人を幸せにする人になろう

ディベートと研究

◆旅行の間、バスでt先生と話をした。もっとも、なかなかこちらから積極的に話ができなかったが。t先生が受け入れている中国人留学生の呂さんの話がきっかけで、中国の大学などのすごい競走社会の話になった。t先生はシンガポール大学からの留学生も受け入れており(フランス人も)、たとえば奨学金をえるためには、学期ごとに、日本でいえば全優でないと切られる、といった制度の下で、その競争に勝ち抜いていかなければならないような話になった。
◆それから、いま文学部で1回生セミナーみたいなものが検討され、そのなかにディベートを組み込もうとする意見についてオカシイという話になった。ディベートとは、自分がどういう見解に立つかということとは別に、意見の異なる2者に別れ、双方のメリット・デメリットなどを戦わせ、白黒つけるみたいなことが行われると。ディベートというのは、何やら対立軸を明確にして、論争することのようだ。議論とはイメージが異なるようだ。
◆そして、t先生がいうには、たとえば親しいアメリカ人日本史研究者のボッツマン氏やその他、みな、t先生のもとでのゼミや研究会に出ると、報告者の報告に対して、建設的な質問をしたり助言したりする質疑に感銘するそうである。こっちの方が絶対にいいと。つまり、アメリカや中国やシンガポールの大学では、痛烈な反論やそれにかわる自己主張が強いんだと。異口同音に、日本の方がいいと言うらしい。
◆断片的なサンプリングかもしれないが、ディベートを主張する者の意見よりも、実際にわが文学部でももっとも国際的とも言える、多くの外国人留学生が集まるt先生の意見は重要ではないだろうか。そして同意したい。ディベート、政治の世界で、一定の判断を下し、実行していかなければならない世界では、全員一致ばかりをめざすわけにはいかず、どっちかに決めるという裁定を下す必要がある。それこそメリット・デメリットをだした上で、絶対是でなくとも決めなきゃならんことはあろう。
◆だが、人文学というのは、そういうのとは性質が違うものだ。理解を、認識を深めていくもんだ。人間社会は複雑で全体をとらえることはとても難しいし、それが変化していくことを説明するにも、より重要な要因は何かという追究は必要であろうが、特定の因子でもって変化するわけでない。アメリカの歴史学において、とにかく理論化することが求められるという。そういう価値観ゆえに、歴史学でもディベートによって、たとえばどっちがより合理性があるかといった勝敗のような決着が求められるのであろうか。
◆むろんまったく相反するコトガラ、誤った見方など、白黒をつけなければならないものもある。だが、ざっくりといえば、歴史学の目指すものが何かという点で、なにか切れのある理論をうち立てるためにやるのか、さまざまな先人たちの歩んできた実際の姿を、いろんな人がいろんな材料で明らかにして、協業してペンキを塗って細密に立体的に描いて明らかにしていこうとするのかという、目的の違いのような気がする。
◆少なくとも、論争の勝ち負けや、成績の優劣ではなく(そうした教育の延長として、学者になっても出世競争が続いていくのであろう)、それぞれの学生の関心に出発する研究の芽を育てていこう、伸ばしていこうという点で、t先生の言うとおり、日本の教育の方がいいと思う。
◆これは文化なんだろう。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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