人を幸せにする人になろう

吉備の古墳時代のイメージ(3)

◆しかし崇神没後、佐紀遷都。東アジアは流動化し、伽耶との関係を深めていく。で神宮寺山166mが旭川河口部にで~んと来る。五色塚も、輿塚も、丹後も(陸路もだが)。神宮寺山の立地は、佐紀段階のありように合致すると。
◆まあしかし続かない。佐紀段階に2代続けて大きいのを造っているのはあまり見ません。これはこれで解かなければなりません。佐紀後半は金蔵山。五社神型の前方後円墳はほぼこれも1代止まりです。けっして古市・百舌鳥段階に続くことはない。佐紀前半が陵山型で表現され、後半が五社神型で表現されるところに、さっきの佐紀段階のなかでの王権のありようならびに地域首長との関係の変化を解く鍵があるのかもしれません。
◆でホムダワケのクーデタ。玉丘の被葬者とともに、佐古田堂山の被葬者も、これに荷担したのでしょう。佐古田堂山はでかい。足守川東岸です。そもそも津堂城山型はまだまだ少ないが、そのなかで玉丘は後続墳を造っている。太田天神山はそれっきり。佐古田も単独。河内政権段階とすれば造山が顕著ですが、佐古田と造山の間をどうみるかです。近しいと思うが別系譜なんでしょうね。
◆で作山となる。
◆次は雄略朝の反乱伝承とかかわる。狩野さんの論文を見ると、日本書紀分注の方に信憑性があるという。雄略7年に、下道前津屋と上道田狭を倒す。日本書紀紀年でいけば463年。允恭没から10年後、両宮山は田狭墓でもいいのか・・・。このへんで、やめましょう。ウラ伝説も考えてみたいところですが。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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