人を幸せにする人になろう

デジタル印刷

◆しばらく前のニュースでした。いまは本式の製版をしなくても、PCで組んだそのままのデジタル印刷が、印刷業界としてはノビシロで、機械も進歩し、実に簡易になっているとか。チラシとかだけでなく、ちゃんとした本だって、鮮明な写真とか線描の細かい図面とかが要求される専門的なものをのぞけば、十分という時代がくるんでしょうね。

宇治・太閤堤

◆手元に2012年のパンフレットがあるが、いや、すごいもんですね。また全体像がよくわかるし、 今後の活用方策まで示してある。いま遺構を地下保存しながら上に展示するための忠実なレプリカの作成が進んでいると聞き及んでいる。型取りと3次元計測を併用するのだそうだ。

もひとつ普及本

◆おおさかの歴史文化の研究拠点を大阪市大に!、という提言書をまとめました。が、その契機と なった上層部の要求に沿わないもので、要求した考古にかかわるメモをちゃんと出せと言われていたのですが、出さずじまい。で昨日6日、金曜日の将来構想委員会で議論されたはずです。オレの提言書はそもそも俎上に載ったかどうかも不明。
◆でもね、橋下市長がどうであれ、いまの学長がどうであれ、大阪市大として、文系は文系で、大阪に即した人文的研究を、専任教員として副専攻としてやれることをやれ、といったことは前からやるべきだと思い、教授会でも発言してきました。これはいい機会と、提言書にまとめたわけです。結果は知らない。取り上げられなかったとしても、あきらめることなく言い続けることと、そこに盛り込んだことで、やれることはやろうかなと。それが普及本なんです。
◆考古学で言うと、新泉社の《シリーズ遺跡を学ぶ》みたいなやつ。大阪砲兵工廠でも川口居留地でも、木村ケンカ堂でも、むろん難波宮でも、A5、フルカラー本文90頁まで、平易に、というコンセプト。頒価できれば1000円。よくまとまっていて1000円ならペイするだろう。で出版社を巻き込んでと、そう考えたりするわけです。
◆事業認定されれば、やるけどな。そうでなくともと思ったりもしますが、実際にやるのはしんどいでしょうね。が、博学連携事業に載せて出発するという筋道はありうるかもしれない、とかかんとか、考えたりしております。そのうち、そのうち、「あ、定年だ」。
[追記]ちなみに提言書に書いたのは、専任教員の兼務では無理だ、マンパワーが足りない、そこは金ですよ、と。そして専任のやるべき主務はマネージメントだ、と。

素人による考古学の3次元計測

◆手元に『文化財のための三次元計測』と『文化財の壺』創刊号があります。3次元計測とは無縁ではなく、どちらかというと(おこがましいですが)実践組なんでしょうけど、自分で処理できるわけでもなく、外注組です。前にも書いたかも知れませんが、(1)すべて自分でやる>(2)計測は外注し自分でデータを処理する>(3)計測は自分でやり加工を外注する>(4)金を取ってきて計測・加工を委託する、という最後のところに属しているわけです。
◆機器も高いし、ソフトも高い、とはいえ最先端を行かなければ、機器も手が届くものもあるかもしれませんし、基礎的なソフトはフリーでもあるのかもしれません。そんなのもチンプンカンプンです。が興味はある。
◆わたしの出発点は遺跡の方で、赤坂天王山の石室陰影図を見せてもらうことがあり、石室研究はこれだ、と思い、その後、牧野・谷首・文殊院西とやってきたわけです。遺物の世界は、和歌山大学工学部のところで、うちの土器片やら石器を持ち込んで計測したことがあります。それっきりですが、芝が原の鏡と銅釧は続けてやりたいなと。これ機器を摂南大学工学部が購入していて、気軽にやってくれるので、いつでもOKなのですが、踏み出せていない。30ミクロンで、手ずれ→伝世鏡の証明、というのを目論んでいるわけです。現在は、大阪府の鏡、200面を撮影してきて、あと10数面のままストップしているのですが、この機械を車に積んで行脚して、大阪府の鏡の図録、ぜんぶ陰影図を添えてやるかな、とも思ったりする今日この頃です。頁数倍増、自腹の出版費もふくらむと、さてと・・・。
◆こないだ聞いたところでは、いまレーザーなどで計測せずとも写真からデジタル化する技術が急速にのびているらしい。これがトレンドだそうです。で、東北の復興調査では、掘り上がると撮影して終了。図化は内業でOKということのようです。
◆考え方はいろいろでしょうが、大学で考古学実習をやっていて、土器の図化をやるのですが、図化は理解の上で必要だと思ってますが、その計測作業が簡易で正確なら、三角定規を立てる必要はありませんよね。屋外作業でも、もう平板を持ち出すことはないわけです。基礎は必要だが、自分らが身につけたことは彼らには時代遅れということです。むろん、現場というのがある。現実に市町村でやっている世界は、方眼紙に図面を書くし、三角定規を立てて土器の実測はすると。そのへん、実習をどうするかは現実問題としてある。
◆いや、実は書き出しにあるように、オレは多少かじっているのだけど、まったく専門ではないし、専門になるつもりも今はない。だから、その立場から、自分の勉強として、あるいは具体の研究に即してこうできないかとか、こんなんできますよとか、そういう面の紹介はできるかなと。要するにつなぎ。それで、役に立つかどうかはわからないけど、身近の世界での発信をやってもいいかなと、こないだフト思ったわけです。《素人による考古学の3次元計測》とか。イメージはA4で2枚くらいで1話題、くらいで書き継いでいく、それをHPで公開するというものなんですが・・・。そのうち、そのうち。あれ、定年や、ということになるかもしれません。

