人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
応神陵と仁徳陵
◆『延喜式』で、応神陵の兆域が5町×5町で、古市古墳群のなかで誉田御廟山古墳にあてられていることは確かであろう。まったく同じく、仁徳陵の兆域が8町×8町で、百舌鳥古墳群のなかで大仙古墳にあてられていることは確かであろう。『日本書紀』編纂段階には、そうなっていた、そこまでは確かだろう。築造されてから250年は経っているが、歴代の王名に附属して、いわゆる帝記的記載事項は伝えられていったと思っているので、基本的には、実在が怪しまれている人物とか、安康など古墳かどうかわからんようなものを除いて、一定の信用を置いている。尊重すべきであると。
◆だが、白石さんも、百舌鳥・古市のなかでの調整で、割り振り直しができないという。つまり、百舌鳥か古市かについても必ずしも確かとは言えない、と。もっとも、倭国王墓は常に同時代最大規模墳か、という考え方にたってのことで、反正は反正陵みたいなもんでもイイ、ということになれば別だが。
◆いずれにしても、自分は、誉田御廟山が反正墓で、大仙は允恭墓という意見を表明してしまっており、『日本書紀』や『延喜式』の記述との関係をどう説明するのか、考える必要はある。仮に、王墓が正しく伝わらず、7世紀段階で比定作業をしなければならなかったとみるにせよ、そのときに、そうでないという立場に立つわたしが、御廟山を応神墓にあて、大仙を仁徳墓にあてることになった合理的な説明ができるかといわれると難しい。また、当時にあって、わからなくなっていたとしても、幕末のことではないし、まだ伝承や記憶やあるいは記録などもあったかもしれず、ある程度妥当な考証がなされたはずだ、とみるのも妥当だろうと思う。
◆まあ平行線だが。ただし、倭国最大の前方後円墳と第2位の前方後円墳を、どの王にあてるかという時には、一定の作為が働くことはないとはいえないような気がする。河内政権の王権簒奪は自明であって、7世紀の王統としても、崇神や垂仁というのではなく、直接的にはホムダワケを始祖とするといった意識などがあり、ホムダワケそしてオオササギの墓を、もっとも重視するといった配慮である。
◆だが、白石さんも、百舌鳥・古市のなかでの調整で、割り振り直しができないという。つまり、百舌鳥か古市かについても必ずしも確かとは言えない、と。もっとも、倭国王墓は常に同時代最大規模墳か、という考え方にたってのことで、反正は反正陵みたいなもんでもイイ、ということになれば別だが。
◆いずれにしても、自分は、誉田御廟山が反正墓で、大仙は允恭墓という意見を表明してしまっており、『日本書紀』や『延喜式』の記述との関係をどう説明するのか、考える必要はある。仮に、王墓が正しく伝わらず、7世紀段階で比定作業をしなければならなかったとみるにせよ、そのときに、そうでないという立場に立つわたしが、御廟山を応神墓にあて、大仙を仁徳墓にあてることになった合理的な説明ができるかといわれると難しい。また、当時にあって、わからなくなっていたとしても、幕末のことではないし、まだ伝承や記憶やあるいは記録などもあったかもしれず、ある程度妥当な考証がなされたはずだ、とみるのも妥当だろうと思う。
◆まあ平行線だが。ただし、倭国最大の前方後円墳と第2位の前方後円墳を、どの王にあてるかという時には、一定の作為が働くことはないとはいえないような気がする。河内政権の王権簒奪は自明であって、7世紀の王統としても、崇神や垂仁というのではなく、直接的にはホムダワケを始祖とするといった意識などがあり、ホムダワケそしてオオササギの墓を、もっとも重視するといった配慮である。
考古学研究に投稿した
◆あたためてきた論文、ようやっと書き上げて投稿した。批判しているにもかかわらず、新納さん、小澤さんに、そ
れぞれ目を通していただいた。多謝。書いていて虚しいかも、と思ったのは、白石さんの岩屋山式の年代、新納さんの年代を引き上げるべしとの論も、極端で、多くの人はそうじゃないと実は思っていて、自分はそれをなぞっているだけなのかな、ということだ。だが、御大の見解にストレートに反論する人間もいないと、進歩はないだろう。
![](file:///C:/Users/KISHIM%7E1/AppData/Local/Temp/moz-screenshot-5.png)
