人を幸せにする人になろう

日本の農地

◆1月8日の朝日新聞に農地の記事が出た。昔ながらの農家を基本としてきた法律、農地法、農業委員会という農a1ce2313.JPG地転用などの許可権限をもつ委員会の硬直化を指摘し、新たに農業に参入しようとしても、借地できるようにはなったが農地を買うことに対する規制がまだ残り、やりにくいというのが記事の趣旨。国の農業の確保、あるいは無秩序なミニ開発を防ぐ土地利用全体の問題として、農地の転用規制はあってよいと思う。だが、あくまで農地として用いることについての規制と、農地売買について、もう区分けしなければならんのうだろう。
◆グラフは1980年からだが、農地は1961年には609万haあったが、それが150万ha減ったが、この間に新たに100万haの造成もしているので、1961年時点の農地からは250万haが失われたのだという。

多くのみなさんに読んでいただいているようで感謝!

◆アジアカップ第2戦は、シリアだったんかな。寝てしまい、起きると前半35分くらい、1対0。この前半終盤を見ていると、けっこう今の日本チーム、うまいよね。パスがけっこう強い。それをはじかないで足元にしっかり止め、2タッチくらいでパスをつないでいく。90分続ける課題はあるし、むろんヒヤヒヤすることはあるのだが、概して自信をもってつないでいて不安が少ないように思う。
◆こういうサッカー、ワールドカップを見ていて、ヨーロッパや南米のうまいチームみたいである。むろん、アジアカップなのだろうし、リードしている状態でのいい状況下ではあろうが、なんとなく、いままでの日本のチームよりうまい、と思う。個々のレベルが粒ぞろいに高くなっているのでは。

娘のホームステイ説明会

◆3月3日から24日まで、真琴がアメリカのホームステイに行く。約3週間。長男の時は、カミさんは「行ったら」と言っていたが、手を挙げなかったようで、行かなかった。で、真琴は、英語が苦手なので、選抜試験を受けても通らないと自分では言っていたが、「まあ、せっかくやから受けてみたら」ということで、手を挙げ、なんとか通してもらった。それでも30人が手を挙げ、9人は落とされているらしい。
◆そんなんで、年末には天王寺のパスポートセンターに行ったりもした。で、今日(13日)が説明会。雄略陵の見学のあと、香芝の学校にむかう。ぎりぎり1630に飛び込む。なにやらNPO法人の事業に学校が参加しているらしく、そこの人が冊子その他を配布し説明をする。
◆ま、うらやましいね。飛び込んで、楽しんで、恥ずかしがらず、どんな英語であっても、身振り手振り、大阪弁を交えて、コミュニケーションを取って欲しいものだ。

2011年1月13日雄略陵

◆雄略陵で配水管の埋設工事が行われていて、その見学会があるので行く。なんと20数名が参加。まあ、e2cb8dbb.JPGけっこう大がかりな管を埋設している。
◆雄略陵は、高鷲丸山という円墳を後円部に見立て、前方部を作りあげた(捏造)ものだが、西田孝司さんの研究があり、今日も直接、西田さんから近世以降、そして幕末から明治にかけての修陵の話が聞けた。ぼんやりとしか知らなかったが、こうして現地を訪れ、西田さんの話を聞いて、一定の認識をもつ。
◆まず第1段階として、丸山の円墳の整備と、東側の平塚という地点を方形に整備することが行われ、明治10何年かに、前方後円墳が作られる。とはいえ、別に土を盛るのでなく(ちょっと盛っているのかもしらんが)、要するに区画してつなぐだけのこと。そういう過程をたどる。それと平塚というのは方墳なんだろうと思っていたが、実は怪しいらしい。
◆幕末以前の絵図では、畑地になっていた平行四辺形状の高まりがあったらしい。平塚という名前からすると、わりと低いものだったのだろうか。こうした高まりが自然地形で、周囲の水田化によって方墳状の高まりの残丘となって残ったものか、西田さんの本をきちんと読んで考えてみたい。ともかくも古墳という証拠はないらしく、今回の工事では、この平塚のある「前方部」南側をずうっと掘削しているわけだが、周濠のようなものはないし埴輪も一切出土せず、確かに怪しいらしい。
◆説明を聞いていて、古墳にかかわるような遺構や埴輪はないとの説明に対し、「平塚は古墳ですか」と聞いてみたかったがやめた(雄略陵のはずなので答えにくいわな~)。
◆天理大の小田木君にずいぶん久しぶりにあう。東大寺山の報告書について、ご苦労様と話をする。

