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卑弥呼の即位年

◆最近は、古墳時代の始まりについてしゃべらされる場合、卑弥呼即位は201年だと言うことにしている。それは、神功39年に景初3年(239)の卑弥呼朝貢、神功40年に正始元年(240)の「親魏倭王」任命の詔勅と金印がもたらされたこと、神功43年に正始4年(243)の朝貢、神功66年に晋武帝の泰始2年(266)の倭の女王(台与)の記事があるからだ。神功紀にある百済記事から4世紀後半に当てられていることも周知だが、一方で3世紀中頃にあててあることも事実だ。
◆日本書紀の神功の紀年69は、海外史料との対比から201年から389年を扱っており(倉西)、古い方は3世紀前半から中頃に位置付けている。そしてわかりやすい、神功39年が239年、神功66年が266年なので、つまりは神功元年は201年。神功皇后というのは古代国家が作り上げた存在だが、その即位年を201年に設定していることには意味があるはずであり、それは初代倭国王卑弥呼の即位年を示している、と理解している。
◆これが昨日までの理解。もうひとつ昨日、発見があった。日本書紀の紀年が允恭から水増しされていることは明らかだが、それを足していった場合、つまり日本書紀の歴代の紀年数を加算した場合、神功元年がやはり201年になるのだ。神功紀69年の部分を、元年が201年になるよう海外史料を配置しているのみならず、日本書紀紀年の全体の枠組みとして、神功元年が201年になるように設定してあるということ。2つの操作で神功元年を201に設定していることがわかる。
◆これ倉西は指摘していない。古代史の先行研究ではあるのかもしらん。自分としては、魏志・晋書との対比から言われていることに加え、日本書紀紀年でも神功元年が201年になるように設定されていることを知り、確信にかわった。書記編纂者が神功元年を201に位置付けたことは間違いない。
◆崇神をハツクニシラスとして、倭国王初代と第2代の女王を日本の古代国家は王等譜からはずしたが、卑弥呼の残影はひとつは神功像によって示されていると思う。これは、古代国家はそののちも陵墓への奉幣対象として神功陵を重視しているが、始祖墓と考えていたからだと理解できる。むろん、卑弥呼墓は箸墓であり、佐紀の五社神古墳(神功陵)は、のちに応神の母である神功を作り上げた時に、その陵墓として位置付けられたのであって、架空の人物およびその陵墓という古代国家の虚構の産物ではあるが。

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雲楽
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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