![](file:///C:/Users/KISHIM%7E1/AppData/Local/Temp/moz-screenshot-6.png)
![](file:///C:/Users/KISHIM%7E1/AppData/Local/Temp/moz-screenshot-7.png)
◆白石先生の羨道幅の指数は、実に重要な視角であると気づく。玄室を割り付け、それに対して羨道をどのくらいの幅に取るかという問題は設計にかかわることで、石材や積み方など、技術上の問題に制約されるものではないからだ。そして畿内型石室の出発点の片袖では羨道幅が狭く、岩屋山式などは袖部の幅は狭く羨道幅を増していくという変化の方向にあることも確実である。1枚図を追加で用意したものをアップしておく。これ、けっこう味わい深い図だと思うのだが。
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だから
◆倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地問題は既に決着しているのである。いまの日本考古学の課題は、倭国乱をへて、なぜに畿内に王権が生まれるのかというところに焦点が絞られてきている。弥生時代後期の畿内社会の評価が低いからだ。
◆王墓の未発達と鉄器の不在、これは攻められても仕方がない。だが、楯築と石塚はそんなに時期は変わらないのではないだろうか。2世紀後半。鉄器は、いまにざくざく出てくると思っているが、それはまあ、そんなことを言ってもしゃーないわな。だが、弥生時代後期の河内や大和が福岡平野ほど発掘が進んでいないことは確かだと思っている。
◆そして神武東征である。これは突かれると弱い。もともと弥生後期の畿内社会が倭王権の母体となっているなら、なぜに東征という構図を作らなければならないのか、と。王を神の子として正当化する必要があるから、天孫降臨は理解できる。それがなぜに日向で、そっから、カムヤマトイワレヒコは瀬戸内海を通って畿内に行き、一旦撃退されて、熊野にまわって北上する、そういう構図にしなければならないのか、という問題だ。
◆考古学でもまじめに議論されている、倭王権明治新政府論は成立するのか。倭王権の樹立は、なしがしか西方社会から、つまり九州勢力の東遷といった伝統的な考え方、考古学の人間に強い東部瀬戸内勢力の東遷、こうした考え方は根強い。倭王権成立前後での畿内社会のギャップが埋まらない、そして神武東征の構図がそれに結びつき、隠然たる見方を形成しているわけである。
◆金官伽耶は、扶余族の南下で成立したと申先生はおっしゃるし、百済も扶余族が建国したものとみられている。中国支配地に近く早く王権を生みだしていた民族の支配者層が、戦争などで追われ、未開地に流れていき、外から来て王となるといったことが考えられており、そういったことがないとは言えないだろう。百済建国以前の馬韓の状態は知らないが、少なくとも1・2世紀の畿内は、ひとつにまとまり、銅鐸を作って周辺地域に働きかける主体に成長しており、関東とは違う。そういうところに外来者が乗り込んでくるといった想定は可能なのか。
◆まあ、平行線ですな。深入りしても益はない。こっちはこっちで、1世紀2世紀の畿内社会を明らかにすることで、光を見いだしていくことだ。ただまあ、神武東征はネックである。【追記:塚口先生は神武東征とホムダワケのヤマト入りが近似した構図であり、日向出発で、河内日下が舞台になったのは、5世紀前半における日向から皇妃が出て日下宮家があった時期に作られたとみている】
◆王墓の未発達と鉄器の不在、これは攻められても仕方がない。だが、楯築と石塚はそんなに時期は変わらないのではないだろうか。2世紀後半。鉄器は、いまにざくざく出てくると思っているが、それはまあ、そんなことを言ってもしゃーないわな。だが、弥生時代後期の河内や大和が福岡平野ほど発掘が進んでいないことは確かだと思っている。
◆そして神武東征である。これは突かれると弱い。もともと弥生後期の畿内社会が倭王権の母体となっているなら、なぜに東征という構図を作らなければならないのか、と。王を神の子として正当化する必要があるから、天孫降臨は理解できる。それがなぜに日向で、そっから、カムヤマトイワレヒコは瀬戸内海を通って畿内に行き、一旦撃退されて、熊野にまわって北上する、そういう構図にしなければならないのか、という問題だ。
