥生後期まで存続していることからすると、生産力はトータルでは大きいが、大きな地域圏を形成していたといえるのだろうか。いずれあわせても2万6700町だ。肥後はまた別文化圏だろう。
◆むろん第1次産業が地域の力のすべてではないだろう。だが、現在のサービス産業が発達した時代ではない、第1次生産が地域力のベースであるには違いない。畿内圏は、やっぱりけっこうなものだったと思うのだが。そして、その鉄需要は大きい。安定的に鉄を手に入れることは重要であり、それをコントロールし、他地域とわたりあう権力が生まれたとすると、そこそこのもんだったんではないか。

402年しか定点がないというが

◆奈勿王第3子の未斯欣が倭国に人質として送られたのは、『三国史記』新羅本紀および列伝では実聖王元年402、『三国遺事』では奈勿王36年391?390?、だそうだ。
◆で、『日本書紀』神功即位前紀というのだろうか、そこに、上に対応する人質が送られた記事がある。この人物、のちに倭をだまして新羅に帰還し、また没年も記されている。まあしかし、402年が正しいとみられているらしい。坂本義種を読まなければならない。
◆で、『日本書紀』と『三国史記』にともに記録されたことであることは重要だろう。だが、それをもって、神功紀を5世紀初頭以降にあてることは妥当なのか。普通は、正確に伝わっていなかったこの人質の記事を、神功による新羅侵攻にひっかけて採録した、と考えられているんだろうと思う。
◆百済関係記事の方が多く、そっちもそっちで共通性が確認できるんだろう。神功紀は4世紀後半として配列されていることは、普通は事実とみなされているに違いない。
◆詳しいことはわからんが、未斯欣の記事のみをもって、『日本書紀』神功紀なんてもっと後のことだよ、なんて、普通は困難なのではないか。少なくとも、百済関係記事はいかように説明できるのか表明される必要があろうし、402年でもって全体に下げて、これこれ整合的に説明できる、ということが述べられねばなるまい。これはたいへんなことなのではなかろうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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