人を幸せにする人になろう

1954年7月15日『わたしたちの考古学』通信第1号

◆7月に始まる耐震工事までに、部屋の本をなんとか片付けないといけないことにあせる。月曜、院生とともに、考古学実習室の図書4dc20e64.JPG館本を多量に返却する(経済研究所棟の倉庫もきれいになった)。自分の部屋もちょこちょことやってはいるが、ちょこちょこより集中して1週間でやる、というようにした方がいいのかも知れない。
◆で、どこから出てきたものか、自分の部屋の保留本の中?、近藤義郎先生の古代学研究の創刊号も860c71e3.jpgあり、そのなかから、『わたしたちの文化財』の通信第1号が出てきた。実は両者、同じ頃に創刊し、相互に協力し合っている面もあったのかもしれませんね。そう、古代学研究のなかから出てきたのです。
◆それはともかく、『わたしたちの考古学』が創刊されて1ヶ月後に、事務局が会員に対して発送したニュースレターである(B4版二ツ折り)。考古学研究の事務局には残っているのかな。残っていないのではないかな。実物はどうしたっけ、これ展示物になるとは思いつつ、どこに展示するねん、とも思うが、スキャンして、たぶん捨ててはいないはずだ。2頁目には月輪古墳の映画が、文部省選定にならなかった話が載っている。
 

東洋陶磁に行く

◆そのあと、博物館実習Ⅰのため、東洋陶磁に初めて行く。思い出すのは大学生の頃、一度誘われたことだが(行かなかったわけです)、けっこう4acd5d25.JPG竣工して間がない時期のことだったのだと、いまにして思う。安宅コレクションがベースで、というのは昨年の博物館概論の時に勉強した。特別展はフィンランドのガラス器であった。
◆まあしかし、平日の昼間、けっこう人は入っているものである。基本はおばさん。男はおれ1人か。2階に企画展2部屋、3階に1部屋。2階には、常設の日本の陶磁器、韓国・中国、これが常設のすべてではないのかもしれないが、いちおう残してあった。通常の開館時の展示の様子は、なのでわからないのだが。ふだん、こうした美術館に行くことはまれだが、そこは授業でやらんといかんし、ガラス器を鑑賞しつつ、考古屋としてはどうやって作るんだろう、とも思いつつ、展示の作りに注意しながら進む。当たり前だが、歴史系の方が説明が多くなり、美術館では解説は最小限の情報を与えつつ、資料というか作品そのものの鑑賞に集中させる、そのあたりが基本的に違う。なにかを理解するというよりも、解説で知識を頭に入れつつ、これはよくできているとか、美しいとか、感性のまま、いいと思うものを感じればいいのが美術館だろう。気に入ったものがあり、その絵はがきを買った。
◆常設展は、これが常設展の全貌でないのだが、基本的な勉強はできる。底部とか、そのままでは見えないところにも重要なポイントがあるのだろう(そういうものばかりではないと思うが)、小さい写真シールがキャプションに貼ってあるのだが、すこしくたびれて退色している。重要文化財とかになると危ないからできないのかもしれないが、基本的に浮かして、下と背面に鏡を配置し、底部も裏面も見せればいいのに、と思う。すべてがそうなるとウルサイのだろうが、重要なものはそうしてはどうだろうか。
◆それと自然光を取り込むコーナーがあった。むしろそこに用いられた無反射ガラスが気になる。高いんでしょうね。だけど、博物館のケース、できればすべて、照明が写り込むことのない無反射ガラスにすればいいのに、と思う。
◆グッズコーナー、なかなか楽しめました。絵はがきのほか、ちょこっとしたガラス器を買いました。
 

用明初葬陵は谷首?

◆5月21日、ナブンケンに行く。小澤さんのところに器財を返しに。谷首古墳のリーフレットを渡すと、テルちゃんが用明陵と言っていたというので何かと思ったら、例の文献で、オレはそんなところまで読み込めていなかったわけである。が、ほんま?、ちょっと小さいやろ、とは思う。しかし(磐余の池の)池上の陵にふさわしい場所はどこかという、そういう追求は当然ながら正しいわけだ。用明初葬陵?、天王山式ちゃうか、と思うが・・・。
◆そのあとセンター長の部屋に行くと、難波さんに膨大な抜き刷りをいただいた。いつもいつも顔をあわすたびに、書いたものをいただく。それに対し、なにもお返しができていないので、ちょっとまとめてお送りしておこう。せっかくなので、銅鐸の話、弥生後期の話、そういう自説を説明し、楽しく談義する。どうやら自然銅でなく中国のインゴッドであるという証拠もそろいつつあるようだ。話を聞いていると、近畿式銅鐸は唐古ではないとの見方をしているようで、それなら河内かな、と思った。第Ⅴ様式の土器の話を土曜日に聞いたが、やはりヤマト国形成を主導したのは河内とみるべきで、大和の拠点集落の廃絶が遅いのは、その段階で、ようやく河内が大和を取り込んだと考えるべきかも知れない。直後に纒向遺跡ができるのも、大和の拠点集落のあり方の中からの変化でなく(ふつうでいけば激変はしないだろう)、河内勢力が押さえ込みに成功したことによる本拠形成とみた方がいいのかもしれない。いろんな専門のみなさんと話をするのは楽しいものである。
◆収穫はそれだけにはとどまらなかったが、このへんで。