◆考古学でもまじめに議論されている、倭王権明治新政府論は成立するのか。倭王権の樹立は、なしがしか西方社会から、つまり九州勢力の東遷といった伝統的な考え方、考古学の人間に強い東部瀬戸内勢力の東遷、こうした考え方は根強い。倭王権成立前後での畿内社会のギャップが埋まらない、そして神武東征の構図がそれに結びつき、隠然たる見方を形成しているわけである。
◆金官伽耶は、扶余族の南下で成立したと申先生はおっしゃるし、百済も扶余族が建国したものとみられている。中国支配地に近く早く王権を生みだしていた民族の支配者層が、戦争などで追われ、未開地に流れていき、外から来て王となるといったことが考えられており、そういったことがないとは言えないだろう。百済建国以前の馬韓の状態は知らないが、少なくとも1・2世紀の畿内は、ひとつにまとまり、銅鐸を作って周辺地域に働きかける主体に成長しており、関東とは違う。そういうところに外来者が乗り込んでくるといった想定は可能なのか。
◆まあ、平行線ですな。深入りしても益はない。こっちはこっちで、1世紀2世紀の畿内社会を明らかにすることで、光を見いだしていくことだ。ただまあ、神武東征はネックである。【追記:塚口先生は神武東征とホムダワケのヤマト入りが近似した構図であり、日向出発で、河内日下が舞台になったのは、5世紀前半における日向から皇妃が出て日下宮家があった時期に作られたとみている】
邪馬台国問題と箸墓の年代
◆過日、表題のようなことで、九州説に立ち、古墳の成立は4世紀だという意見の方たちと話をする機会があった。
◆まず邪馬台国の所在地については、(1)文献、(2)銅鏡百枚、(3)3世紀前半の倭国の状況、という3つのアプローチがある。その総合判断が必要だ。
◆(1)文献のことはわからんが、中国人の地理観はどこまで確かか、なかなか判断は難しい。畿内説に不利な資料がある、一方、山尾先生の畿内説の論拠もあり、これも総合的に判断しなければならないだろう。0:100でも100:0でもないだろうが、20:80なのか30:70なのか、自説に有利な点のみに依拠するのでなく、反対説の根拠についても判断が示される必要がある。そうして「やっぱり九州に歩がある」というのならよいが、たぶんそうではない。
◆そしてそれは(1)のアプローチの問題。(2)や(3)もある。三角縁神獣鏡について、紀年銘は上限に過ぎず、実際には4世紀と、そんな簡単に片付けられてはたまらない、見識が問われると思う。福永さんの著書をしっかり読んで欲しい、三角縁神獣鏡に詳しくなくとも、論理は追えるはずである。それが全然だめだなんて、簡単に切り捨てられるとは思わない。
◆(3)3世紀前半という場合、まず土器型式ではいつかということが解決しなければならない(庄内式後半なのだろうが)。これは具体的に議論しなかったが、おそらく布留式などもっとあと、とするのだろう。しかし、福永さんが言っているように、三角縁と画文帯ではさむことによって、だいたいの年代は絞られる。そうした考古学の手続きにしたがって導かれる年代観をもとに、瀬戸内ベルト地帯の紐帯形成が論じられている。
◆歴博のC14年代については、発表の仕方はまずかったのだろう。グラフからはそうは読めないと。だが、説明はできないが、Jカルを導入し校正年代も是正されてきている。統計的な手法を導入し、幅のある数値を狭める方法もあるそうだ。いまや縄文が1万年前以前にさかのぼることに反対はなくなっている。古墳成立年代のC14についても、今後のデータの蓄積や手法の開発で、より信頼のおけるものになっていくに違いない。
◆いずれにしても、古墳は4世紀までしかさかのぼらないという考え方の基底に、安本美典の在位年代グラフが出てくることに驚く。天皇の平均在位年数から、第10第崇神がいつごろの人かを算出するのだそうだ。しかしである、家に戻ってから文献を確かめよくよく考えると、平均在位が1代10年って、斉明・皇極や、持統以後の生前譲位が始まって以後も、在位年でカウントしているようだが、それはおかしいだろう。古墳時代は終身大王です。やってみました。平均15年、崇神はちゃんと4世紀はじめに来る。そして、ひとつの方法ではあろうが、個々のばらつきもある(統計は統計として尊重すべきだが、一方で統計であって、実態を平均化した参考数値である)。卑弥呼は九州の人間というのであろうが、ほぼ半世紀王だったし、台与もそれくらいあっておかしくはない、高句麗長寿王は、ほぼ5世紀をカバーする78年の在位である。イレギュラーに長いものも実際にはある。あくまでも参考として考えておくべきだろう(欠史8代も存在し神武はコレコレと言われると・・・)。