考古学研究最新号

◆考古学研究の最新号が来て、古墳時代の階層性についての大会報告の原稿があり、注でオレの墳丘規模論に言及があり、統一的なものはない、みたいなことが書いてある。ほんとうですか。
◆別に異論があってもいいし、反対されてもいい。が、墳丘と副葬品の両面から階層性を考えていくとき、墳丘規模については、やはりもうちょっと注意が払われて良いのでは。70mの前方後円墳があると、それ、なんで70mなんか、テキトーなのか?。
◆いろいろレベルはあるわな。まず5歩約7m刻み(5mなんて言ってません)の墳丘長の設定そのものがあるとみるのか(沼澤さんも筋道は違うが結論は一緒)、怪しいと考えているのか。次に、それがあると認めた上で、それが厳格にまた広範におよぶ制度として機能しているとみるのか、当てはまるのは限られたもので、ハズレも多く適用範囲は限定的だ、というのか。そのあたりの私見に対する見解が明瞭ではないのだ。どうよ、ちゃんと論評してよ。
◆言うまでもなく、自分はアルという立場だ。で、それは王権側としてはそういうランキング設定を導入してるんだろう。ただし、それがどこまで貫徹されているかは、もうすこしキメ細かく検証しないといかんだろう、ということを言っているつもり(予想としては前期でも案外広いのでは?)。
【追記】改めて注の文章を確認したが、やっぱりようわからん。

考古学研究会岡山例会110108

c42edc8a.jpg◆考古学研究会岡山例会で「五社神型の前方後円墳」の題目で発表した。摩湯山/昼飯大塚/金蔵山/蛭子山/富田茶臼山/石山/宝塚1号/大鳥塚/行者塚を挙げた。個々の認定はさらに詰めなければならない。また昼飯大塚など、調査にもとづき復元ができているものや、現状の測量図でも確からしく復元できるものと、そうでないもののメリハリをつけるようにした方がいいのだろう。
◆摩湯山の報告書にむけて、いい機会をもらったと感謝している。上に挙げた事例のなかに2/3は前から候補として考えてきたことだが、今回、金蔵山が加わり、石山もそうちゃうか、と追加できたことは大きな収穫だった。いただいた質問も成稿化するとき注意したい。
◆まあ、やっているのはあんなもんです。平面図の比較でしかやれていないので、高さは配慮できていないが、前方後円墳の平面形には高さが反映している。ほんとはデジタル化してマッチングみたいなことをやり、80%一致とか自動的に判定してくれればいいのだけれど。
◆鹿田遺跡の展示を見る。構内遺跡調査+周辺の調査成果を総合する試みだ。なんだけ、ジョブなんとかという、院生が鹿田の現場で貝塚の分析を経験する試みの成果発表もあった。岡山大学は進化を続けているな~。
◆岡山駅前で飲む。例会後のコンパはなくなっていて、少人数で。またやっちまった。岡山から乗った新幹線で眠り、目が開くと「次は名古屋~」、ああ・・・。乗り過ごしだが、精算せよというのでなく、翌日、名古屋発下り始発6:20の自由席には乗せてくれるのですね。

