人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
応神元年は390年
◆応神3年に百済アカ王(即位392)の記事、応神8年分註に百済王子直支の来倭(397年)の記事、応神16年に百済アカ王の死没(405)の記事があり、これらは応神元年を390年として配列している。これは堅い。元年というのは重要だろうと思いますね~。そうですか、ホムダワケ即位年は記紀編纂者は390年としているんですか、そうみたいですね、でもそれが正しいんですか?、とうそぶくことは可能。そこから先を読み取ろうとはしない懐疑派はほっときましょう。応神元年は390年に設定してある、これは事実。次にそれは架空じゃなかろうと。日本書紀のタテマエでは、応神在位は270から310年です。なぜそこに、例えば応神3年条に392年の記事を入れるのでしょうか。そこが392年だから、でしょう。で、それは392年ではあるが、応神3年のことだったというのはウソなのでしょうか。そうでもないと思いますよ。
◆応神元年は河内王朝にとって重要な年です。やはり390年ではないのかな。前年に宇治市街遺跡の木が伐採されている。まあ晩年にようやっとクーデタを敢行したと、こっちは思っているわけです。むろん、それよりも4世紀後半に、河内で活躍していたことが重要なわけで、そこに佐紀から河内政権への準備期間があったという面が考古学的には大事なんでしょう。
◆ところで須恵器の年代なんですが、TG232があって、中期はじめにはまだない段階があると。だからTG232が4世紀末で、中期のはじめは4世紀後半だと。しかし、擦り合わせはできないだろうか。中期≒須恵器でもいいのんとちゃうかな。須恵器は400年以降だと書いたことと齟齬をきたしてしまうが。なんかそのへんが答のようにも思うのである。つまり4世紀後葉が中期であり、ほとんどイコール陶質土器も生まれている可能性である。
◆応神元年は河内王朝にとって重要な年です。やはり390年ではないのかな。前年に宇治市街遺跡の木が伐採されている。まあ晩年にようやっとクーデタを敢行したと、こっちは思っているわけです。むろん、それよりも4世紀後半に、河内で活躍していたことが重要なわけで、そこに佐紀から河内政権への準備期間があったという面が考古学的には大事なんでしょう。
◆ところで須恵器の年代なんですが、TG232があって、中期はじめにはまだない段階があると。だからTG232が4世紀末で、中期のはじめは4世紀後半だと。しかし、擦り合わせはできないだろうか。中期≒須恵器でもいいのんとちゃうかな。須恵器は400年以降だと書いたことと齟齬をきたしてしまうが。なんかそのへんが答のようにも思うのである。つまり4世紀後葉が中期であり、ほとんどイコール陶質土器も生まれている可能性である。
最大の前方後円墳が王墓なのか
◆キサキ墓は考えないといけないわけだが、おそらく王墓のような制度的なものはないだろう。ヒバス媛は丹後に帰葬しているはず。埴輪の伝承や石作り伝承はたぶん垂仁の頃のこととして伝承されていると考えてよいと思うし、それが佐紀陵山古墳に結びつけられているというのも、あたっているのではないかと思う。が、それが倭彦であったり、ヒバスヒメの墓のことかというと、そうではないのではないか。陵山古墳から甲冑片が出ていないもんかね~。陵山相似墳のあり方からすると、きわめて政治的・軍略的な関係構築を推進した人物像となる。そうした考古学の立場からすると、被葬者が女性であるとは考えにくいのである。
◆それはそれとして、王墓は最大の前方後円墳でないといかんのかと、どこかで聞いたようなフレーズ。こっちとしては自明なので、とくに書いていない。それはあかんわな。どこかで考えは明記しておく必要がある。最大規模墳でなければならないんです。造山だって260歩であって、ミサンザイの280歩よりは小さいのです。それを越えようとするならつぶされるであろう。それが前方後円墳共有システムである。そうした前方後円墳のあり方からすれば、王墓はなにも大きくなくていい、という論理は考えにくい。