◆われわれが考えている結論とまったく違う見方、倭人伝の記述を鋭く指摘されると、それそのものは反論しにくかったりする。だけど、それですべて決まるわけではあるまい、その指摘と同等に、畿内説の人間が挙げている根拠も吟味されるべきだろう。そして、安本の在位グラフについては、これをそのまま論拠に挙げることは止めた方がいい。
◆まず邪馬台国の所在地については、(1)文献、(2)銅鏡百枚、(3)3世紀前半の倭国の状況、という3つのアプローチがある。その総合判断が必要だ。
◆(1)文献のことはわからんが、中国人の地理観はどこまで確かか、なかなか判断は難しい。畿内説に不利な資料がある、一方、山尾先生の畿内説の論拠もあり、これも総合的に判断しなければならないだろう。0:100でも100:0でもないだろうが、20:80なのか30:70なのか、自説に有利な点のみに依拠するのでなく、反対説の根拠についても判断が示される必要がある。そうして「やっぱり九州に歩がある」というのならよいが、たぶんそうではない。
◆そしてそれは(1)のアプローチの問題。(2)や(3)もある。三角縁神獣鏡について、紀年銘は上限に過ぎず、実際には4世紀と、そんな簡単に片付けられてはたまらない、見識が問われると思う。福永さんの著書をしっかり読んで欲しい、三角縁神獣鏡に詳しくなくとも、論理は追えるはずである。それが全然だめだなんて、簡単に切り捨てられるとは思わない。
◆(3)3世紀前半という場合、まず土器型式ではいつかということが解決しなければならない(庄内式後半なのだろうが)。これは具体的に議論しなかったが、おそらく布留式などもっとあと、とするのだろう。しかし、福永さんが言っているように、三角縁と画文帯ではさむことによって、だいたいの年代は絞られる。そうした考古学の手続きにしたがって導かれる年代観をもとに、瀬戸内ベルト地帯の紐帯形成が論じられている。
◆歴博のC14年代については、発表の仕方はまずかったのだろう。グラフからはそうは読めないと。だが、説明はできないが、Jカルを導入し校正年代も是正されてきている。統計的な手法を導入し、幅のある数値を狭める方法もあるそうだ。いまや縄文が1万年前以前にさかのぼることに反対はなくなっている。古墳成立年代のC14についても、今後のデータの蓄積や手法の開発で、より信頼のおけるものになっていくに違いない。
◆いずれにしても、古墳は4世紀までしかさかのぼらないという考え方の基底に、安本美典の在位年代グラフが出てくることに驚く。天皇の平均在位年数から、第10第崇神がいつごろの人かを算出するのだそうだ。しかしである、家に戻ってから文献を確かめよくよく考えると、平均在位が1代10年って、斉明・皇極や、持統以後の生前譲位が始まって以後も、在位年でカウントしているようだが、それはおかしいだろう。古墳時代は終身大王です。やってみました。平均15年、崇神はちゃんと4世紀はじめに来る。そして、ひとつの方法ではあろうが、個々のばらつきもある(統計は統計として尊重すべきだが、一方で統計であって、実態を平均化した参考数値である)。卑弥呼は九州の人間というのであろうが、ほぼ半世紀王だったし、台与もそれくらいあっておかしくはない、高句麗長寿王は、ほぼ5世紀をカバーする78年の在位である。イレギュラーに長いものも実際にはある。あくまでも参考として考えておくべきだろう(欠史8代も存在し神武はコレコレと言われると・・・)。
◆われわれが考えている結論とまったく違う見方、倭人伝の記述を鋭く指摘されると、それそのものは反論しにくかったりする。だけど、それですべて決まるわけではあるまい、その指摘と同等に、畿内説の人間が挙げている根拠も吟味されるべきだろう。そして、安本の在位グラフについては、これをそのまま論拠に挙げることは止めた方がいい。
自転車通勤の時間
◆今日、自転車で家を出たのが8:15でわりと切りがよかったもので、所要時間をチェックしてみた。こうするまでもなく、いままでの経験から約55分、中間点がおおよそ阪和道の高架ということはわかっていた。
