人を幸せにする人になろう

夏の出雲(13)次に造山

◆文化庁にいた時、ちょうど島根大が大成古墳を掘っていて、渡辺先生に説明いただいた。塩津山 から続く荒島丘陵でも、やや西北に造山古墳群は位置する。ここは、しばらく前に史跡整備をしており、麓の駐車場に大きな説明看板があるが、ややくたびれている。
◆暑い中、山をあがるのはしんどいが、上がると中海を見下ろす絶景が広がった。大成はやや離れている。造山1号、3号などがひとかたまりであり、ひととおりめぐった。
◆荒島丘陵一帯を、季節のいいときに、ひとめぐりするのは楽しいだろう。地点がいくつかに分かれているのを、どのように結びつけていくか、ということも課題か。そして出雲市のように、荒島丘陵の弥生墓や古墳群が学習できるような博物館ができると良いのに、と思う。

夏の出雲(12)安来、まず塩津山

◆なにかと島根には文化庁時代、縁があり、出雲市もそうだったが、安来市の仕事にもかかわっ た。荒島丘陵の古墳を見て回った記憶がある。まず塩津山に行く。高速道路の調査で塩津山丘陵が調査され、1号墳はオープンカットで壊されるはずだったが、トンネルで残したという(記憶が定かでありませんでした)。両側には四隅があり、四隅の突出部がなくなり方墳へ転じる過程が知られたものである。

(ネットから)荒島古墳群は島根県東端の安来市に所在し、中海に面する荒島丘陵上に位置する。既指定の造山古墳(1号墳)は古墳時代前期の大型方墳であるが、荒島丘陵には、これ以外にも弥生時代後期から古墳時代にかけての墳墓や古墳が集中するため、これらを追加指定し 「荒島古墳群」と名称を変更しようとするものである。
 荒島古墳群として指定しようとするのは、単独で所在する大成古墳、造山支群4基、塩津山支 群8基である。大成古墳は明治44年に開墾中に発見され、竪穴式石室から三角縁神獣鏡や素環頭大刀ほかが出土し、前期の大型方墳として著名である。その西側の造山支群は、既指定の1号墳のほか、同様の大型方墳である3号墳等計4基からなる。また東側の塩津山支群は、弥生時代後期の大型の四隅突出型墳丘墓で ある6号・10号墓、四隅墓の名残をとどめた古墳時代前期の方墳である1号墳等からなる。

◆トンネルの脇に説明看板があり、そこから登り口がある。そして整備された1号墳を見る。四隅の名残を残しつつ突出部がなくなり長方形墳となったもの。土器などのレプリカも配置してある。真夏で草ぼうぼう、ちょっと両側の弥生墓を探検に行く気にはなれずに引き返す。なお、仲仙寺や宮山の墳墓群は、今回パスした。

夏の出雲(11)風土記の丘

◆高速で松江に引き返し、風土記の丘に行く。岡田山1号墳を見てから資料館に。資料館の展示は リニューアルし、一新されていました。古い時代から、この地域の資料を 配置し、そして国府へと導かれます。企画展もやっており、なんだっけか、動物だったか・・・。
◆今回は弥生の遺跡をメインにしているので、そのあと風土記の丘一帯の古代の整備地をまわる余裕がなく、国庁あたりをながめて先を急ぐ。

夏の出雲(10)再び出雲市へ

◆翌日、中海の島伝いの道を選び、松江の脇に出て、ガソリンを補充し、再び出雲市へ。やっぱり 馬鹿でしたね。2階に実によくできた最新の展示施設がありました。中央 には、3号墓の模型、副葬品や土器などもホンモノです。西谷の現地脇で、実物資料を見ることができるわけです。
◆また西谷のみでなく、上塩冶築山、未盗掘の中村1号墳の副葬品など、一級の古墳時代後期の副葬品群がずらりとならんでいるではありませんか。県立の歴史博物館とともに、出雲に行けば訪れるべき施設ができあがっている。
◆そのあと、大念寺古墳にも行く。ここに入るのは初めてです。前も来たが、その時は連絡しておかないと鍵をあけてくれなかったと思います。が、写真がない・・・、ああ。

夏の出雲(9)民宿「まつや」さん

◆そこから松江市街を抜けて、中海北岸を通り、境港の民宿にむかう。院生がセッティングして くれた宿で、みな料理に大満足!。これは呑みですよね。ビールを繰り返し 頼み、酒代の+アルファもけっこうなものでしたが、とてもいい宿でした。
◆夜、翌日のことを考える。出雲弥生の森の図録を見ていると、どう考えても、この楽しみにしていた出雲市の新施設について、見るべき展示を見逃したとの確信するに至りました。最初にいちばん西に行き、ゴールは妻木晩田遺跡とし、東にむかうアラアラの計画だったが、明日もう一度、高速で出雲に向かうことに心を決める。

