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永井津記夫のワカタケル471クーデタ説を読んでみました

◆前から勧められていた『季刊 邪馬台国』67の永井「辛亥の変とワカタケル」を読んだ。これ、継体紀の辛亥年に入れられている「天皇と太子と皇子が死んだ」という記事を、別に531でなくてもいいと考え、一巡遡らせ471とすれば、これが安康が死んで白黒やイチノベを殺して雄略が即位したことに符合するから、クーデタおよび雄略即位年が471ということだと主張するもの。
◆継体没年をめぐっては3つの年があり、もめている。だが、百済本記において「辛亥年に日本の天皇・太子・皇子がともに死んだ」という記事を、高句麗王が死んだ年(531)とならべている(百済本記段階からの組み合わせと永井はみる)ことにも百済側として一定の根拠にもとづくのだろうし、日本書紀編纂者が不可思議な「あとの人の研究に委ねる」みたいな態度が表明されているとはいえ、これを継体25年分注に記したことも、継体にかかわることという理解あってのことだろう。そして意見は分かれているが、欽明即位年が日本書紀と他史料で食い違うことから、継体と安閑を排除するクーデタを山尾幸久は想定している。
◆そしてたぶん新納さんは、継体を擁立した勢力と欽明をかつぐ勢力との間の確執を想定しており、大伴が後退し蘇我が台頭してくることとも関連あるとみているはずだ。
◆531年に書紀は位置付けていること、531における政変が、古くからの二朝並立説などを含めて文献史でも指摘され、そして考古学的な追究はなお足りないにせよ、権力主体の交替も示唆されている。なので、まずは531とは考えにくい、疑問だ、ということが前提として論じられる必要がある(が、ない)。
◆次に、で471だが、ワカタケル即位年が471であるという理由はなにもない。「ワカタケル即位前にいろいろ死んでいる、これが百済本記の記事に対応するんではないか、だから辛亥だから471になるんとちゃうか」ということだ。しかし、これはあくまで発想であって、それが確からしいという論証がない。あえていえば、雄略8年の呉国への派遣が471即位だと478になるから倭王武の上表の倭国伝とあう、という指摘くらいである。ただしこれも、雄略元年を457と書記紀年にしたがった時、雄略6年に呉国から使者が来たという記事があり倭国伝の462にあう(済の世子興、武がワカタケルというのは有力だが決定的ではない)。雄略期に呉国関係記事はいくつかあり、それが宋書などと対比し、471即位ですべて合致する、説明がつくというなら、それは論証になっていると思うが、うちひとつを取り上げているにとどまる。
◆471の傍証に稲荷山鉄剣を持ち出すのも根拠にならない。辛亥年にこれを記したというのが、オワケがクーデタにおいて大きな役割を果たしたからだ、というのは空想である。断っておくが、論文としての説得性を問題にしている。稲荷山鉄剣に年号を記すこと、それが「景初3年」など重要な年だからこそ書き込まれるということは考えうるだろう。だが、それが雄略即位年を示すなんて、どっからも出てこないと思う。
◆いまのところ、ナルホドとはまったく思わない。允恭没年は453ないし454で記紀でほぼ一致し、そのあとゴタゴタはあるが雄略が登場してくるということ(日本書紀では457)を大きく見なおさなければならない(471まで下げなければならない)理由は見当たらない。通説的な見方を墨守する必要はないが、それを脅かすものにはなっていないと思う。

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雲楽
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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