人を幸せにする人になろう

条里地割は代制で施行

◆3日の研究会では、前半は中学生にもわかるように、条里制研究の現在をまとめる。後半は郷(里)は領域であるという話にする予定。後半は、だいぶ原稿を書いてきていたが、なくなったので、かなり古い時期の打ち出しを、昨晩、娘に再入力してもらった。でも、この調子だと、まったく準備不十分で突入だろう。
◆前半部だが、要するに高麗尺50歩四方(のちの1町)+畦や水路の減歩分約3mを取って109mで割った。あるいは結果的に109mとなった。なので、町段歩制の前に代はあっても、それに相当する106m四方の区画はないとされているが、条里そのものなのですよ、これが。単に大宝令で町段歩制に変えたにすぎない。
◆これは条里7世紀説だが、説ではなく事実。井上さんの平城京以前の論証はまったく妥当。それだけじゃない、ちゃんと長原と池島・福万寺の事例をふまえるべし。静清条里も。埼玉の条里だって7末。畿内は7世紀中頃だろう。要するに大化の改新。中央大豪族で、畿内にも私有地をたくさんもつ蘇我を排除しなければ公地化なんて無理。+奈良盆地内部などでは、7世紀初頭あるいは6世紀後半くらいまでは視野に入れておくべき。

用明推古立入りの準備と事後に考えたこと

◆※蘇我稲目(532-570)→前方後円墳と考えるのは普通だろう
五条野丸山+どれか(梅山が檜隈陵とよばれている以上、稲目墓ではない)

(0)平石谷でシシヨ塚の築造開始→埋葬はTK43期
(1)585敏達没・用明即位(大兄なので順当か)
(2)用明大王+彦人大兄
(3)敏達の平田梅山埋葬 蘇我の反対 前方後円墳の停廃も 物部との対立
(4)彦人、牧野築造開始? 新規の前方後円墳築造規制は決定事項か?
(5)587用明没→物部戦争へ 彦人即位をめぐる争い 彦人失脚
(6)崇峻即位
(7)前方後円墳の停廃決定 敏達没・彦人失脚・物部排除により可能に
(8)用明陵・崇峻陵の方墳築造へ(同時進行)+植山竹田墓も
(9)591、敏達の石姫墓への追葬
(10)592、崇峻暗殺、推古即位
(11)593、厩戸摂政、用明改葬
(12)推古陵・厩戸墓の造営
◆即位後、倭国王墓の造営に進むのが原則ということからすると、590年代に推古の石室が造営されておかしくない。
◆普通に考えれば、南向き斜面に地割りをし、石室の位置を定め、下半部の墓壙を掘り込み、周囲を区画するとともに、それで盛土をしながら石室の構築を完成させる。竹田は没後造墓であろうから、方墳としての体裁を整えて埋葬儀礼が行われたはずである。没年ははっきりしないが、590年前後のことと推測する。
◆592年に推古が即位する。大王にふさわしい墓を造るのが原則だが、推古は竹田との合葬をのぞむ。そこで、植山古墳の推古陵としての増築となる。ふつうに考えれば、西側への拡張にともない、溝を掘り直すとともに、石室の墓壙を掘削し、石室構築に着手したはずだ。あるいは、竹田墓としての造営段階から、将来の合葬を希望し長方形としていたか。
◆西石室の年代的位置を改めて確認する必要があるが、たぶん590年代には完成していておかしくないのではないだろうか。日本書紀では晩年のところに記されているが、628年の前はすっかり切石の時代に入っていることは確実である。竹田との合葬の意志は、植山古墳の発掘状況からすると、竹田没時点からとも考えられる

ついに条里

◆3月3日、和泉市史テーマ叙述編の準備研究会で条里の話をせにゃならん。実は、大学院入試の最終日、2月17日に電車の中で筆箱を置き忘れ、USBを失いました。またしても・・・。だいぶ、条里の原稿は書いてきたのだが、一からやり直し。もはや原稿を書いている場合でないので、レジュメで。火曜日まではめいいっぱい仕事があり、今日29日から3日間が勝負である。さあ、やろ。

狐井城山は顕宗陵か

◆白石先生は狐井城山古墳は顕宗陵と考えておられることを知る。そういえば、オレも前に、狐井城山は考えなアカンという記事を書いた覚えはある。そこで奈良県の前方後円墳集成を見たけれど、堤は後世のもので、周辺に長持形石棺材なんかがあって、時期が5末と特定できるのかどうか、やや問題はありそうだが、調べてみる必要がありそうだ。城として利用されて変形が大きいようだが、再度、現地に行くべし!。
【追記】白石先生に『近つ館報』14を送っていただいた。これに狐井城山のことに言及してある。ありがとうございます!