最後に石清水八幡宮

◆もうやめてもよかったのだが、石清水八幡宮へ行くということは前から話をしていて、どうするかと尋ねると行きたいというので84a9df8f.JPG雨の中を行く。八幡から参道を行くべきだが、雨なので、楠葉側から車道で上がり、さっと参拝する。だあれもいませんでした。この天気やし時間帯だから・・・。
◆娘は浪人中だが、もうあんまり合格祈願のお守りとかを買ったりはしない。浪人してるんだし、神頼みでなく合格せよ(道明寺さんには正月に参る)。でストラップを買う。もうひとつ、気になるものがあったが、やめておいた。
 

島本町立歴史文化資料館

◆離宮八幡宮は雨のためパスし(行ってもよかったな)、島本町に向かう。途中で山城・摂津国境の関所のあった神社を見る。で、JR島本駅の駅前と8b487843.JPGいうが、カーナビには出てこない。2008年開業だった。で、資料館は古い建物、むかしの講演会場ですな、それを転用したもの。広い空間で展示施設として後の一画をそうしているのだが、前の部分はいまでも講演会などに使うのか、やっぱり展示施設としてはモヒトツ、というところ。ごちゃごちゃと、いろいろならべてはあるが。とくに後鳥羽の水無瀬離宮跡と思われるものが、数年前に発見されたという新聞記事があったが、それがひととおりわかるかと思って期待していた。いちおう、どこを掘って、どんなものが出てきたか、ということはわかるようになっていた。しかしまだまだこれからですね。横に埋文の整理室があったが(たぶんあれはそうでしょう)、やっぱり学芸員は置けなくても、ちょこちょことパネルを作ったりできる人を配置すべきでしょう。
◆史跡桜井駅というのは要するに南朝顕彰ですよね。で、桜井の別れ、なるものもフィクションだとか、聞いたように思う。で、こっそりぱちりとやったのは、鳥羽伏見で負け大阪城に敗走する時の、楠葉台場から打ち込まれたという砲弾と、それが柱にあたった跡の写真、これを思わず撮ってしまいました。八重の桜でも、1868年となり鳥羽伏見の戦いとなりました。
 

長岡京条坊と条里

◆大山崎町では、福島さんから、長岡京では条里と条坊の両方が残っているという話を聞いて、中山修一記念館では条坊やったやんか、どうなっとるねんと思った。が、まあ、福島さんの言うのが正しいだろう。だとすると、両方あり得るわけだ。条里は長岡京前のものなのか、あとのものなのか。オレは普通に考えれば、先行条里だろうと答えた。だとすると、長岡遷都後の10年で、完全に条坊市街地ができあがらいないままに平安遷都になったという理解になる。逆はあるだろうか。むろんあってもいいのだが、条里を割り直すなら、条坊を残す必然性がないだろう。
◆4回生は今週から教育実習だが、是非、これについてやってもらおう。まずは地図がいる。地図では無理かな~。福島さん曰く、われわれからすると重要な問題なんだけれども、あんまり問題にされないんだと。ほんまかいなとは思うが・・・。

