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首長霊継承儀礼

◆前方後円墳が首長霊継承儀礼の場で、大嘗祭の原型ではないかということは、わりとしっくりくる。が否定的な見方もある。(1)こうした見方の大元である近藤義郎説を点検すること、(2)そして先入観なく自分なりに考える必要がある。
◆大嘗祭は延喜式で唯一の大祀とされる重要な儀礼。それは当たり前、この国を統治する大王・天皇位の継承儀礼であるから。その内容は、寝所があり、夜に行われ、先王との共食といった内容を含むが、それ以上のことは秘儀として不明。こうした内容も時代的に変形や付加があろうが、7・8世紀の頃には整えられ、基本的に変わらず現代に続く。この延喜式に確認できる儀礼のなかに、より古い時代、倭王権の成立とともに整備されてきた王位継承儀礼の本源的なものが含まれているであろう。ここまでは異論はあるまい。延喜式の大嘗祭の中身をよく知り、その本質を考えることが重要だ。
◆一方、こうした古来からのもっとも重要な儀礼である継承儀礼とともに、桓武が即位儀礼を整えたという。天皇位を継承し、それを百官に知らしめること、こうしたことが官僚制やそれにみあう宮の整備と共に、より重要となるに違いない。こうした即位儀礼は、雄略だったかの登壇即位にも通じる。宮を営む場所に土壇を設け、そこで神器を受け取り、大臣・大連を任命し、新たな体制を宣言する、そうした行為は5世紀後半に一定の整備が進められたと考えられている。これも古代史では一般的な理解だろう。
◆しかし、登壇即位はあくまでも即位儀礼であり、7・8世紀にもっとも重要とされた継承儀礼である大嘗祭にうかがえる内容は含まれない。即位儀礼が先で、継承儀礼があとで出現する、ということではないと思う。継承儀礼こそが本来的なもので古くからあり、これに即位儀が独立整備されたと理解すべきであろう。
◆そう簡単ではないか。大嘗会の整備は神話確立とともに7世紀に新たにできた、これが基本なのだろう。皇御孫命(すめみまのみこと)すなわちニニギのミコトこそが、米粒をアマテラスから与えられ、豊葦原の瑞穂の国の統治をアマテラスから委任され、代々の倭王はこの地位を継承する者である、という正当化論理。大王がこの国の統治者であることがこれによって根拠づけられる。それはアマテラスでも、神武でもなく、ニニギノミコトを引き継ぐ(日継)ということ。
◆「ニニギノミコトの祖霊を継承するのが大嘗祭の本質」この理解でよいか、ということがそもそもわからん。つまりは、それこそが折口信夫の説、真床御衾と大嘗祭の寝所を結びつける発想の妥当性判断の分かれ目になる。それ以前がどうかは別問題だが、まずそこの確認。
◆もうひとつ和田萃先生のモガリの研究だ。大嘗祭の開催と、モガリ研究から結論されている埋葬時期は一致するのではないか。
◆アマテラスやニニギノミコトがいつ作られたかはわからない。が、こうした神話構造にもとづく理屈が作られてから7・8世紀の大嘗祭はできたのであろう。4世紀には、ニニギなんていないだろうし、遠い始祖の霊を継承するという意識はないのだと。そうかもしれない。しかし一方で、遠い始祖をどのように意識し、それを継承してきているという意識がたとえなくても、プリミティブな段階としては、先代を引き継ぐ、それを繰り返してきたということが、次期首長たる根拠になってきたことを否定することにはならないだろう。そこに、あとからニニギがのっかるというのは無理な想定ではない。
◆ここまでにしておこう。大嘗祭の原型が古くにさかのぼるという先行研究をさらにチェックすることが必要だし、われわれとしては前期古墳の調査成果のなかから言えることを究明しなければならない。考えるところもあるが、いまはやめておこう。

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雲楽
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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