人を幸せにする人になろう

ひさしぶりに

◆前の記事が8月23日か、2週間近く低迷していたのか・・・。懸案をかかえながら逃避してきた。9月3日に1件、9f75feb29.jpg月6日に1件、それぞれ解決し、ちょっと元気になった。
◆8月28日に学生と北摂をまわる。とはいえ、暑いので、はじめから博物館巡りと考えており、ほぼ予定通り。最初、行ったことがない茨木市の資料館。東奈良の銅鐸の鋳型など鋳造関係遺物を前から見たかったが、恥ずかしながら初めて。けっこう、頑張っている資料館だ。そして茨木城の4年前に出土した建具の保存処理が完了し、その特別展示があった。16世紀末の実物だ。
◆それで、予定にはなかったが、キリシタン遺物史料館。面白かった。大正時代に、キリシタン墓碑が発見され、ようやく重い口を開き、当時、3人の女性が信仰をなお守っていたことが判明、次々、いろんなものが確認された。有名なザビエルの肖像画は、いま神戸市博にあるが、この集落の1戸にあったものだという。84eb9123.jpg
◆途中、彩都を見る。ここか・・・、これが彩都か・・・。
◆吹田市博。展示もしっかりしている。当日もイベントがあり、人が集まっている。昨夜、いろいろ書き込んでいたのだが、アップに失敗し消え、もう一度書くのは苦痛なので省略。七尾、岸部の窯を見る。
◆池田市資料館。ここはもうちょっと、この限られた箱のなかとはいえ、なんとかしてほしい。鉢塚の石室を見る。
◆豊中大塚と御獅子塚に行く。大石・小石は暑いので省略、これで帰る。

徹底した資料観察とそれに基づく研究

◆これ、『京都大学文学部の百年』(2006年)に書かれた京大考古学の学風であると。そうだろう。資料にもとづかなければならないが、観察というと主にブツを想定しているように思われ、違和感がある。
◆考古学の定義、オレは共通教育の授業の初回では、「遺跡にもとづく歴史学」といっている。「物質的資料」とは言わない。「物質的資料」はまずモノと普通は思ってしまう。むろん『通論考古学』などでの「物資的資料」(マテリアル=リメインズ)は、遺構も含めてのもので、遺物・遺跡にもとづいて(「遺構」の言葉は遅い)ということなのだが、言葉がよくない、わかってもらえない。「物質文化」という言葉に同じ違和感がある。モノだけじゃないにしても、なんかパーツに分けている感じ。そうではない、考古学の資料は遺跡である。
◆この点、角田の書いたものを見ていると、濱田の「物質的資料」といった言い方の前に、東京の人間はちゃんと遺跡によるもの、と書いていることを知る。水野清一は、考古学の唯一の資料は遺跡と言い、森浩一も考古学は遺跡学と言っている。
◆モノを観察する(+図化する)力もひとつ、同時に発掘調査で遺構を認識し観察しながら掘る力、そして総合的に遺跡を把握する力、そして遺跡の調査成果にもとづき歴史を明らかにする力が求められていると思う。題目に掲げた「学風」なるもの―この場合の資料はモノだけではないにせよ―は、主としてブツが想定されていると思うが、それは考古学に求められる力の一部である。むろん、単に調整とか作り方をよくわかっている、またそれを図化記載する技術をいうのではなく、わかっているようで、モノを見直して新たな切り口を見いだしていく、ということなんだろうし、観察眼があった方がいいに決まっている。しかし視野には遺跡は入っていないのではないか。
◆遺物の観察力、発掘調査能力、整理報告力、それは実践の中で向上する。大学にいる自分は、発掘力や整理力は劣っていると思う。1年中、発掘し、また整理報告しているプロにはかなわない。大学のなかで、遺物の観察・図化、発掘調査などを体験させるが、それは入り口部分である。確かに発掘調査機関でない大学では、そのなかで遺物を観察する基本は大事であり、やれることのひとつである。
◆しかし、大学でやるべきは、そうした基本的なものを押さえるとともに、より大事なのは、研究力だろう。そっから先は人それぞれではあるが、問題意識がベースになければならないし、方法論とか分析力とか総合化とか、そういうことの錬磨が求められる。
◆で、むろんこれからだって遺物の研究は必要だろう。あまた未解明なことがある。遺物にもとづく新たな知見をもたらす研究の可能性は限りなく広がっていよう。遺物研究は必要だ。
◆だが、同等に遺構についてもやるべきだろうし、やはり遺跡を扱うべきだと思う。遺物については、かなり研究してきたではないか、その成果を踏まえて、もっと遺跡個々に取り組まれていいだろうし、目的である(オレはそう思う)遺跡にもとづいて歴史を明らかにする、という志向をもっと明確に掲げ、そういう研究をめざせと大学では教育し、実際、そうすべきではないかと思う。振り返ると、金谷君や江角君や、いまいる白井君などの大学院生は、みな遺跡を取り扱ってきた。これだけの発掘成果がある、調査データを集めるという資料集めは地味で忍耐力もいる。でもこれが案外やられていないわけだ。