◆それはそれとして、王墓は最大の前方後円墳でないといかんのかと、どこかで聞いたようなフレーズ。こっちとしては自明なので、とくに書いていない。それはあかんわな。どこかで考えは明記しておく必要がある。最大規模墳でなければならないんです。造山だって260歩であって、ミサンザイの280歩よりは小さいのです。それを越えようとするならつぶされるであろう。それが前方後円墳共有システムである。そうした前方後円墳のあり方からすれば、王墓はなにも大きくなくていい、という論理は考えにくい。
本質的な問題
◆キサキ墓のことなんです。ほんまに2人の王がいるんか、という見方に対して、キサキ墓はどうなんか、佐紀寺間陵はどうなるねんと。古事記に陵名があり、むろん日本書紀でもヒバス媛の墓造りのことが書いてあり、帝紀の記述と見られているようです。否定できないんと違うか?、と。まあそうです、そういう突っ込みには弱い。手白香の西山塚はまあ認めてよく、大后墓が継体段階には確実にあるが、それ以前はないんだという積極的な理由も確かにない。
◆が、まあキサキ墓の記述があるのは、ヒバスと、ナカツヒメ(どっかにあったように思うが確認すると探し出せない)と、イワノヒメ(ナラ山)くらい。崇神妃ミマキヒメなし。景行妃イナヒノオオイラツメなし。景行妃ヤサカノイリヒメなし。日本武尊妃フタジノイリヒメなし。履中妃クロヒメなし。允恭妃オシサカノオオナカツヒメなし。安康妃なし。雄略妃カラヒメなし。顕宗妃ナニワノミコなし。仁賢妃カスガノオオイラツメなし。むろん、手白香以降だって記事はないから、キサキのなかでも国母となった者の墓を、王墓に準じた規模の前方後円墳に葬るものの、とくに陵墓名や造墓記事がなくても、それは一緒と言われてしまうのだろう。まあしかし、延喜式の祭祀対象はイワノヒメだけで、ヒバスもナカツヒメも表れないんですよ。
◆このへんは古代の婚姻関係や、キサキの地位の確立の話などとかかわり、手に負えない。が、一般的には、キサキ部とか壬生部というものの成立はそう古くない。そうした地位を占めないのに、佐紀陵山古墳という200m級の前方後円墳に、丹後出身のヒバス媛が葬られる、ということは考えにくいのではないか。やはり古い段階では帰葬と考えられるだろう。で、その帰葬という根拠はあるのか。中司さんの「つどい」の記事を読んだことがあるが、取っておかなかったか。調べてみよう。
◆が、まあキサキ墓の記述があるのは、ヒバスと、ナカツヒメ(どっかにあったように思うが確認すると探し出せない)と、イワノヒメ(ナラ山)くらい。崇神妃ミマキヒメなし。景行妃イナヒノオオイラツメなし。景行妃ヤサカノイリヒメなし。日本武尊妃フタジノイリヒメなし。履中妃クロヒメなし。允恭妃オシサカノオオナカツヒメなし。安康妃なし。雄略妃カラヒメなし。顕宗妃ナニワノミコなし。仁賢妃カスガノオオイラツメなし。むろん、手白香以降だって記事はないから、キサキのなかでも国母となった者の墓を、王墓に準じた規模の前方後円墳に葬るものの、とくに陵墓名や造墓記事がなくても、それは一緒と言われてしまうのだろう。まあしかし、延喜式の祭祀対象はイワノヒメだけで、ヒバスもナカツヒメも表れないんですよ。
◆このへんは古代の婚姻関係や、キサキの地位の確立の話などとかかわり、手に負えない。が、一般的には、キサキ部とか壬生部というものの成立はそう古くない。そうした地位を占めないのに、佐紀陵山古墳という200m級の前方後円墳に、丹後出身のヒバス媛が葬られる、ということは考えにくいのではないか。やはり古い段階では帰葬と考えられるだろう。で、その帰葬という根拠はあるのか。中司さんの「つどい」の記事を読んだことがあるが、取っておかなかったか。調べてみよう。
博論関係も終わりそう
◆直しの作業を行い、打ち出し、複製を作り、本日この2通を製本屋に出す。それとともにPDFでも提出しないといけないので、昨日来、その作業をしている。100メガ以内に収めよとのこと、できるだけファイルサイズを縮小して、それでもダメなら複数ファイルでも良いと。やっていると、軽く200メガを越えてきたので、図面のデータをフォトショに置き換えて、なんとかそれぞれ容量を減らし、全体で100メガ以内に持ち込む作業を、本日ここまでかかってやった。いまアクロバット君が統合作業をやっている。
◆これらを提出してしまえば、尾張。あとは結果待ち。ようやっとここまでたどりついた。
