人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
またまた
◆記録として、昨日25日はある講習会に出ていました。それから学情6階の廊下部分の仮パネル4つを貼りに行き、ついでに大学史で少し話をする。本日26日は朝からカミさんの大学に行き、うちの6階展示に使う3D模型を作る放散虫の選択をしてきました。スキャンデータも確認し、データも良好で、模型が作れることも確認済み。
◆カミさんの研究室や実験室に行くと、理系はすごいな~、と思いますね。ある目的にむかって、機器やらそういうのをそろえてある。むろん金を取ってきて100万単位の機械を買ったり、計測に必要な器具は自分で作ったり、と。組織的にやっている様子を感じることができる。むろん考古学でもできるのだが、文系はより個人的ですね。
◆ただし、悲しいことに、そういう研究室で取り組んでいるさまざまなこと、ほんとは院生や学部生が分担して担当し、それぞれが機能することで、全体として研究室の研究が推進されていくわけだが、格好はそうなっていても、カミさんいわく、全部1人でやっている(任せられない、やらせてもできない)のだそうです。
◆カミさんの研究室や実験室に行くと、理系はすごいな~、と思いますね。ある目的にむかって、機器やらそういうのをそろえてある。むろん金を取ってきて100万単位の機械を買ったり、計測に必要な器具は自分で作ったり、と。組織的にやっている様子を感じることができる。むろん考古学でもできるのだが、文系はより個人的ですね。
◆ただし、悲しいことに、そういう研究室で取り組んでいるさまざまなこと、ほんとは院生や学部生が分担して担当し、それぞれが機能することで、全体として研究室の研究が推進されていくわけだが、格好はそうなっていても、カミさんいわく、全部1人でやっている(任せられない、やらせてもできない)のだそうです。
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勢いで書いています
◆学問だから意見の相違はある。邪馬台国問題など、その最たるもの。で、どうするか。互いを攻撃しあうことはやめましょう。そこに労力を割くことはやめましょう。もちろん論争によって、自分の寄って立つ根拠を見直すことにもなり、さらに固まっていったり、修正が加えられたりしていく、という面はある。それを否定はしない。しかし、世の中には攻撃的なものがありますよね。
◆そうではなく、意見の分かれていることに対して、事実を明らかにするには、この先、どのように手を打ち、どこを課題に分析を進めればいいのか、そういうことに労力をかけたいものですね。
◆あかん、ついつい書いてしまうが、もうやめます。
◆そうではなく、意見の分かれていることに対して、事実を明らかにするには、この先、どのように手を打ち、どこを課題に分析を進めればいいのか、そういうことに労力をかけたいものですね。
◆あかん、ついつい書いてしまうが、もうやめます。
尋ヒロ
◆続けてYさんのヒロ尋1.8mについて考えていた。改めて論文を読み、内容を把握。しかし、考古学の側のヒロ尋1.5mというのは、別途、ちゃんとした論証をしないといけない。実は9尋・7尋・5尋に対応する墳丘があることは、自分でも定北のグラフをもとに提示済み。そこを個々の古墳に即して、もっとちゃんとやらないといけない。プラス、6世紀から7世紀前半の墳丘が南朝尺25㎝の6尺1歩1.5m(これがヒロなわけだが)を、早く論文にすることである。
◆考古学から、ヒロ尋は1.5mであることを論証したうえで、モノ申す必要がある。
◆結論は、旧俗廃止の詔に出てくる2尋は、貨幣的な布として3mの(のちの常)布があったんだろう。これが646年時点の現状を示す。しかし同年正月の改新詔では1丈2尺(3.5m弱)、そして4丈の布のところに出てくる幅2.5尺(約74㎝)、これは換算値でなく、既に改新前に唐大尺は入っていて、この数字が原詔そのものだろう。これは、新税制であり、前代までの2尋というものを基礎にしながら、より長いものにこれからしていくとしたもの、こう理解すべき、というのが結論。一致しなくていい。ヒロ尋実長からはそう導ける。
◆ちなみに幅の唐大尺2.5尺(約74㎝)の布幅は、南朝尺の3尺である。南朝尺でいえば、2尋布は、南朝尺12尺(3m)×3尺(75㎝)布だった。それを唐大尺12尺(3.5m弱)×2.5尺(74㎝)にした、ということ。これが天武初年以前に1丈3尺になり常布が成立するということのようだが、これについてもヒトコトあるが、やめておこう。