水野清一先生

◆もうちょっとで研究室前の廊下と自分の部屋にある近藤先生の蔵書が片付くので、このところ、出勤すると、1箱2箱片づけるようにしている。しかし、開けてみて、興味ある本が出てくると、読みふけってしまう。昨日はそれで1日つぶれた。考古学者のことが書いてあるもの。何をやっているんだろう。
◆金関先生が、京大の教授として、梅原でなく水野清一先生だったら、だいぶ変わってたんではないかと書いていた。この部分は前にも読んだかな。
◆で、水野清一先生は、いわゆる人文研だったわけだが、戦後、京大が濱田時代の学術調査をせず京都府や大阪府の調査などしかしなくなる中(需要は大きかったのだろうが。純粋に目的的に掘ったのは何だろう?石山くらいか?)、対馬・壱岐・松浦の調査をし、インド・パキスタン・アフガニスタン(いわゆるイアパ)に行く。それだけでなく、名神高速道路の時に京都府下で調査団を結成することに尽力するとか、池上・四ツ池の調査団長になるなど、日本の行政調査にもかかわり、また一定の役割を果たしてきたことを知る。われわれの世代には、水野先生のことはまったく伝わっていない。
◆そして戦後の遺跡破壊に対して、原因者に費用負担をさせる原則を作らなければならない、と言っていたことも知った。他にもそうした発想はあったのだろうが、坪井さんなどが他省庁との覚え書きを作っていく前提として、水野先生の影響があるのかもしれない。

関空で

◆いま関空の国内線到着口のネットスペースにいる。今日はアッシー君。カミサンの弟家族がニューヨークから夏休みで戻っていて、ヨメハンの実家の東京に寄ったあと、今度は和歌山ということで到着を待っている。岳父も高齢で運転が心配なので、お鉢がまわってきた。カミさんも学会で不在なので1人。
◆関空に車で来たのは、前に子供に飛行機を見せに展望台に行ったとき以来か。
◆さてと、こないだテレビで、日本へ来る観光客の目的の第一は、寺社仏閣ではなく、食べ物だそうな。食い物がうまい、これは人間の幸福である。そんな外国人観光客に人気なのは居酒屋とか。メニューに写真と値段がはっきり示されているということか。メニューの多さにもびっくりしていた。そういう食材の多くを外国から輸入しているとすれば何やそれということではあるが、いずれにしても、寿司やサシミはじめ、食文化の発達していることはよいことである。
◆もうひとつ、北欧がそんなに良いわけではないという話。スウェーデンかどっかから日本に戻って、つくづく日本はよい国だと思うのだそうだが、ひとつは教育水準の話と、医療なのだそうだ。むこうは大学まで無料なのだが、教員資格というものがないのだそうで、学校によるばらつきがあって、ぽっと出の人が明日から授業をするということもあるんだとか。教育に対する理念はよいが、内容の平準化に問題があるということか。それと医療代もタダだったか・・・。それで病院がいっぱいで、すぐに見てもらえないという。3日後に来てくださいとか。医療費が無償(?安い?)ので、日本の高齢者のように朝から病院前にならぶといったことと共通する背景があるのか、それはわからんが、一定の負担というのも必要なんでしょう。