y君と話をする

◆京大に行く。新しい研究室、実に広くてキレイで快適で、卒論前ということもあり学生が多くいて活気があり、うらやましいかぎりである。
◆で、y君と話をする。彼君とのつきあいも1979年の高校2年の時からだから、30年を越えるわけだ。で、あのひとと話をするのは実に楽しい。松岳山の遺物の話から入るが、植民地時代の遺物の話を振ったのが間違いで、えんえんと話を聞く。
◆それよりも、実は彼のHPで、本人は「つぶやき」といっているが、オレの本に言及しているのを前に見かけて、なんか批判されていたので、どうよ、と聞いてみたかったのである。要するに、オレが崇神とか応神とかいうもんだから、昔に返ったみたいなことを書いていたと思う。その話をふると、むこうの人がそんな風に発言したらしく、それで読んでみたということのようだ。まあ、行燈山古墳の年代をどうして求めているか、なんて理解されないに違いないので、結論のみで天皇名で歴史を語るみたいに思われても致し方がない、とこれはあきらめよう。むしろ、そうしたものでも反応があるのはうれしい。
◆それから半島派兵の話を振ると、そんなんなんでわかるんですかと。否定するわけではない。要するに渡った倭人の動向がよくわからん、考古資料からの裏付けはない、みたいなことのようだ。金官国はわかってきたかもしれないが、ほかの伽耶地域はわからんと。金官・金官ばかり言うな、というのもあるらしい。調査の偏り、極論で近くに大学があるかどうかで調査頻度が違うという話も出た。十分に材料が出尽くした上でしか話ができないとは思わないので、その時々、ある資料で組み立ててゆく、新出資料が出てくれば見直す、それでいいであろう。均等に10%わかっているというのでなくとも、そうした限界も承知した上で、よくわかっているy君のような人に概観して欲しいと願うのだが・・・。
◆まあ、オレは考古学者失格なんかもしれないな。資料にもとづき考古学の立場から言えるのはこのくらい、とそれ以上に踏み込まない慎重さに、改めて感じ入り、エライヤツだと感じた。これほんとうですよ、皮肉でもなんでもない。
◆こっちは、五色塚や大阪湾岸の和泉の古墳や丹後の古墳を考える中で、半島派兵を考えたわけである。近代史のことがありデリケートな問題ではあるから、慎重な言い回しは必要だろう。植民地時代のことを昔のことだと流すことは許されない。だが一方で、日本人が遠慮するのでもなく、逆に居丈高になるのでもなく、韓国の人が卑屈になることもなく、逆に日本人をやっつけてやろうというのでもなく、古墳時代の日韓の歴史を議論すればいいと思っている。4世紀にはじまり、5・6・7、統一新羅のあとも、藤原の仲麻呂の派兵の計画とか、9世紀にいたるまで続く日韓の歴史において、倭人が渡海し、諸勢力と結びついていろいろやっていたことは事実であり、そのことは直接現代の二国間関係とは切り離して議論可能だろうと思う。4世紀の派兵について、いまの日本人が卑屈になることもないし、『日本書紀』の書きぶりにしても、それでもっていまの日本を非難するのは間違っているだろう。
◆実際の倭人の足取りのことは、こっちはよく知らない。倭系遺物は出ているが、まだまだわからんことも多いのだろう。だが、だからなかったというわけではない。こっちはこっちで倭の古墳から4世紀第2四半期頃から中頃にかけて倭軍渡海が始まっているとみているのであって、それはそれで論拠をさらに積み上げる必要はあるが、ほんまですか、といわれても困るのだ。むしろ、むこうの遺跡や出土遺物については、韓国側の考古学に任せるべきで、むろん参考にさせていただくが、それが十分じゃないから片手落ちとは思わない。
◆ながながと書いてしまった。y君と話をしていて、それも近年続々と新出資料が出てきている状況で、あんまりむこうのことに軽々と言及するのは差し控えた方がいいな、とは感じた。だが、釜山大の論文はあんまりデキがよくないものの、冒頭に書いたことは正直な気持ちなのだ。オレが知ることのできた範囲で、むこうとの年代観の違いについて、こっちはこう考えているということを知って欲しい、基本は日本の考古学の現在をぶつけることで、なにか参考にしてもらえるのではと願って書いたものである。
◆立場を変えるつもりはないし、それは変えられまい。日本の古墳時代史について、文献も使えるものは使って事実に迫りたいと思っているし、そこに東アジアをからめることで立体的にしたい、間違いをおそれずに、いろんな事象を結びつけて考えていきたいと思っている。

山科そして宇治

◆3日、山科の関西タクシーに行く。10月24日にタクシーに忘れたプロジェクターを、ようやく取りに行った。山科も地下鉄が通り、六地蔵あたりは(六地蔵を山科とは言わないのかな?)ずいぶん町になっている。というか、そもそもその前を知っているわけではないのだが。
◆第2京阪で、巨椋池ICにむかうと、正面に比叡山が見え、そのむこうに白く雪をかぶった比良山系が見える。年末年始、鳥取や島根は大雪で大変だったが、京都でもかなり降ったということだった。すっかり街中の雪は溶けたであろうが、まわりの山々はまだ雪化粧である。
◆京大工学部が宇治にあり、カミさんの研究室があるので、引越の荷物を届けて以来、時々、行くことがある。むこうが研究室で仕事をしている間、うろうろすることがある。3日も、関西タクシーだけでなく、4日から北海道に出張するカミさんが研究室で少し準備をするというので京大の宇治キャンパスに行き、降ろしたあと、線路に沿って五カ庄の旧道に沿って宇治に下る。そうか、ここが五カ庄なんか。この旧道、けっこうな交通量があって、けっこう危険な道である。数年前に教室のハイキングで宇治に行った時、二子塚に行き、万福寺に行き、源氏物語ミュージアムなんかに行ったが、この辺をウロウロしていたのだ。
◆京阪とJRが並行して走っているが、その東側の道路も広くなり、京滋バイパスの乗り口ができ、新しい住宅地が広がっており、店もできてきている。源氏物語の時代、そこまでいかなくとも幕末でもいい、京や伏見からすればやや離れていた宇治が、一続きになってきているように感じる。
◆車で走っていると、莵道という地名があり、隼上り窯ってこの辺ちゃうか、と思ったら、「西隼上り」の地名があった。斜面地に緑があり、もしかしてここかな~と思ったが、時間がないので、探しにいくのはこの次にしよう。

