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吉備の古墳時代のイメージ(2)

◆3世紀第2四半期くらいか、卑弥呼治政の後半に入り、中国魏との関係ができ、箸墓古墳が築造され、前方後円墳共有システムが本格的に発動されていく。その時に、箸墓型である浦間、宍甘、網浜という3基が備前側にあり、前方後方墳である車塚を含め、すべて旭川東岸。操山の先端に古墳が築造され、背後には140mの浦間がある。そこには畿内の都月型埴輪があると。
◆一方で、西方は前方後方墳が多く、しかし規模はそう大きくはない(美作地域も視野に入れないといけないが)。前方後円墳もある。全体的に見れば、美作を含む特殊器台の分布域と、前方後方墳のありようの重なりがあり、そこに東から前方後円墳が進出しているイメージ。庄内式から布留1式の津寺遺跡などのありよう、しかし初期の大型前方後円墳が備中に現れないことは、倭国に連なりながらも、鯉喰以後の盟主なき連合関係の延長にあり、箸墓型のような王権とのより直接的なつながりは入り込んでいかない様子。備前車塚古墳もまた前方後方墳で、そうした吉備における関係のなかにありつつも、前方後円墳に取り囲まれ、三角縁神獣鏡多数を与えられ、とても興味深い位置を占めるようにも思われる。まっこうから対立しているとはいえないだろうが、吉備の首長間関係のそれはそれで隠然たるまとまりそのままに任せるほかないが、備前側首長を王権に近い存在として起用しているイメージ。
◆で4世紀に入り、吉備津彦が。半分冗談で、半分まじめです。中山茶臼山は行燈山型である。行燈山形前方後円墳のあり方からすると、崇神はかなり列島広域にわたり、倭国に緩やかに参画していた諸地域に対し、王権の関与を強めていくように思っている。丹後の湧田山、会津大塚山、大分の小熊山など。で中山茶臼山が吉備の中山に出現する。大型前方後円墳がここまで来たと。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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