茨城県東栗山遺跡

◆大阪市大には東栗山遺跡の縄文土器がある。きれいに洗浄してある。
◆『角田文衛著作集1』で、、『人類学雑誌』54-9(1939)に発表した概報が再録されているのを知り、ようやっと、うちにある遺物がどういうものであるのかを知った。
◆著作集の該当箇所の末尾には追記があり、角田さんの発掘が1939年4月であり、ただちに遺物の洗浄と整理に着手したが、5月に入り、ヨーロッパ留学を命ぜられ、大急ぎで整理し、7月の出発までに概報をまとめ、原稿を八幡一郎に託したという。そして、留学後の兵役もあり、この調査の本報告をまとめられていないことについて、良心の呵責を覚えている、と結んである。
◆ウィキによれば、角田さんは、1913年、福島県桑折町に生まれる。1937年3月、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻卒業。1937年4月、京都帝国大学文学部副手、1937年5月、京都帝国大学大学院に入学。1938年『国分寺の研究』全2巻(考古学研究会)。1939年~1942年、日伊交換学生としてイタリアに留学。1942年12月、帰国後、引き続き京都帝国大学文学部副手、1944年7月、召集令状を受け満洲に出征し、戦後シベリア抑留、1948年3月、京都大学副手廃嘱、1949年3月、京都大学大学院を退学、1949年7月、大阪市立大学助教授、1953年7月、大阪市立大学教授。1967年3月、大阪市立大学を退職。1967年4月、(財)古代学協会・平安博物館館長兼教授。とある。
◆シベリア抑留も体験しているのか。で、帰国後、発足した大阪市大に赴任することになり、遺物を持ち込んだわけだ。1950年には直木先生が助手として赴任。その年度末に日本史の問題が不適当だとする入試事件が起こる。朝鮮戦争が勃発し、政治的にアメリカとの単独講和を演説する吉田茂、全面講和を主張する社会党が争っている中、現代史の設問のひとつに「対日講和をはばむものは何か」という設問は、現在進行中のことで、受験者の思想調査と受けとられかねない。東西勢力の対立、といったことを書かせようとしたものらしいが、それでは収まらなかった。受験者からの抗議、問題を作成した文学部への抗議が他学部からも寄せられる。
◆こうした話は、直木孝次郎「歴史学教室発足時の回想」『市大日本史』第5号(2002)による。知っている人は知っているが、公式には記録されていない「事件」、直木先生は市大文学部のなかで日本史が苦労してきた背景として、つまり歴史学教室の定員を決めようという時期に生じ、日・東・西各2講座分が配分されるはずが、ほかに流れてしまうということになる、そのひとつの理由として書き残されたのである。
◆山根先生が責任者ではあるが、この設問を加えたのは、直木先生も「某氏」と明記していないが、角田さんなのである。山根先生がかばって責任をすべて負う。このことは、角田さんにとっても不幸であったろう、市大歴史学にとっても不幸であった、市大の考古学にとっても・・・。
◆大阪市大時代の角田さんのことは、ほとんど書かれたものを見たことはない。前に市大日本史学会10年の時に、いろいろと記録を調べてみると、いくつか事績は出てくるが・・・。角田さんは授業の時にしか出てこず、それも少ない科目担当で、研究室にはほとんどいなかったと聞いている。入試問題事件の影響はわからない。難波宮の発掘の着手時には尽力した面もあったようではある。大阪市大時代のことは、とにかくよくわからん。直木先生との対立も激しかったように聞いている。居心地はたぶんあんまりよくなかったのだろう。市大時代に古代学協会を設立し、自分のやりたいところはそっちで、居場所のなくなった市大をやめ、京都に戻りたかったのだろうと思う。【追記】1951年に大阪市立美術館内に任意団体の古代学協会を創設。季刊『古代学』発行。1957年に財団法人化。そして角田の文章によれば、「二足のわらじではいいものはできないと考え、四十二年、思い切って大阪市立大学教授を辞め、協会の活動に専念した」とある。
◆角田先生もなくなった。書いたものをほとんど読んだことはないが、たぶん大阪市大時代のことをあまり書き残してはいないだろう。近藤先生よりも12歳上の先輩ということになるが、それぞれ晩年までつきあいが続き、仲がよかったと聞いている。冒頭の著作集も、近藤先生の蔵書のなかから出てきたものだ。近藤先生に角田さんのことを聞く、という手もあった、といまにして思う。
◆ともかく、東栗山遺跡の縄文土器がどういう出所来歴があったのかはわかった。このまま市大に置いておいても仕方がないので、地元に戻すことも考える必要がある。
◆市大の考古学については、そのうち、藤原光輝氏のことも調べてみたいと思っている。