26日、史遊会百舌鳥古市シンポ

◆パワポは、半分を25日までに作り、京都から戻って寝たあと、1時頃に起きて朝までやっていた。それから大学864b44a6.jpgに行き、3時間、入試の採点をしてから、12時に大学を出て13時前にLICはびきのに到着。
◆今回は失敗。詰めすぎで時間がなかった。立派なホールで、観客の顔が見えないのもやりにくい。反応を見ながらの方がやりやすく、スポットを浴びると、観客は暗くて見えないのである。
◆まあ、ご愛敬ということで、お許しを。終了後、白石先生ご夫妻、細見さん、天野さんとで食事。みな、車なので、またまたノンアルコール。そこで白石先生に、いろいろ話をうかがう。
◆天野さんからも、生前造墓の根拠を聞かれ、改めて出発点の議論として、寿陵論をまとめておく必要があると強く感じた。それがないと、オレの話は成り立たないわけだ。そんなんしかし、死んでから大仙を造っていると、死骸もあとかたもなくなるだろうに。それと、モガリは死んだのが春先ならその年の冬に、夏場以降なら翌年の冬にという、つまりモガリ期間の基本はせいぜい1.5年ということも、ほとんど考慮されていないことになる。まあ、書くことです。

2012年の春

◆春めいてきましたね。今年の春。こないだ、18日、あちこち雪になったが、翌日の19日から、なにやら太陽が暖かく、春を実感した。2012年の春は2月19日に始まった。

2月24日、はずされた千足の石障とご対面

◆喜志駅で飲み会、が、車なのでオールフリーで。帰ってバタンと寝る。朝、起きたら、7:00、あかん、遅れる。岡山駅9:30の約束。7:17の準急で、新大阪発8;21、無事、9:07に到着。新幹線は速いね~。2月14日に委員会が開催されたのだが、卒論試問の日で欠席せざるをえなかった。そのかわりに、今日、赴いたわけである。
◆まず現場、まだ内側のフレームは組まれたままで、入り口部からのぞくと、はずした石障の代替物がはめ込まれていた。無事はずれたのは12月中旬。それから埋文センターで石障を見る。遺体置き場に安置されたもののような印象だった。しかし、風化し、浮いてきている表面を見ると、やはりはずして保存するほかなかっただろうと感じた。

2月23日、用明陵と推古陵、ええもの見ました

◆なかなかよかった。また、後日、感想等を書き込むことにします。雨も用明に入る直前、パラパラっときた84a9b950.JPGが、そこまでで、ほとんど影響なく見て回ることができた。いろんな人に助けてもらい、無事、終わりました。
◆いろいろ考えたこと、当日、安村さんや森本さんにもぶつけてみた。まず、用明陵は587年に仮埋葬後、造営に着手し、593年には整い春日向山に埋葬した。一方、用明のあと、物部戦争を経て、崇峻が即位し、たぶん赤阪天王山の造営に着手する。つまり大王墓として、この2基はほぼ同時進行で進められたことになる。【追記】竹田墓もだろう。
◆敏達は仏教よりも神祇を重んじたという。そういうことからしても、伝統的な前方後円墳にこだわったであろう。前方後円墳の停廃は歴史的必然ではあろうが、敏達の死と蘇我系用明の即位こそが、それ88b6b1b3.JPGに踏み切る条件を用意したのだろう。敏達没後、テルチャンによれば、まず平田梅山への埋葬を取りやめる。これについても、朝廷内でもめたはずだ。息子の彦人がいる、まだ守屋もいる。そうした対立も、物部戦争の引き金になっているのかもしれない。
◆やっぱりシシヨ塚ですな。TK43は埋葬時期であって、造墓着手は用明陵や崇峻陵よりも明らかに先行しよう。いちはやく方墳を造営した、そしてむろん横口式石槨をも導入した被葬者、いったい何者か?
◆用明陵はピラミッド、推古陵は階段式ピラミッドだった。山田高塚は628年に推古が大野丘に一端埋葬された後、再度、造営したもので、改葬時期はわからないものの、舒明朝初期として、用明陵とは40年くらい離れている、ということも改めて認識した。この間、方墳はかなり定着したであろう。階段式ピラミッドへ、というのも、40年の時間差を反映しているようにも感じた。
◆それと高塚古墳東石室の羨道側壁の石材を見ることができた。切石だ。岩屋山式石室の年代資料になる。一方で、植山西石室をいつ作ったのかも、裏返しで問題になり、切石とちゃうやないか、ということにもなる。前にも書いたが、植山の墳丘をからめての理解が不可欠なのだが、ようわからん。
【追記】下の写真は茂木先生から送っていただきました。

今日の資料を綴じ終わる

◆23日の木曜日、午前3時半となる。昨日は、まず、26日のシンポジウムの資料をすべて終わらせてPDFで送7dd8f582.jpg付した。それから、本日の陵墓立ち入りの資料、関本さんに協力してもらい、こちらでは表紙や関連資料を付して、最終的に仕上げ。22時に大学を出るまでには終わらず、帰宅してから完了させる。
◆プリンターで打ち出し、ファミマに行きコピー。大学なら丁合は自動だが、1枚ずつとってホッチキス留め、ようやく終わり。表紙は二上山博物館の図録から取った、この地域一帯の遺跡地図、いままで見たなかでは一番よくできている。
◆それにしても雨、天気予報も調べよう。午後も雨だったら、ホンマいやや。担当の人徳のなさ、ということか。
◆26日のシンポは、オレにしては珍しく資料を事前に出したわけだが、パワポはこれから。金曜日は岡山出張、午後はゼミ、夕方は学会の委員会、25日の土曜日も京都に行くとなると、かなり厳しいが、ま、なんとかなるやろ。楽観的に行きましょう。

2011年12月17日、飛鳥の写真

◆石舞台前で撮影した記念写真を大学院生にもらったので掲げておく。ac1eea0f.JPG

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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