人を幸せにする人になろう

京博で三角縁神獣鏡を見る

◆玉手山1号墳の報告書の関係で、京都国立博物館に三角縁神獣鏡を見に行く。デジカメだけにした(イオスキッスでよい)。まあまあ、よい写真が撮れた。実は、下垣の資料紹介のための写真で、あいつは出版物の転載で済ませようとしているので、勝手に撮りに行った。都合がつけば来たらと言ったところ、別件の資料調査を加えて、立命の学生とやってきた。下垣はまったく写真がヘタクソである(本人も自覚している・・・)。オレは写真がうまいとは思わないがセンス以前に経験だ。
◆カメラを本格的に習ったのは高校。クラブの先輩が写真部員でもあり、絞りとシャッタースピード、被写界深度、フィルム感度、といった基本はその時に覚えた。オリンパスOM1とかOM2とかを持ってはった。修学旅行の時に借りた記憶がある。写真をいろいろ撮ったりする習慣は、この時からのもの(いまでもキャノンのイクシーを常に身につけている)。
◆大学の実習で遺物撮影をちゃんと習った記憶がない。焼き付けの実習は記憶がある(京大でもいまはない。教える側が写真の現像や焼き付けをすることがないのだから)。暗室作業が実習メニューに組み込まれていた最後の世代だ。
◆卒論の時、外の資料を見に行ったことはほとんどなかったが、椿井大塚山の鏡をわりと自由に菱田さんに見せてもらっていた。で、写真を撮っていた。それから資料カードを作るのに、出版物の複写をして、暗室にこもって焼き付けをした。いまならスキャナー、パソコンで画質を調整し、プリント、いや簡単なものだな。
◆むろん発掘調査に参加すると写真を撮っていた。学部時代の愛機はペンタックスMEスーパー(壊れたまま)
。大学以来のネガアルバムがいまもあるが、べた焼きを焼いてアルバムに整理してと、まったくめんどくさい。
◆遺物というか鏡の写真は、その後、権現山と雪野山の関連資料を見たりする段階で、確立していった。1面の鏡にどういうカットを撮るかということもだいたい決まっていった。メモ写真なのでネガカラー。報告書に載せるような正式写真を撮ることはずっとやっていない。
◆遺跡の写真は、考古学研究会で出した岩倉の報告書の時に、窯跡の写真を撮って回ったことが大きな経験になった。そうそう、この時、須恵器はいま大阪市文協の宮本君が撮ったが、おれは瓦の担当だったので、瓦の写真は撮ったわけだ。報告書の写真はこの時が最初。で、遺跡。京大にはリンホフがあって、実働ではマミヤになっていたが、誰も使っていないリンホフを借りて岩倉の遺跡を撮っていた。バイクに乗っての単独行。このリンホフ、高橋猪之介氏の使ったものか・・・。露出計も手動(いまでも市大はこれ)。ボタンを押さえて照度を測り、目盛りを読み取って絞りとシャッタースピードを決める。リンホフのアオリは機能を知らず使っていないが、ともかく中盤のフィルムを装填し、巻き取り、現像に出し、焼き付けを発注し、報告書の図版をレイアウトしていった。
◆博士課程1年目、兵庫県史の考古資料編作成の嘱託になった。委員は、武藤誠先生と西谷真治先生。遺跡解説とは別に資料集成をやることになった。瓦や環頭大刀も撮ったのだが実現しなかった。実現したのは、銅鐸と鏡。委員の先生は全部集めることをハナからあきらめていた。しかし「ぜんぶ集めなきゃ意味ないやろ」と提案し、とにかくやってみなさいと。で、県下の鏡を集めた。どこに何があるかを確認し、撮影行脚。この時の修行が大きかった。銅鐸は提供写真で組んだが、鏡はすべてオリジナル撮影をめざして、ほぼ実現した。県史にカメラはあった。ライトもあったが、いくつか附属道具を買ってもらい、すべて自分で撮影した。宗田先生(高校教諭で、3年間、県史に出向していた、わたしは3年事業の2年目の1年間、この仕事に従事した)と一緒だが、ほぼ県下くまなくまわった。いまから見ると、ライトを当てている側がハイライト過ぎたり、保存処理をしたものなど、トレペで光を柔らかくしておらずテカテカしていたりするが・・・。そういや奈文研の就職が決まり、年度末、なんとか撮った写真のレイアウトをして、3年目の印刷を後任に任せられるよう整えるのがたいへんだった。
◆いまでも、考古資料編の銅鐸、両面と1側面をぜんぶ集めたものとして、そして兵庫県下の鏡を全部集めたものとして、画期的なものだったと思う(櫃本さんには申し訳なかったが)。21世紀、近畿で府県下の鏡集成本がないのは大阪のみで、数年前から写真集を出そうと企画し、ちょっとだけ資料を集めている。これも早くやらんと・・・。枚方・万年山のイイ写真を撮っているのに。
◆奈文研では写真はプロが撮り、担当者は日誌用の35ミリのみ。発掘現場の遺構の正式写真を自分で撮ることはない。でも何もしないわけではない。どういう写真が撮りたいのか、佃さんや牛島さんに依頼する。それがしくみだが、現場担当者も初めて、自分で撮ったこともない者に、どういう写真を撮らないといけないか、注文できるはずもない。だいたい、牛島さん任せだった。でも、報告書の遺物写真の立ち会いなど、隣でモノの出し入れをしながら見ているだけだが、勉強にはなった。
◆楠本真紀子さんの遺物写真も勉強になった。小野市史をやった時、遺物写真は真紀ちゃんに頼んで、4×5で撮った。東博にも来てもらった。いい集合写真を撮りたいという意欲は、真紀ちゃんの美しい写真を見て刺激された。机に置いた遺物のナナメ写真など、料理の写真もそうであるように逆光で撮る、ということも牛島さんに教えてもらった。影が手前にできるように撮る。立体感がある。
◆だがしかし、やっぱり大学に出て、自分が担当で古墳を掘って、その遺構写真を撮るのは、やっぱりそれまでにない経験だった。そもそもカメラの使い方に最初はなれず、7号墳の1年目の写真は、空送りが多いし、露光のおかしいものが多い。まあ、でも、埋め戻したあと、写真が上がってきて撮れていなかったというa002cfc3.jpg悲劇は幸いなかった。まあ、そのあとの発掘のフィルムを見れば、だんだんミスがなくなっていくのがはっきりわかる。
◆遺物、これは難しい。玉手山7号墳の埴輪はフィルムで撮って焼き付けて入稿したが、あまり褒められたモノではない。今度の1号墳では、是非、いい写真を撮ってやろう。
◆元にもどって、大学で教えられたことはなく我流だが、いまは遺物もだいたいのことはできるという自信みたいなものはある。今回も俯瞰とナナメ写真を撮ったが、ともにうまく撮れている。また、パソコンで画像処理ができ補正もできる。京博の鏡も、原案は俯瞰写真1枚だけだったが、ナナメ写真も組み合わせることにし、帰ってきてから、イラストレーターで合体させ、かつ付けバックではないが、白を透過させ手前の影を薄くする細工もした(違法だが写真を載せる)。世の中、便利になったものだ。というわけで、下垣さんも修行を積むことだ。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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