◆車でも朝の通勤時間帯だと約1時間を要するので、ほぼとんとん。ただし、夜22時をすぎると、さすがにスイスイ帰れるので、車では40分、早いときにはもう少し短いかもしれない。
◆阪和道高架が8:38で23分、西除川が8:46で8分(これで松原市の中心部は抜けている)、大和川にかかる我孫子大橋が9:01で15分、大学の駐輪場着は9:06、所要時間は51分であった。とくにシャカリキに漕いだつもりはなく、タラタラでもない通常ペース。
◆玉手山丘陵先端の片山を抜け、石川をわたり、大津道に入り、市野山古墳の脇を通過し、藤井寺のごちゃごちゃした旧集落を抜け、高鷲丸山を横に見て、やがて阪和道高架に達し、それを抜けると松原市の中心部、商店街などを抜けると西除川に出る。その土手を、布忍神社を脇に見て西北上、途中、北岸に出て(車が通るが舗装道路の方が走りやすいので)、やがて大和川に取り付く。
◆車でも朝の通勤時間帯だと約1時間を要するので、ほぼとんとん。ただし、夜22時をすぎると、さすがにスイスイ帰れるので、車では40分、早いときにはもう少し短いかもしれない。
◆阪和道高架が8:38で23分、西除川が8:46で8分(これで松原市の中心部は抜けている)、大和川にかかる我孫子大橋が9:01で15分、大学の駐輪場着は9:06、所要時間は51分であった。とくにシャカリキに漕いだつもりはなく、タラタラでもない通常ペース。
◆玉手山丘陵先端の片山を抜け、石川をわたり、大津道に入り、市野山古墳の脇を通過し、藤井寺のごちゃごちゃした旧集落を抜け、高鷲丸山を横に見て、やがて阪和道高架に達し、それを抜けると松原市の中心部、商店街などを抜けると西除川に出る。その土手を、布忍神社を脇に見て西北上、途中、北岸に出て(車が通るが舗装道路の方が走りやすいので)、やがて大和川に取り付く。
娘は絵ばっかり描いている
◆このところ、下の娘は、昨年12月の誕生日に買ってやったペンタブで、パソコンで絵ばっかり描いている。勉強し![5fc550fe.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1286467659?w=112&h=150)
ている様子はあまりない。ちょっと見せてよ、と言ったら、3枚ほど見せてくれたが、なかなかパソコンの絵もよくできている。
◆机の回りには、パソコンではなく、手書きのイラストが散乱している。そのうち2枚ほどをデジカメで撮ってみた(画像)。
◆これ以外にスケッチブックに、鉛筆画も一所懸命描いている。そのなかの藤田まことの絵は最高だったが、自分の部屋に持ち込んで寝てしまったので、写真は撮れない。
◆まあ好きなことをトコトンやればよろしい。絵の才覚があるのは、とってもうらやましい限りである。この娘、3者面談では、琉球大学で海洋生物を研究するとかなんとか、これは母親の影響に違いないが、けっこうまじめに話をする。先生は、そんなこと言わずに、いい大学を目指せと・・・。まあええやんか。自分で決めるやろ。また、いずれにしても警察官になるんだという。科学捜査ドラマの見過ぎ・・・。
◆机の回りには、パソコンではなく、手書きのイラストが散乱している。そのうち2枚ほどをデジカメで撮ってみた(画像)。
◆これ以外にスケッチブックに、鉛筆画も一所懸命描いている。そのなかの藤田まことの絵は最高だったが、自分の部屋に持ち込んで寝てしまったので、写真は撮れない。
◆まあ好きなことをトコトンやればよろしい。絵の才覚があるのは、とってもうらやましい限りである。この娘、3者面談では、琉球大学で海洋生物を研究するとかなんとか、これは母親の影響に違いないが、けっこうまじめに話をする。先生は、そんなこと言わずに、いい大学を目指せと・・・。まあええやんか。自分で決めるやろ。また、いずれにしても警察官になるんだという。科学捜査ドラマの見過ぎ・・・。
カミさんが帰ってきて(記事ナンバー500)
◆「あいかわらず、洗いモノはぜんぜんしてないし」とまずチクリ。チェコの話を聞く。![800px-Prague_panorama.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1286385234?w=150&h=22)