2日、加古川へ帰る

◆今年は実家に帰らないつもりだったが、日帰りすることになり加古川に行く。昼出ると、中国道が込んでいるようなので、途中で湾岸線に切り替え、2時間くらいで着く。
◆姉妹夫婦みな集まり、いつものようにカニをいただき、日が変わった3日1時に家を出る。加古川バイパス、第2神明、阪神高速神戸線も、この時間になるとガラガラで、約1時間くらいで帰り着く。厳密には自宅の駐車場までだと1時間15分だったが、約100㎞の距離を平均100㎞で走っているので、だいたい1時間というわけだ。
◆ちなみに、姉・妹のところとも、オレのブログを見ており[「京都でのできごとを詳しく話せ」ときたので参った。ああいうことを書くと、母親に心配をかけるので当初は書かなかったのだが、はじめからリストを書き上げておこうとは思っていた。それで、いろいろなくしたことについて少しずつ話をして外堀は埋まったので、年末に書き上げることにした。
◆それと高校時代の恩師からも電話があり、要件は「年賀状が返ってきた、住所を教えて」ということだったが、京都駅での一件の話となり、「飲み方を学習せよ」とこれまたこの話題となる。ちゃんちゃん。ちなみに、12月に入ってブログを更新していなかったことについて、どうしたんかと心配だったとも。桑原さんも年賀状で、「いつもブログを見ています」と・・・。いやはや、ブログって近況を伝えるにはいいもんですね。e37a2e3c.JPG
◆生石神社への初詣を今年はしなかった。元旦に生石神社でお神籤を引くのが恒例で、それを信じているわけだが、今年は道明寺天満宮の小吉、でよい。
◆カミサンいわく、最近のお神籤は、高い望みをもたず足元を見て、みたいな内容ばっかりだと・・・。もう人生の到達点も行くところまでいっていて、これから先、高望みしてもムリムリ、みたいな話、実は当たっているのかも、と話をしている。まあ、互いに好きなことをやってて、それでメシが食えているわけで、実にありがたいことであって、別に、出世欲や名誉欲はないな~。それよりも、これから先、何をやるかできるか、ということだ。とはいえ、もうそれも出尽くしていて、もうアンタはオワリというのであればそれは困るが、そんなことはない。ホームランは打てないかもしれないが、ヒットを重ねることはできるはずである。

南米一周165日

◆2日の午前中、NHKの番組で、南米トラック1周の旅をやっていて、これが面白かった。全行程だと165日で約150万円らしい。サバティカルを取れば、半年、南米に行くことも不可能ではないか。
◆スタートのところは見ていなかったが、キト出発。ピースボートの船旅よりもだんぜん面白そうである。マチュピチュは、下から山登りで行くのだそうだ。おおむね反時計回りに太平洋側をマゼラン海峡まで下り、大西洋側を北上する。参加者は入れ替わりがあるが20人程度、基本はテントをもってのキャンプ生活。時々、ホテルをはさみつつも、オートキャンプ場などをわたりあるき、自炊生活をする。
◆世界各地から老若男女が参加しているが、女性が多いように思う。女性が元気ではあるが、男はたぶん1人旅を選ぶ方が多いのかも知れない。日本人は一人。まあ英語は必須、プラス、スペイン語の日常会話が必要で、参加してからの語学研修もやっていた。
◆アマゾンをさかのぼるのもよかったし、リオのカーニバルも組み込まれている。そして最後はギアナ高地であMt_Kukenan_in_Venezuela_001.JPGる。ここには行ってみたい。
◆ギアナ高地って、簡単には行けないと思っていたが、唯一、垂直にちかいような崖を斜めに横切る登山道があり、全員、そこを登る。日本人唯一の参加女性が「こんなのところに行けるとは思っていなかったが、自分みたいな者でも、遅れながらもたどり着ける」といった発言をしていたが、同じ気持ちである。ヘリコプターでもなければたどりつけないのかと思っていたが、人間の足で、あの平坦な頂上に立てるということがわかった(写真はウィキ)。
◆完全に安全ということはなく、かなり危険なところも多いようだが、わりと無頓着である。たぶん、そういうのも自己責任みたいな契約を取り交わして参加するのだろうと思うが。kumukaっていうヤツ、各大陸で同じような企画を展開しているらしい。http://www.kumuka.com/

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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