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誉田御廟山の堤に入って

◆昨日02月24日(木)、誉田御廟山に入る。まったく準備をしていなかったが、前日に1時間、当日の午前で準ef006443.jpg備する。1500分の1で5枚に分割した拡大図を用意し、各所を計測したり、なによりも、ルートをイメージしながら、チェック箇所を考えた。そういえば、2006年に近つで、誉田御廟山についてしゃべったとき、御廟山の復元をやったな~と思い出し、そのパワポを取り出した。入ってからあとの事後検討会で、いつも「あそこがここが」ということになるので、プロジェクターで測量図を投影しながら議論すればいいのにと思っており、プロジェクターをもっていくことにする(結局使わなかった)。それと、文化庁に確認することの項目を準備していたので、当日の議論の成り行きでは配布しようかとコピーをしたが、あわてていたのか持って出るのを忘れた。
◆でかいので1周するのに3時間かかる。入ってのひとまずの感想を、以下、少し書く。いずれにしても、現場でのメモ、写真(140枚になる)など、翌日には原稿を書き上げるくらいのことをしないと、忘却する。ひとまずデジカメ写真の撮影方向を図に落としたが、原稿はしんどいな~。581673e0.jpg
◆中期に幅のある周堤が完備されるが、陵墓でも堀の肩の部分から内側が宮内庁管理地になっているものが多く、宅地化が進んで保存されていないものが多い。誉田御廟山は堤の外まで宮内庁の管理地となり、これまでよく保存されてきたので、中期古墳の周堤について、本来の姿を確認することができた。しかも幅35歩48m、裾部で約60mの、我が国最大のものである(大仙の上面約30m)。また陵墓図には埴輪列の位置が実は記入されており、埴輪列の幅もわかっている。いまでも樹立状況のわかる埴輪を2カ所で見ることができたし、養生のために土を入れた箇所1カ所を教えてもらった。
◆大仙や誉田御廟山は周堤を取り込んでいるために、墳丘そのものは遠望するしかなかったが、今回、堤のヘリから墳丘本体を望むことができた。崩壊箇所を除くと、測量図にある通り、非常に保存状態がよい姿がうか1247f71c.JPGがえたが、樹木や周濠底の水草などで、よく観察できたわけではない。水位は30㎝程度上下するくらいであるという。で、裾部がやや傷んでいる箇所や、葺石がならぶ姿を遠望したが、あんまり傷みはそれほどではない。
◆御廟山の下段はほぼ露出している。いまの汀と本来の基底部はほぼ近いと思っている。周濠は浅く、下段斜面がさらに下方にあまりのびるようには思わない。それと、今日の話でも、けっこう浚渫して堀を造り出しているような話だった。明治の修陵前の状況と、明治13年、明治21年~24年の浚渫などを、きちんと整理しなければならないが、市野山・仲津山と同様にほぼ空堀状態であったものを、むしろ周濠底部をさらに掘削して水堀になるようにしているのではないか、と思う。
◆二ツ塚古墳も見ることができたし、誉田丸山古墳もたぶん帆立貝なんだろう。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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