大山崎町歴史資料館

◆2階が資料館。事務室をのぞくと福島さんと目が合い、出てきてひととおりの解説をしていただいた。残念ながら、なんて798d835d.JPGいうんだろう、蘭の画譜の特別展中で、常設展は撤去されてしまっていたが。それでも入口の模型や、展示の末尾部分、千利休の茶室以降はそのままで、画譜の説明を含め、実に丁寧に説明いただいた。山崎というのがどういう場所か、よくわかった。それに長岡京というのが、山崎の津を抜きには語れないこと、山崎の津を前面に置いた場所に都を作ったということがよくわかる。
◆入口の模型、これこそ古代の文献から推定できる研究成果にもとづく、とてもいいものなのだが、残念ながら写真を撮ることは許されたが、個人の使用に限ると言われてしまったので、それを守りアップしないでおく。山崎というのが国境のマチ、天王山前面の街道に沿う細長いマチであるということが模型でよくわかる。カヤ離宮があり、山崎院があり、橋があり、港があり、山陽道があり、久我畷がありという、このロケーション。車で行ったが、ここは歩いてまわる場所です。
◆そして、画譜、これもよかった。山荘にも一度行きたいものだ。でこの画譜、調べたら、蘭花譜というのだそうだが(加賀正太郎)、版画で、まず実大で、植物図鑑的写実をも求め、絵師に下絵を作らせ、それを手間をかけた日本的版画として印刷したものという。作品としての版画とともに、原画も展示されている。待庵という茶室のところで話をしていただいた外国人がどうみたかという話が面白かったし、明智光秀のところでは、山崎のマチが、天正10年6月2日の翌日に、光秀から禁制をもらっている話とか、また数日経つと、織田方から禁制をもらっている話などが面白かった。
◆写真を撮っていないので、1階のカエルのブロンズ像を挙げておこう。
 

勝竜寺城の展示

◆中の展示はワンフロアながら、ガイドさんが説明してくれた。そのあと、外をまわり、北門のところにいると、傘をさして追いか59f1a32e.JPGけてきて、追加の説明と、礎石を指さし、これ当時のもんです、と。ただし、その四つの石は、そう言われなければわからん。
◆さて、展示だが、ぜんぜんリキが入っていない。学芸員を置くところまでのものではないにしろ、長岡京市にあって、ここの発掘調査の成果を伝える大切な施設だし、場合によっては、勝龍寺関係に限らない展示施設としても利用できる。ひとまず常設の展示にしても、ある時点で作ったまま、ガイドさんに任せている。いくらでも作り込める。これだけのものを作り、そのことそのものに問題もあるにせよ、いまあるものを大いに活用したらいいのに、と感じた。
◆たとえば、神足神社のなかに残る土塁、これ説明看板や展示パネルにあったかな~、あまり記憶がない。そういう案内もやってほしいもの(あったのかもしれません)。

勝龍寺城

◆お昼を取っていると、ぱらぱらと雨が降り始める。まずは勝龍寺城。話は聞くがはじめて。実に立派である。市制30周年だかmap.gifで、復元整備したものという。ade2cd73.JPG
◆が、これって中は当時のものとは関係のない公園だし、事務棟も関係のないつくりもの。1992年にできたそうだが、どうも市長の独断と強い意向により推進された、現代の城風公園なのかもしれない。あまり不確かなまま適当なことは書けないが、なんだかな~と思いつつ中の展示を見る。ここでもガイドさんが熱心に説明をしてくれる。それにしても、細川でしょ、護煕元首相でしょ、熊本に行けばまだ殿らしいが、室町幕府の管領で、戦国を生き抜き、まあよく続いたわけで、いろんな資料がある。でそれらは、東京だか、財団法人の管理する博物館ができているそうだ(忘れた)。こないだ大阪城石垣のリーフレットを作ったが、そこに見えるのが、九曜紋の細川家の丁場だし、『ヒストリア』特集号でやった時も、石垣普請の上で、細川の文書が大きい役割を果たしているみたいだ。そういえば、解説で、室町幕府から与えられた紋に対して、九曜紋は信長にもらったとかそういう話で、二つの紋を復元軒丸瓦に用いている(むろん当時は巴瓦)。
◆神足神社に行くべきでしたね。まあ、雨やったし、いずれまた。
 

中山修一記念館

◆長岡京市の展示施設について聞くと、図書館と埋文センターに展示スペースがあるらしい(見たことはない)。で、中山修一記736901f5.JPG念館。恵解山古墳、南栗ケ丘遺跡(?、第3次国府と聞いている)のすぐ南だった(たぶん)。本宅の離れが書斎であったらしく、そこを長岡京市が買い取り記念館としたもの。
◆年表を見ていると、栄原先生の思い出話が上がっており、高校を卒業し、大学に入る前の春休みに長岡京の発掘に参加したらしい。それと、中山修一氏が、田んぼの形から条里でない条坊痕跡が残っているということを、かなり早い段階で見いだしていたらしい、というところに感銘を受ける。この問題は、またあとに続く。
◆そして、いろんなところに出て行って長岡京はあるんだ、ということを説明するのに作成した地図(縮小したものだったか)というものも気になった。これに用いられている古い時期の大縮尺?の地図は有用だろうと。
◆あんまり来客はないんだろうな~と思うが、われわれが入っていくと、ちょっとびっくりしながらも、解説していただいた。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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