大阪市の展示施設

◆今年もまた、《難波宮と大化改新》Ⅱをやることになりました。わたしは、河内の古道や条里や 国・評・五十戸でやる、と宣言。あと2~3本立てて企画案をまとめなければなりません。大阪歴博の難波宮展で、うちの山根徳太郎がもらった難波宮瓦が借り出されて行きました。さらに豊臣石垣公開事業の打ち合わせもしました。なにかと、いろいろあるものです。
◆その時にもらったパンフレットがこれです。やはり古墳時代以来の港湾拠点であり、近世以降の大都市で、いろんな歴史遺産があり、45頁のボリュームになる。それと、いろんなところに考古資料を展示していることがわかった。こんなん、ぜんぜん知りませんでした。1日かけて、ぜんぶまわってもよいかもしれません。区民センターとか、それぞれのところの人々が集まる場所に考古資料がならぶのはとてもいいことだ。が、存在情報がほとんどないように思う。たとえば大阪歴博に行けば、そういう展示施設が案内されているんだろうか。そこの住人で知ってる人は知ってるというのから、すこし歩を進めてほしいと思う。

城陽市下水主(しもみずし)遺跡を見てきました

◆眠い。市大文系のあるプロジェクト案の作成のため、考古にかかわるメモを求められ、こちらと しては考古ではね~、と思いつつ、依頼内容とは異なる年来の構想をまとめたペーパーを、昨晩、3時半まで書いてたもんで。
◆朝、城陽に向かう。9:30前には現地。庄内期の船入遺構というのでしょうか。木津川バタで、そこに流れ込む流路を利用しつつ、護岸をした溜まりを造成したらしい遺構である。どこまで引き込んでいるか、興味のあるところですね。
◆第2京阪と京奈和の連絡道なんだったか、これからの第2名神含め、南山城地域での発掘が続きそうである。現地説明会は5月11日に実施、新聞報道は京都方面にとどまっていたようです。

風力発電は原子力発電に追いついている

◆朝日土曜beに載っていた記事に付されたグラフ。

ベルギーの旅(29)旅の終わり

◆いろんなメモもあったのですが、どこか行ってしまいました 。出てきたら、記事を追加するかも  知れません。翌日5月9日、朝はさて何時だったか、ブリュッセルの空港に向かう。そこからアムステルダム・スキポール。ラーメン店と寿司屋があり、けっこう人気ですよ。われわれもラーメンを食べる。
◆そしてオランダ航空で帰国の途に。翌5月10日朝、関空に着きました。関空の南海ホームで、赤のラピートを見ました。
◆そして、ベルギーでだいたい終わっていた『市大日本史』の校正を、この日、最終確認し、最後の直しを指示して、一区切りとなりました。

ベルギーの旅(28)

◆博物館見学後、ホテルに戻る。だいたいの方向感覚で、適当に(地図はありますが)。工事中の 最高裁判所がランドマークとなっており、それの北側を通るように北西に向かえば到着できるはずだ。ブリュッセル南駅から中央駅方向への鉄道が北東に貫通しているので、そこを越えないようにして、線路にぶつかれば、その南辺沿いを西に向かえば到着できるはず。
◆途中、城壁を発見。これガイドブックにはない。これは内城ののものということになるんでしょうね。どれくらい現在の市街地の中で保存されているのか知らないが、ほぼなさそうなので、これ貴重ではないだろうか。が、とくに看板とかもないようである。これは現市街地の一画の内側にあって、城壁の向こう側にまわれば、外観が見えるかと思いきや、新しい道路と建物で、表通りからはまったく見えない。ひっそりと残っているものらしい。
◆無事帰り着き、荷造りして帰国に備える。

ベルギーの旅(27)

◆グランプレイスの博物館。ブリュッセルの歴史を示す博物館としてはここくらいのよう。旧の建 物の利用なので、4階に区切られ、使い勝手はよくないだろう。ブリュッセ ルの歴史としても、いっぱい示すものはあるだろ   うが。それでも、古地図とか絵図とか模型とか、そんなのを眺めているだけでも、都市としての発展をなんとかたどることができる。古い絵図的な地図では、旧市街も内郭と外郭があったことがわかる。元はより狭い範囲で出発し、その後、拡張したんでしょうね。
◆それとグランプレイスは低く、王宮は高いのだが、それが地形図でよくわかった。出発は河川交通上の交易地といったところなのかもしれません。それが都市的発展の中で斜面を上がっていったらしい。
◆そして年代を見たのだが覚えてないが18世紀だったか、もうちょっと古かったか、いわゆる稜角式の城郭として整備された姿を見る。ネーデルランド時代で、戦乱が耐えなかった頃なんでしょうね。たぶん。
◆展示のところに解説用シートがはさんであり、手にとって読むようになっている。よく理解できなかったが、どうやら、展示にあわせて固定の解説パネルはベルギー南北の公用語で書いてあり、それ以外の英語・ドイツ語のやつを、こういう形で示すようにしているらしい。なーるほど。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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