◆この3連休は大阪城の石垣の原稿。それと、昨日だったか、センター試験の説明会が14時というので会場に向かうと、同僚がおり、関係書類をもっている。おや、オレんとこには来てないけど、と言うと、年末には入っていたと。そして従事者名を見たら、名前はなかったですよ、と。ラッキー。日本史から2人ということでオレも1人として届け出たわけですが、なぜだか免除になったらしい。これでセンター試験の2日間も使える。しめしめ。そこでなんとかコウケンの報告要旨をでっちあげてしまおう。そのためには漢鏡7期について、ある程度メドをつけとかないとイカン。さいわいなことに、2日与えられたので、これもなんとかなるかもね~。
◆これらを提出してしまえば、尾張。あとは結果待ち。ようやっとここまでたどりついた。
◆この3連休は大阪城の石垣の原稿。それと、昨日だったか、センター試験の説明会が14時というので会場に向かうと、同僚がおり、関係書類をもっている。おや、オレんとこには来てないけど、と言うと、年末には入っていたと。そして従事者名を見たら、名前はなかったですよ、と。ラッキー。日本史から2人ということでオレも1人として届け出たわけですが、なぜだか免除になったらしい。これでセンター試験の2日間も使える。しめしめ。そこでなんとかコウケンの報告要旨をでっちあげてしまおう。そのためには漢鏡7期について、ある程度メドをつけとかないとイカン。さいわいなことに、2日与えられたので、これもなんとかなるかもね~。
つづき
◆日本書紀編纂にあたって、神武即位を紀元前660年にすべく水増しはしているわけだが、しかし景初3年は正しく239年に位置づけている。まずはそう認められる。日本書紀という編年体史書の建前からすれば、神功摂政は201~269年に位置付けていることになる。
◆次に、神功摂政期間を何年にするのか、その元年をどこにおくのか、とにかく水増しして最終的に紀元前660年が実現すればいい、といったものなのかどうか。神功元年は181年でもいいし、221年相当でもいい。魏志倭人伝を知っていれば、神功元年が181年なら、景初3年の記事は、神功59年に配置する。神功元年を221年としているなら、景初3年の記事は神功19年に配置することになる。神功元年が201年になっていることが偶然の産物、タマタマなんだとみるならそれまで。
◆がそうじゃないだろう。まずは、垂仁でも景行でも仲哀でもなく、神功摂政期間のなかに景初3年の記事が入っている。それとともに、神功摂政期間が201年から269年に配置することは、計算されて案分されているのではないか。そうかいな、ほんまかいな、とここで意見が分かれよう。
◆一方、初代倭国王が卑弥呼であったことは確実にわかっており、その在位期間も伝承されていたんだろうが、日本書紀編纂時にそれは消し去られる。それを考慮すれば、やはり神功像の一面に卑弥呼が投影されている可能性があるんではないか。その神功の元年が181年でも191年でもなく211年でもなく221年でもなく、201年に設定されている意味はあるんではないかな。
◆201年といえば、そうですよね、卑弥呼共立年なんとちゃうんか、というのがわたしの推測です。神功なんかを間におきつつ欠史8代なんかも入れて、それぞれを案分し、たまたま神功摂政期間とした実年代のなかに239年があたってきて、それに相当する神功39年条に景初3年の記事を置いたにすぎない、とは思えないわけです。
◆繰り返しますが、これは本質的な話ではありません。
◆次に、神功摂政期間を何年にするのか、その元年をどこにおくのか、とにかく水増しして最終的に紀元前660年が実現すればいい、といったものなのかどうか。神功元年は181年でもいいし、221年相当でもいい。魏志倭人伝を知っていれば、神功元年が181年なら、景初3年の記事は、神功59年に配置する。神功元年を221年としているなら、景初3年の記事は神功19年に配置することになる。神功元年が201年になっていることが偶然の産物、タマタマなんだとみるならそれまで。
◆がそうじゃないだろう。まずは、垂仁でも景行でも仲哀でもなく、神功摂政期間のなかに景初3年の記事が入っている。それとともに、神功摂政期間が201年から269年に配置することは、計算されて案分されているのではないか。そうかいな、ほんまかいな、とここで意見が分かれよう。
