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吉備の古墳時代のイメージ(1)

◆弥生時代後期の特殊器台の共有にしめされるまとまりの形成と楯築の築造。しかしそのあとのイメージは、倭国形成主体論ともからみ、なかなか難しい。津寺があると。足守川河口部の交易拠点ができ、瀬戸内海上交通の重要な中継地である。例えば特殊器台の議論でも、立坂、向木見と、分布は拡大するんですかね。文様の系統論もあり単純に時期区分できないとしても、立坂が楯築を画期にできあがったとして、これが130年くらいとして、箸墓が250年、宮山や矢藤寺山などはややさかのぼるとしても、宮山型は別にしても、向木見が例えば2世紀中か、3世紀第1四半期まであるのか、知りませんが、へたすりゃ立坂から向木見まで100年くらい使われたのかもしれませんよね。3つとか、4つとかに時期区分でき、それによって共有関係がどう進展したのか、といった論文にお目にかかったことがないようにも思います。まあ、独立度の高い吉備、しかし西日本の諸権力の一画に位置付いていたと。
◆その次、鯉喰として、それが纒向石塚並行くらいだろうか。2世紀半ば。そのあと吉備の王墓はどうなるんでしょうか。2世紀後半は、ヤマトが求心力を強めていく時期にあたり、吉備ではせっせと特殊器台は作られ、まとまりを維持しようとしてはいるんだろうが、盟主的な大型墳墓は途絶えたのかな。
◆倭国乱が収束し3世紀に入る。倭国が確立する。瀬戸内一帯であるが。吉備の3世紀前半の墳墓はどんなだろう。そこに宮山と矢藤寺山という前方後円墳が現れる。総社と吉備中山に。なので、倭国の枠組みに入り、前方後円墳を共有する関係が発現する。しかし、そのあと、そのまま前方後円墳の社会が拡大するわけではない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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