弥生博で

◆昨日(100819)、岸和田に行く用があったので、帰りに弥生博へ寄ってマスクを見てきた。弥生博、大阪府立でなくなるかもしれない弥生博。こないだ、読売新聞の人欄で、発掘から50年たって東大寺山古墳の報告書が出たというので、金関先生が取り上げられていたが、末尾に弥生博の存続にまだ働かなきゃナラン、みたいなことが書いてあったと記憶する。和泉市からも、いろいろと聞いている。
◆で弥生博、近畿弥生の会が連続講演会をやるチラシ、また近つとも共同の出かける博物館の連続講演のチラシももらった。夏休みなので、閑古鳥というわけではなく、親子連れが入っている。でも、府知事を動かすには飛躍的に入館者を増やす必要があるのだろうが、そういう状態にはない。
◆どうしたらいいんだろう、と考えながら常設展を見ていた。注文をつけてばかりではいけないが、ひとつだけ・・・。池上曽根の部屋はもうちょっと何とかならんのか。調査の歩みの年表がある。そういうのも必要だろう。だけど、もっと、池上曽根って、こんな弥生の村なんだ、ということを打ち出すべきではないか。この部屋に来れば、池上のことは何でもわかる、主要な出土遺物も全部ならんでいる、弥生時代における拠点集落が巨大化していく有様を示す。しかし後期になると、こんなんになって、古墳時代へとつながっていく、といったことにも目を配る。とにかく、池上の村をわかってもらうために、どう構成し解説するかに、もっと腐心して欲しい。
◆つくつくぼうしが鳴いている。夏も終わりか・・・

デジカメ

◆写真に関連して、デジカメは、これも整理が必要とはいえ、簡便ですよね。文化庁時代、全国の調査指導に赴き、その時の写真があれば、これはたいへんな財産だったろう。最初の出張は多賀城の委員会だったが、カメラを持って行った。しかしまた時代はフィルムの時代、フィルム代・現像代がかかる、ネガを整理しなきゃならない、焼き付けをアルバムに整理しなきゃならない、そんなことやってられませんでした。早々にカメラを持って行かなくなったと記憶する。そのころ既にデジカメが普及してたら、どんなによかっただろうに。
◆パリのユネスコの会議に行ったとき、記念物課でデジカメを購入しており、持って行ったが、実は使い方がわからんで、使わなかった。
◆2000年に市大に来たとき、仁木先生が既に買っていたが、まだ普及途上。最初に自分がデジカメを買ったのは、いますこし後だった。いまやパソコンも大容量。保管場所に困らないし、金も必要ない。充電すればいいだけだ。時代は変わるのである。