◆チェコ、丘が続き高い山はないらしい。1993年分離独立、人口1000万人、プラハを中心とするボヘミア、モラビア、シレジアの3つの地域圏があるらしい。1960年ドプチェク政権のもとでプラハの春とよばれる民主化路線に踏み切るが、ワルシャワ条約機構軍によってつぶされる。1989年、ベルリンの壁崩壊を承けて、11月いわゆるビロード革命で流血の惨事なく、共産党独裁政権が放棄された。
◆プラハは人口120万人、1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンチノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されたそうである(ウィキ)。
◆カレル橋は大観光地で、出足が遅いと、午後には身動きできないほどの人であふれるらしい。ビールが旨いそうである。
◆チェコ、丘が続き高い山はないらしい。1993年分離独立、人口1000万人、プラハを中心とするボヘミア、モラビア、シレジアの3つの地域圏があるらしい。1960年ドプチェク政権のもとでプラハの春とよばれる民主化路線に踏み切るが、ワルシャワ条約機構軍によってつぶされる。1989年、ベルリンの壁崩壊を承けて、11月いわゆるビロード革命で流血の惨事なく、共産党独裁政権が放棄された。
◆プラハは人口120万人、1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンチノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されたそうである(ウィキ)。
◆カレル橋は大観光地で、出足が遅いと、午後には身動きできないほどの人であふれるらしい。ビールが旨いそうである。
10月03日日本史歓迎会食
◆市大日本史では、新たに教員がt着任した年、夫婦連れでの会食が行われる。2000年にわたしが来た時、場所は忘れたが、立派な料亭みたいなところでやっていただいた。![bf56e8ce.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1286383749?w=150&h=94)
◆今年度、近現代史の佐賀さんが着任され、10月となったが、このあいだ東心斎橋で行われた。塚田先生の奥様にお会いするのは10年ぶり、仁木氏の細君である京楽さんにお会いしたのは、いつぞやのワールドカップの時以来8年ぶりか。
◆佐賀さんの奥さんは中世史専攻なんですね、うちのカミサンと同じ昭和42年生まれだそうで、ともに受験生である高校3年の子をもつ。
◆こないだの和泉市合宿で、学生と呑んでいるときに、こんどこういう会が行われるとしゃべり、写真を撮ってくると約束した。呑んで食べておしゃべりするので写真を撮ることを忘れてしまい、ほんとはもうすこし集合した形での撮影がいいとは思いながら、唯一ワンカット、ものにした。和泉市合宿では、学生とボーリング→カラオケも約束してしまったので、11月に入って実行しなければならない。
◆さてと、古代史の専任教員を迎える次回はいつになるのか、遠からずではあるが、楽しみである。
◆今年度、近現代史の佐賀さんが着任され、10月となったが、このあいだ東心斎橋で行われた。塚田先生の奥様にお会いするのは10年ぶり、仁木氏の細君である京楽さんにお会いしたのは、いつぞやのワールドカップの時以来8年ぶりか。
◆佐賀さんの奥さんは中世史専攻なんですね、うちのカミサンと同じ昭和42年生まれだそうで、ともに受験生である高校3年の子をもつ。
◆こないだの和泉市合宿で、学生と呑んでいるときに、こんどこういう会が行われるとしゃべり、写真を撮ってくると約束した。呑んで食べておしゃべりするので写真を撮ることを忘れてしまい、ほんとはもうすこし集合した形での撮影がいいとは思いながら、唯一ワンカット、ものにした。和泉市合宿では、学生とボーリング→カラオケも約束してしまったので、11月に入って実行しなければならない。
◆さてと、古代史の専任教員を迎える次回はいつになるのか、遠からずではあるが、楽しみである。
新学期が始まって
◆10月1日には、会議はあったが授業はなく、今日が後期のわたしの開始日。2限・3限、そして2部2限。なんとなく、ようやく大学になじんだこともあり、授業があって規則的に週が動いていく方が気持ちいい。リズムがある。