◆一方、初代倭国王が卑弥呼であったことは確実にわかっており、その在位期間も伝承されていたんだろうが、日本書紀編纂時にそれは消し去られる。それを考慮すれば、やはり神功像の一面に卑弥呼が投影されている可能性があるんではないか。その神功の元年が181年でも191年でもなく211年でもなく221年でもなく、201年に設定されている意味はあるんではないかな。
◆201年といえば、そうですよね、卑弥呼共立年なんとちゃうんか、というのがわたしの推測です。神功なんかを間におきつつ欠史8代なんかも入れて、それぞれを案分し、たまたま神功摂政期間とした実年代のなかに239年があたってきて、それに相当する神功39年条に景初3年の記事を置いたにすぎない、とは思えないわけです。
◆繰り返しますが、これは本質的な話ではありません。
博論口頭試問おわる
◆表題の通り。さまざまなご指摘をいただき、本の原稿に整える際に、いろいろと留意せねばならない。仕事とはいえ、時間を取って読んでいただいた審査の先生方に感謝したい。やはり古代史の側から、かなり批判的な意見を受ける。そう言われてもしゃーないことはむろんある。ひばすの佐紀寺間陵のこととか。が、相容れないな~と思うところも多多。
◆そのひとつ。例えば卑弥呼即位は201ではないか、と。そうは思っていても、そこは断定的にはいけないわけで、最初は註に書いていたことが、最後には本文に括弧で入れているとか、こっちも一定の節度が必要だ。がまあ、これはおまけみたいなもんで、別に話の根幹なわけではない。でもまあ、そういうことを書いてくることに対しては、やはり突っ込みが来るわけである。
(1)まず、考古学的に卑弥呼の即位が何年であろうが、2世紀末から3世紀はじめくらいで、考古学の事象を考える上ではでよく、実際の議論もそれくらいで2世紀と3世紀の変化をとらえていくということができるくらいで、別に影響はない。が、即位年は実際には歴史上は起こっているのであり、わかるもんなら知りたいのである。応神の即位年もわかるなら知りたいのである。これはこれで好太王碑との関係でいけば、もっとリアルに知りたいところ。まずは、そういう志向性が自分にはある。ない人にはまったく関係がない。
(2)で、神功39年条に景初3年の記事があるわけだ。神功40年条に正始元年のことが書いてある。神功43年条に正始4年のことが書いてある(それでよかったっけか)。で、神功66年条に倭女王が晋に朝貢したことが書いてある。言っときますが、日本書紀はあくまで神功紀は3世紀前半から半ば過ぎのこととして書いてあるというのがタテマエ。しかしそこには4世紀後半の事象も書いてあって、書いてあることは120年あとの4世紀後半のことですよ~という表明があって応神紀へとつながる。
(3)で、魏志倭人伝を知ってれば、正しい間隔で日本書紀紀年に上に配列することは可能であって、それはどこにでも入りうる(実際はそうではないが)。重要なのは、日本書紀紀年の神功39年とは、持統からず~と紀年通りにさかのぼっていけば、西暦239年になるという事実である。そこに景初3年の記事、すなわち西暦239年の事象が正しく配置されているわけだ。晋書に265の晋建国の翌年の266年にに倭国は使者を送ったわけだが、それを配列する神功66年は、日本書紀紀年でいえば266年になるということだ。
◆長くなるので、改める。
◆そのひとつ。例えば卑弥呼即位は201ではないか、と。そうは思っていても、そこは断定的にはいけないわけで、最初は註に書いていたことが、最後には本文に括弧で入れているとか、こっちも一定の節度が必要だ。がまあ、これはおまけみたいなもんで、別に話の根幹なわけではない。でもまあ、そういうことを書いてくることに対しては、やはり突っ込みが来るわけである。
(1)まず、考古学的に卑弥呼の即位が何年であろうが、2世紀末から3世紀はじめくらいで、考古学の事象を考える上ではでよく、実際の議論もそれくらいで2世紀と3世紀の変化をとらえていくということができるくらいで、別に影響はない。が、即位年は実際には歴史上は起こっているのであり、わかるもんなら知りたいのである。応神の即位年もわかるなら知りたいのである。これはこれで好太王碑との関係でいけば、もっとリアルに知りたいところ。まずは、そういう志向性が自分にはある。ない人にはまったく関係がない。