◆いずれにしても、漢尺23㎝は知られていても、6世紀になると高麗尺が、というのがずいぶん前の知識であり、甘粕先生の明らかにしていた南朝尺25㎝というのが、ほとんど考古学の世界でも顧みられておらず、どこにも出てこない。文献史のYさんが、2尋を考える際、この時期は高麗尺だから、と、あたりまえのようにそっちに行き、25㎝尺など存在が知られていないわけです。しかし、書いているかどうかわかりませんが、Sさんは倭鏡が、漢鏡の5寸とか7寸とか、中国尺によって器物の大きさが説明できるとしているように、墳丘で確認できる中国尺は、墳丘のみならず(墳丘はその歩数)、器物など尺寸で設計されている常用尺になっているのである。断定的に書いたが、やっていないわけで、これ卒論のテーマになりますよ。貢納物であり、また貨幣的に扱われる布の寸法もまた、尺寸で定められたのであり、5世紀第2四半期頃に南朝の1尺25㎝尺の導入で、世の中はそうなったのである。
◆ついつい長くなりました。論文にならずとも研究ノートでも、3週間くらいあれば1本書けると思うが、そんな時間はどこにもない。
◆さあ、雑用を。今日は頭から改新を抜かねばならない。
◆考古学から、ヒロ尋は1.5mであることを論証したうえで、モノ申す必要がある。
◆結論は、旧俗廃止の詔に出てくる2尋は、貨幣的な布として3mの(のちの常)布があったんだろう。これが646年時点の現状を示す。しかし同年正月の改新詔では1丈2尺(3.5m弱)、そして4丈の布のところに出てくる幅2.5尺(約74㎝)、これは換算値でなく、既に改新前に唐大尺は入っていて、この数字が原詔そのものだろう。これは、新税制であり、前代までの2尋というものを基礎にしながら、より長いものにこれからしていくとしたもの、こう理解すべき、というのが結論。一致しなくていい。ヒロ尋実長からはそう導ける。
◆ちなみに幅の唐大尺2.5尺(約74㎝)の布幅は、南朝尺の3尺である。南朝尺でいえば、2尋布は、南朝尺12尺(3m)×3尺(75㎝)布だった。それを唐大尺12尺(3.5m弱)×2.5尺(74㎝)にした、ということ。これが天武初年以前に1丈3尺になり常布が成立するということのようだが、これについてもヒトコトあるが、やめておこう。
◆いずれにしても、漢尺23㎝は知られていても、6世紀になると高麗尺が、というのがずいぶん前の知識であり、甘粕先生の明らかにしていた南朝尺25㎝というのが、ほとんど考古学の世界でも顧みられておらず、どこにも出てこない。文献史のYさんが、2尋を考える際、この時期は高麗尺だから、と、あたりまえのようにそっちに行き、25㎝尺など存在が知られていないわけです。しかし、書いているかどうかわかりませんが、Sさんは倭鏡が、漢鏡の5寸とか7寸とか、中国尺によって器物の大きさが説明できるとしているように、墳丘で確認できる中国尺は、墳丘のみならず(墳丘はその歩数)、器物など尺寸で設計されている常用尺になっているのである。断定的に書いたが、やっていないわけで、これ卒論のテーマになりますよ。貢納物であり、また貨幣的に扱われる布の寸法もまた、尺寸で定められたのであり、5世紀第2四半期頃に南朝の1尺25㎝尺の導入で、世の中はそうなったのである。
◆ついつい長くなりました。論文にならずとも研究ノートでも、3週間くらいあれば1本書けると思うが、そんな時間はどこにもない。
◆さあ、雑用を。今日は頭から改新を抜かねばならない。
雑用を
◆いろんなことをさぼっております。今日はちゃんと仕事をしないといけません。やりたいことをやっているわけにはいかない。改新をやってたわけです。というか岩波講座のIさんの論文を自分なりに再構成しようとしておりました。が、これら手をつけていることすべてが、中途半端に終わりそうです。
◆国ー評ーサト五十戸は大化元年から3年くらいだ、ということを学ぶ。基本的に国造のクニをそのまま評にして、さらにそれが649年と653年に調整される。652年戸籍は、戸主を上げたものとして作成されているだろうと。ま、このへんは時間の問題なので、木簡が解決してくれるだろう。改めて論ずることもないわけだが、自分の勉強不足が判明した。