夏の出雲(8)田和山遺跡

◆松江市田和山遺跡は、今回の主目的のひとつ。
◆日も長く、博物館資料館をとにかく17時までつっこむことを優先し、田和山遺跡現地はそのあとでという作戦。8時前後だったんでしょう。
◆いや~感 激しました。この遺跡の保存問題をめぐっては・・・。とにかく、松江市はよく残してくれたと思います。なかなか性格づけが難しい遺跡のようですが、多重の環濠がめぐる姿が見事に復元され、立地も無論いいし、見応えのある遺跡です。なぜ後期に続かないのか、答えが見つかるでしょうか。修論で取り組む院生がおり、一緒に考えていきたいと思います。

夏の出雲(7)大庭鶏塚

◆風土記の丘、これは明日まわるが、大庭鶏塚だけ立ち寄る。山代二子塚は場所だけを示した。

夏の出雲(6)玉造資料館

◆松江にむかう。途中、玉作資料館に立ち寄る。何回か来たような気がする。最初は、1984年のやはり考古研サークル旅行。その次もなにか記憶があり、畑で碧玉のかけらを拾った記憶があるのだが・・・。玉作遺跡の史跡の追加指定の関係で訪れたことがある。発掘現場でなく、その成果の報告会だったと記憶する。時代は8世紀頃だったか。
◆閉館間近だったが、親切に対応していただき、よければこれをと資料もいただく。2ヶ月が経ち、記憶も定かではないが、ちょっと展示がくたびれている様子が目立ったように思う。たぶん、1984年に最初に見たときと、あんまり変わっていないんだろうと思う。そう簡単にリニューアルというわけにはいかないのだろうが、県博で玉作の最新パネルなどが作られており、そういうのを提供してもらうなり、やりようはあるのではと思う。出雲大社脇の県博はそりゃロケーションはバツグンだろうが、しかし玉造温泉という地名にもなっている出雲の玉作のメッカ、その現地にある資料館も頑張って欲しい。長い調査歴があり、これまでにわかった、玉作遺跡のおおよその全容がわかるようにしてくれると、とてもいいものになると思うのだが。

夏の出雲(5)加茂岩倉遺跡

 ◆荒神谷からさらに東、加茂岩倉遺跡に行く。手前の所に駐車場があり、谷をさかのぼってい く。やがて、右手に尾根の張り出しがあり、そうそう、こんなところだったと思い出す。階段を上がり、埋納坑の脇に立つ。けっこう暑かったような。そこから山の斜面に等高線に沿って木製の歩道が通してあり、埋納坑ポイントを横から眺められるようにしてある。
◆そしてその先にガイダンス施設がある。こちらは加茂町の施設で、職員さんが1人おり、冷たいお茶のサービス。そして時間があるなら、ビデオを見るよう誘われ、画面を覗く。1997年?だったか、発見時の映像を編集したもの。佐原さんのお元気な姿が見える。ぱっと見たとき、オレかなと思う後ろ姿もあったが、加茂岩倉遺跡を担当することはなかったので、違うだろう。職員さんが、発見当時の加茂町サイドの対応の昔話をしてくれる。
◆ここでも、時折にしか来ないであろう見学者に対応するため(いや、われわれの前に1人いたが)、OBか再雇用かなと思うが加茂町の職員が配置されていることに驚くとともに、博物館施設のある荒神谷遺跡のとの違いを、感じざるをえなかった。

夏の出雲(4)荒神谷遺跡

◆荒神谷に来たのは、加茂岩倉の調査を見学した時以来だろう。実際の埋納坑の上に復元された模 型は、かなりくたびれてきている。まあ抜け殻ですし。レプリカを置くしかないですよね。
◆谷の入り口に、県の立派な施設ができていました。2005年開館で、運営はNPO法人だそうです。特展《古事記の装い》をやっていて、関東の人物埴輪などがけっこう集めてありました。
◆奧には食堂もあり、ここで遅い昼食を取りました。出雲そば!。
◆よくできた博物館で、受付の方の対応もよかった。しかし、銅剣をはじめとするホンモノは古代出雲歴史博物館にある。いたしかたないのだが。とはいえ、学芸員を置き、企画展も開催している立派な博物館だ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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