◆和泉市合宿で、2回生の考古に来るかもしれない2人とようやく話ができ、さっそく陵墓図トレースのアルバイトをしてもらうことになる。一度に4人が動く日・時間帯もでき、パソコンが足らなくなってきた。自分のレッツノートがだいぶくたびれてきているので、新しいのを発注した。デスクトップの方がいいのだろうが、狭い研究室ではかさばる。陵墓図はなんとか進んでいく。
◆次はホームページを立ち上げて、データが整ってきた時にアップでくるような体制を作る必要がある。立ち上げ初動に研究費をつぎ込めばいいのだが、ある会社にメールをしてみたが、どうも機械的でなじみにくく、やっぱり人が来てくれて相談できるような話がいいのだが、そうなると金もかかるのだろう。こっちはド素人だし、メールでデザインを指示したりせよと言われてもな~。あまたの会社があろうし、学内の人間の紹介で信用できるようなところに依頼するのがいいのだろうが、ちんぷんかんぷんである。
◆和泉市合宿で、2回生の考古に来るかもしれない2人とようやく話ができ、さっそく陵墓図トレースのアルバイトをしてもらうことになる。一度に4人が動く日・時間帯もでき、パソコンが足らなくなってきた。自分のレッツノートがだいぶくたびれてきているので、新しいのを発注した。デスクトップの方がいいのだろうが、狭い研究室ではかさばる。陵墓図はなんとか進んでいく。
◆次はホームページを立ち上げて、データが整ってきた時にアップでくるような体制を作る必要がある。立ち上げ初動に研究費をつぎ込めばいいのだが、ある会社にメールをしてみたが、どうも機械的でなじみにくく、やっぱり人が来てくれて相談できるような話がいいのだが、そうなると金もかかるのだろう。こっちはド素人だし、メールでデザインを指示したりせよと言われてもな~。あまたの会社があろうし、学内の人間の紹介で信用できるようなところに依頼するのがいいのだろうが、ちんぷんかんぷんである。
あんまり書きたくはないが中国
◆みなさんどう思いますか。カミさん曰く「弱~、でも日本はしょせんそんなもの、資源がないんだから」と。中国に憤ってもしゃーない、ああいう国だから。問題は日本の側だ。
◆威勢のいい前原君を見ていて、さてどうなることやらと思っていたが、アアなった。さぞや前原君は不満だろう。どうせなら、もうちょっと早く、とも思うが、しかしまだやりようはあると思う。謝罪と賠償要求に対して、菅首相自ら、今回の事件の事実の公表、経緯から判断、考え方、そして中国政府からの要求に対する反論。相手に無視されようが、国内的な儀式がいる。
◆このまましょぼしょぼ終わり、中国政府の怒りが収まることを待ち(オサマランか)、時間が過ぎるのを待つのでなく、国連総会から帰国して、ただちに政府発表をすべきだと思う。
◆案の定、こういう時には、安部君にマイクが向けられ、石原は「このザマだ」と。
【追記】中国の反日として映像が映し出されるけれども、わりあい一般市民は平静なんだそうですね。ふつうの中国人にとっては、どうでもいいのだろう。特定の人々が集まって、あるいは集められて行動するということか。それが映像で世界に発信されると、反対運動が盛り上がっているように見えるが、どうもそれとは違うらしい。
◆威勢のいい前原君を見ていて、さてどうなることやらと思っていたが、アアなった。さぞや前原君は不満だろう。どうせなら、もうちょっと早く、とも思うが、しかしまだやりようはあると思う。謝罪と賠償要求に対して、菅首相自ら、今回の事件の事実の公表、経緯から判断、考え方、そして中国政府からの要求に対する反論。相手に無視されようが、国内的な儀式がいる。
◆このまましょぼしょぼ終わり、中国政府の怒りが収まることを待ち(オサマランか)、時間が過ぎるのを待つのでなく、国連総会から帰国して、ただちに政府発表をすべきだと思う。
◆案の定、こういう時には、安部君にマイクが向けられ、石原は「このザマだ」と。
【追記】中国の反日として映像が映し出されるけれども、わりあい一般市民は平静なんだそうですね。ふつうの中国人にとっては、どうでもいいのだろう。特定の人々が集まって、あるいは集められて行動するということか。それが映像で世界に発信されると、反対運動が盛り上がっているように見えるが、どうもそれとは違うらしい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。