人を幸せにする人になろう

鹿児島補遺

◆薩摩国府のある薩摩川内市の遺跡では、嘉祥3年の木簡が出ていて、○条○里の2段の土地のことが書いてある。条里があるんでしょうね。
◆大隅には豊前から2000戸、薩摩には肥後から、人を移住させている記事があるのだとか。薩摩には柵が設置されたとも。隼人とは何か、難しいんでしょうが、前にすこし考えたことがある。
◆特攻基地はまだ行ったことがない。鹿屋が海軍、知覧が陸軍である。知覧の武家屋敷はいいらしい。

鹿児島―古墳の旅(20)上野原

◆時間なく飯盛山古墳はパス。で上野原にむかう。前に家族旅行で行った時、たぶんできていたん だろうが、埋文センターに寄るも閉まっていて、縄文の森にはいかなかったのかな?。あんまり家族には人気なく、シラス台地を見せて下りてきてしまったのか・・・。
◆シラス台地の土取り場が高速道路から見えた。あんな垂直で・・・、そうする方が強いのだという話は聞いていたが、怖い景観だ。
◆こうして古墳の旅は終わる。空港へ向かう人、鹿児島中央駅に向かう人に分かれて解散する。上野原はとても面白かったが、疲れたので、それ以降の話はやめておこう。

鹿児島―古墳の旅(19)志布志市埋蔵文化財センター

◆表題の通り。志布志城は国史跡となっており、入ったところにでーんと模型があった。志布志は 港町として栄える。中国産はじめ陶磁器がまとまって出土している。
◆横穴墓があって8世紀前半の須恵器が出ている。「末期古墳」・・・。むろん関係があるわけでないが、7世紀代に古墳がなくなっていく段階にあって、南北で古墳(墳丘墓でないとしても)が残っていくことも、とても興味深いものだ。
◆近世の密貿易屋敷もとても面白い

鹿児島―古墳の旅(18)

◆肉眼で識別できるソイルマーク。堤が白く、周濠が黒い。わかりますよね。こんなん初めてだ。

鹿児島―古墳の旅(17)横瀬古墳

◆で、お待たせの横瀬。まあすごいわな。100歩138mか。3段築成。これは王墓と対応させないとい けませんね。で、候補を考えたが、いま改めて見てみると口ごもってしま う。ちょっと待ってもらおう。元気がよければやってしまうのだが、伏見城から帰ってきて、やや疲弊気味。迷い出すと、唐仁大塚もちょっと・・・。
◆ちなみに、右写真は1988年に最初に訪れたときの写真です。

鹿児島―古墳の旅(16)神領古墳群(10号墳)

◆大崎町横瀬古墳に行くも、草刈り中。先に神領古墳群へ。廃線跡の道路を見る。駅だった場所、 立ち枯れている信号機。右の写真の切り通し部右側にも実は11号墳という 前方後円墳があり、線路を付けたときに縦に削られているのである。
◆神領10号墳は、よくぞまあ残っていたという話が実にリアルな、やせ細った前方後円墳である。
[大崎町]人口1万3500人

鹿児島―古墳の旅(15)

◆第2日はここまでで、アスパル大崎に泊まる。前に家族旅行に来たときに立ち寄ったことがある。 でっかいカブトムシがあり、亀がいる。和室4部屋に分かれる。
◆志布志市/大崎町/東串良町/肝付町の担当者も参加し、温泉に入ってから懇親会。大自己紹介タイムというか、かなりの時間を費やす。志布志市が約100件の指定物件があり、市指定70件強とというのはすばらしいですね。条例をもっていても(あるいはなく)、ぜんぜん市指定なんぞやっていないところもあるだろう。
◆そのあと、いちばん奥の部屋で酒盛りが始まる。研究室旅行みたいやね、といいながら、Nさん、Fさん、Tさん、Sさん、などと、鹿児島の話とともに東北の話を含め、古墳文化なんてあるんか、といった議論をエンエンと2:30まで。みなさん、お疲れ様でした。

鹿児島―古墳の旅(14)大崎町郷土資料展示室

◆17時をまわるも、外はまだ明るい。大崎町の方が資料室を開けて待っていてくれる。横瀬の埴 輪。布留式土器。高杯に小丸、鏡、石棺。軽石で作った組み合わせ式石棺 は、とても軽い。扱いやすくて便利ですね。
◆これだけの古墳があると。適度な河川が流れ、古墳時代の前提として、農耕社会の定着は早いのかと問うたが、むしろ薩摩側の方が早いし、あんまり変わらないと。むろん農耕といっても、知っているやっているというのと、基本米に依存するようになっているのかは別だし、イメージとしては志布志湾岸の方が適してるのでは、と思ったりするが・・・。弥生時代はそんなんだとして、で、古墳時代に入り、これだけの古墳が築かれ、そこで薩摩と大隅の差が顕著になっていくのだろうと思う。いや、条里はあるんですか、と。あってもいいのではと思ったわけ。で『地図でみる西日本の古代』をいま見たが、宮崎以南がないではないか。

鹿児島―古墳の旅(13)鹿屋市岡崎古墳群

◆岡崎古墳群。前方後円墳の20号墳、地下式横穴が発掘されている15号・18号墳など。

鹿児島―古墳の旅(12)東串良町唐仁大塚

◆まず唐仁=唐人で、唐人町があったということに、ハタとく。こりゃすぐわからなあかんわ  な。むろん昔はそんなこと知らず、単なる地名だとしか認識していないが、唐人町のことなど学んだ段階で、そういやトウジンオオツカや、と。
◆昔来たときは、神社でうっそうとしていて、参道沿いが低く細長い前方部とされていることについては知っていたとは思うが、前方部のことを当時どう理解していたかは覚えてない。うそ~、ほんまか~、というところか。110歩152mか。でっかい後円部は55歩76mというところか。台地を掘り下げた周濠も見事である。段築は不明瞭だが、やはり3段であるのでは。長持形石棺風で、棺身も刳り抜きで作っているのが面白い。石工は延岡だろうとのこと。
◆神社前の郷土館にすこし考古資料があり、おばあちゃん2人が番をしている。
◆150m級の前方後円墳の墳丘規模で、縦穴石槨に長持形風石棺、モノは最新の甲冑ひとそろいをも つ。埴輪なし。柄鏡形前方部という地域性を引きずるとはいえ、塚崎古墳群と交替するように、中期に入って突如現れる巨大古墳。その格付けと地域色の交点をどう考えればいいのでしょうか。オサホ・メサホに次ぐ巨大さと、しかし河内直でないギャップ。しかしそこにこそ、古墳時代の王権と地域首長の関係が表れていよう。
 ◆役所塚なども見る。200基近い古墳群。ここでもすべて史跡ながら、境界や所有者の問題があり、墳丘測量図の整備を含めて、地元で粘り強く、史跡の活用への取り組みが進行中である。
[東串良町]人口7000人

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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