玉7測量時の唯一の写真

c8981c8b.jpg◆君島君と江角君が写っている。2000年の年末か2001年はじめ。
◆1号墳の報告書が出て、その関係資料を柏原市に渡さなければならないのだが、実は7号墳のモロモロがまだ未処理なのだ。遺物や図面は報告書が出た段階で渡したが、書類関係が・・・。で、玉1の後処理に手をつけるためには、玉7の残務をもう少し片付けねばならないので、いまやっている。
◆発掘にこぎ着けるのが一苦労。報告書を出すのが一苦労。だが、それで終わりではない。遺物や記録類をきちんと保管する体制にもっていって、初めて完結する。その意味では、わたしはいつも失格であった。恥ずかしい話がいっぱいある。そうした反省の上に、調査後の一時処理は記憶の新しいうちにやるように心がけてはいる。
◆2000年秋にやった帝塚山古墳の測量記録類、玉7の測量調査の記録類は、整序し、製本してある。しかし、そこで止まっている。玉7の残務、この間、まったく何もしなかったわけでなく、少しずつ整理はし、ひとやまにしてはあった。が、最後のところで完了まで至らない状態でここまで来てしまった。今日でほとんどできそう。1日やれば終わるのにね。で、この写真が出てきた。
◆測量に一生懸命で、調査風景などをほとんど撮っていない。記念写真のようなものもない。その後、茶臼山からはいろいろ写真を撮る余裕も出てきて、そういうものを報告書に掲載することが定式化している。

伊都倭国って何

◆仁藤さんの山川ブックレットで、2世紀初めまでに奴国から伊都国へ、倭国乱で伊都国からヤマト国へ、主導権の移動があったと論じているらしい。これは奴国王墓が不明瞭であるのに対し、平原を含め伊都国に王墓があること、107年倭国王帥升を伊都国王と想定すること、などから来るものと思われる。まあ、考古学の側で考えられてきたことをなぞっているわけだ。
◆しかし『歴博』161の書評にあるように(というか送られてきた、そのなかの書評を読んだことが、この記事のきっかけ)、諸国に王統があり、それが連合しているのがヤマト国連合で、伊都国のみ王が代々いると書かれていることを特別視することはできない、という指摘は正しいと思う。1・2世紀に奴国が衰えた形跡は、前代の影響圏から離脱する地域が出てきているという意味ではそうなんだが、比恵那珂遺跡の都市化からすると、奴国→伊都国がそもそも疑問である。
◆で、倭国王帥升が伊都国っていう根拠は、まったくあやしいと思う。たまたま見つかっている墓の資料でなく、比恵那珂遺跡と三雲遺跡をきちんと比較しなければならない。のみならず『魏志』東夷伝にある、もともと男王がいたという「其国」は、漢文の読み方はわからんが、素直に解釈すればヤマト国なんではないか、と思うのだ。

安福寺石棺のスキャン画像ができました

c3d68712.jpg◆メールで画像が送られてきた。さらに少し注文をつけた。最終版は今少し先か。できあがれば、またリーフレットを作ろう。
◆なお、こうした画像、新納先生と話をしていると、データを処理するところまでは共通するが、陰影図にするには、すこし技術がいるのだそうで、確かに仕事をお願いしている共和さんは、自分のところならではの技術をもっている、と言っていた。新納先生はそれを知りたがった。新納先生も、石室のスキャンをやっているが、牧野のような陰影図にはできないのだそうで、石室画像として牧野の画像は「いままで見てきたものでは一番」と褒めていただいた。
◆技術のことはわからんし、企業秘密というところか。
◆ちなみに、和歌山大学で技術開発をやっている計測方法がある。1ヶ月ほど前、やっぱりオレの都合がつかなくて行けなかったが、市大の遺物を供出した。廉状紋や櫛描流水紋がギトギト入っている弥生土器の破片などを提供した。そのときの計測画像を見せてもらったが、なかなかのスグレモノだった。文様面1面の画像で、これを裏側もデータを取って、破片として立体にするには、まだめんどうなのだろうが。
◆これはまだ考古の業界には知られていないと思うので、そのうちにきちんと紹介したいが、とにかく簡便なのだそうだ(和大に行けてないので、ようわからん)。で、石器なんかは、実測しようとすると素人にはまず描けないのだが、報告書で示す場合に、線描き図を出さなくても、正確な陰影図という客観的な画像を出せば、こんなのが出土しましたと報告するには十分ではないか、と思った次第。

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索