◆それと東国国司の派遣がなぜまず出てくるのか。それは西日本については、基本的に田地は既に把握されているからだろうと思う。人口調査はするが。ひとつ前の記事もあわせ、7世紀前半のあり方が、今後フロンティアの課題になっていくだろう。戸数の把握、50戸単位の区分、それによる新税制、それをまとめた評、さらには坂東八国を考えると、大化のはじめに地方行政制度は出発している。
◆国ー評ーサト五十戸は大化元年から3年くらいだ、ということを学ぶ。基本的に国造のクニをそのまま評にして、さらにそれが649年と653年に調整される。652年戸籍は、戸主を上げたものとして作成されているだろうと。ま、このへんは時間の問題なので、木簡が解決してくれるだろう。改めて論ずることもないわけだが、自分の勉強不足が判明した。
◆それと東国国司の派遣がなぜまず出てくるのか。それは西日本については、基本的に田地は既に把握されているからだろうと思う。人口調査はするが。ひとつ前の記事もあわせ、7世紀前半のあり方が、今後フロンティアの課題になっていくだろう。戸数の把握、50戸単位の区分、それによる新税制、それをまとめた評、さらには坂東八国を考えると、大化のはじめに地方行政制度は出発している。
大山誠一氏の改新論
◆『東アジアの古代文化』の2号分で、必要なところをちぎって保管していたものが発掘され出土。改新論関係の部分。山尾さん、森さん、別号の大山さん。
◆思想的背景+世代差+柔軟性、などで差がありますね。改新を否定的にみる立場は、あくまで天武朝。山尾さんのはひどい。が、ぜんぜんかというと、中央官制・地方統治制度は認める、その一方で、サト編成や戸籍や班田収授は否定する。意見の違いは、サトはやはり改新だろうという点と、1人1人の戸籍は庚午年籍としても、戸数の把握はあったという点。班田が軌道に乗るのは、たしかに持統期にくだるんだろう。面白いのは前期難波宮で、これが長柄豊碕宮だったら全面的に認めるが、これが孝徳期であることをなお疑うという点。大山さんが、この山尾さんの見方を徹底的に批判しています。で、それでいいと思うわけです。
◆森さんも、中間型だが否定論に近い方と表明している。
◆さて大山論。今後はこの方向だと思った。とても刺激に満ちたものだが、もっとも重要な点は推古期のクニーイナギ(県?)をちゃんと評価すべしという新たな「改新否定論」というところ。つまり、孝徳期に一気に進むという面はあるにせよ、前提となる地方支配として、国ーコホリーサト以前に、既に地方行政制度が始まっているという見方だ。これですね。
◆あとは天武万歳説の否定。ヤツはたいしたことない、という話もとても面白かった。
◆『条里制研究』に論文を書いた時も、50戸制の前に30戸制があったことが否定できないようだ、ということは知ったが、それを扱う能力はなく、そのままとしたが、このクニーイナギをどうやって追及するか、これ考古学の大きな課題です。
◆思想的背景+世代差+柔軟性、などで差がありますね。改新を否定的にみる立場は、あくまで天武朝。山尾さんのはひどい。が、ぜんぜんかというと、中央官制・地方統治制度は認める、その一方で、サト編成や戸籍や班田収授は否定する。意見の違いは、サトはやはり改新だろうという点と、1人1人の戸籍は庚午年籍としても、戸数の把握はあったという点。班田が軌道に乗るのは、たしかに持統期にくだるんだろう。面白いのは前期難波宮で、これが長柄豊碕宮だったら全面的に認めるが、これが孝徳期であることをなお疑うという点。大山さんが、この山尾さんの見方を徹底的に批判しています。で、それでいいと思うわけです。
◆森さんも、中間型だが否定論に近い方と表明している。
◆さて大山論。今後はこの方向だと思った。とても刺激に満ちたものだが、もっとも重要な点は推古期のクニーイナギ(県?)をちゃんと評価すべしという新たな「改新否定論」というところ。つまり、孝徳期に一気に進むという面はあるにせよ、前提となる地方支配として、国ーコホリーサト以前に、既に地方行政制度が始まっているという見方だ。これですね。
◆あとは天武万歳説の否定。ヤツはたいしたことない、という話もとても面白かった。
◆『条里制研究』に論文を書いた時も、50戸制の前に30戸制があったことが否定できないようだ、ということは知ったが、それを扱う能力はなく、そのままとしたが、このクニーイナギをどうやって追及するか、これ考古学の大きな課題です。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。