(2)で、神功39年条に景初3年の記事があるわけだ。神功40年条に正始元年のことが書いてある。神功43年条に正始4年のことが書いてある(それでよかったっけか)。で、神功66年条に倭女王が晋に朝貢したことが書いてある。言っときますが、日本書紀はあくまで神功紀は3世紀前半から半ば過ぎのこととして書いてあるというのがタテマエ。しかしそこには4世紀後半の事象も書いてあって、書いてあることは120年あとの4世紀後半のことですよ~という表明があって応神紀へとつながる。
(3)で、魏志倭人伝を知ってれば、正しい間隔で日本書紀紀年に上に配列することは可能であって、それはどこにでも入りうる(実際はそうではないが)。重要なのは、日本書紀紀年の神功39年とは、持統からず~と紀年通りにさかのぼっていけば、西暦239年になるという事実である。そこに景初3年の記事、すなわち西暦239年の事象が正しく配置されているわけだ。晋書に265の晋建国の翌年の266年にに倭国は使者を送ったわけだが、それを配列する神功66年は、日本書紀紀年でいえば266年になるということだ。
◆長くなるので、改める。
2015年を考えよう
◆5日9:00ちょうど、出勤しました。カレンダー通り。2015年の始動である。7日にむけて準備をしつつ、今年の課題を整理したいと思います。
12月29日 一息つこう
◆17時、研究室。今日は息子と娘が帰ってくる。国分では店が限られるので、八剣伝くらいしかないが、呑みに行こうか、と。娘も20才になり、法的に問題なくなりました。で、22:30に関空着なので、迎えに行く予定。
◆大阪城の原稿の段取りをして、シラバスを入力した。博物館科目を点検したら、ぜんぜん入っておらず、よく見ると、今年度のものが反映されておらず、いちから入力しなければならない。これは萎えますよね。なので、5人の非常勤の先生方が未入力なんだろうと。なので、スキャンしてOCRでテキスト化して、こっちで入れました。そんでもって1月4日までに必ず確定してくださいとメールし、一息ついております。さて、修論の原稿を見るか・・・
【追記】そのあとも大阪城の原稿の割り付けがぜんぜん違うことが判明し、やり直すなど、雑多なことをやり、いま21:20。今年の仕事はここまでとします。
◆大阪城の原稿の段取りをして、シラバスを入力した。博物館科目を点検したら、ぜんぜん入っておらず、よく見ると、今年度のものが反映されておらず、いちから入力しなければならない。これは萎えますよね。なので、5人の非常勤の先生方が未入力なんだろうと。なので、スキャンしてOCRでテキスト化して、こっちで入れました。そんでもって1月4日までに必ず確定してくださいとメールし、一息ついております。さて、修論の原稿を見るか・・・
【追記】そのあとも大阪城の原稿の割り付けがぜんぜん違うことが判明し、やり直すなど、雑多なことをやり、いま21:20。今年の仕事はここまでとします。
学校教育法改悪にともなう規則の改定
◆学長がすべて決めるとか。学部は意見をのべるだけ。それにともない、学則やら研究科の規則やら、すべて改訂作業が行われる。法令的には学部の自治権限は取り上げられる。教育委員会とまったく同じ構図である。
◆うちの場合、来年4月から、教員組織としてはなんたら研究院となり、人事等は研究院会議、学生院生にかかわることは研究科教授会なんだとか。こういうの、教員組織に対し、同じ教員が教育組織のいくつかにかかわるという場合は、所属と職務で2つありえるわけだが、文学部・文学研究科の場合はこれまでと変わりはないので、分ける意味はない。これから○○会議を始めます、終わります。これから△△会議を始めます・・・、という虚しい区分け。
◆うちの場合、来年4月から、教員組織としてはなんたら研究院となり、人事等は研究院会議、学生院生にかかわることは研究科教授会なんだとか。こういうの、教員組織に対し、同じ教員が教育組織のいくつかにかかわるという場合は、所属と職務で2つありえるわけだが、文学部・文学研究科の場合はこれまでと変わりはないので、分ける意味はない。これから○○会議を始めます、終わります。これから△△会議を始めます・・・、という虚しい区分け。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(06/22)
(06/22)
(06/22)
(06/22)
(06/22)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。