人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
ディベートと研究
◆旅行の間、バスでt先生と話をした。もっとも、なかなかこちらから積極的に話ができなかったが。t先生が受け入れている中国人留学生の呂さんの話がきっかけで、中国の大学などのすごい競走社会の話になった。t先生はシンガポール大学からの留学生も受け入れており(フランス人も)、たとえば奨学金をえるためには、学期ごとに、日本でいえば全優でないと切られる、といった制度の下で、その競争に勝ち抜いていかなければならないような話になった。
◆それから、いま文学部で1回生セミナーみたいなものが検討され、そのなかにディベートを組み込もうとする意見についてオカシイという話になった。ディベートとは、自分がどういう見解に立つかということとは別に、意見の異なる2者に別れ、双方のメリット・デメリットなどを戦わせ、白黒つけるみたいなことが行われると。ディベートというのは、何やら対立軸を明確にして、論争することのようだ。議論とはイメージが異なるようだ。
◆そして、t先生がいうには、たとえば親しいアメリカ人日本史研究者のボッツマン氏やその他、みな、t先生のもとでのゼミや研究会に出ると、報告者の報告に対して、建設的な質問をしたり助言したりする質疑に感銘するそうである。こっちの方が絶対にいいと。つまり、アメリカや中国やシンガポールの大学では、痛烈な反論やそれにかわる自己主張が強いんだと。異口同音に、日本の方がいいと言うらしい。
◆断片的なサンプリングかもしれないが、ディベートを主張する者の意見よりも、実際にわが文学部でももっとも国際的とも言える、多くの外国人留学生が集まるt先生の意見は重要ではないだろうか。そして同意したい。ディベート、政治の世界で、一定の判断を下し、実行していかなければならない世界では、全員一致ばかりをめざすわけにはいかず、どっちかに決めるという裁定を下す必要がある。それこそメリット・デメリットをだした上で、絶対是でなくとも決めなきゃならんことはあろう。
◆だが、人文学というのは、そういうのとは性質が違うものだ。理解を、認識を深めていくもんだ。人間社会は複雑で全体をとらえることはとても難しいし、それが変化していくことを説明するにも、より重要な要因は何かという追究は必要であろうが、特定の因子でもって変化するわけでない。アメリカの歴史学において、とにかく理論化することが求められるという。そういう価値観ゆえに、歴史学でもディベートによって、たとえばどっちがより合理性があるかといった勝敗のような決着が求められるのであろうか。
◆むろんまったく相反するコトガラ、誤った見方など、白黒をつけなければならないものもある。だが、ざっくりといえば、歴史学の目指すものが何かという点で、なにか切れのある理論をうち立てるためにやるのか、さまざまな先人たちの歩んできた実際の姿を、いろんな人がいろんな材料で明らかにして、協業してペンキを塗って細密に立体的に描いて明らかにしていこうとするのかという、目的の違いのような気がする。
◆少なくとも、論争の勝ち負けや、成績の優劣ではなく(そうした教育の延長として、学者になっても出世競争が続いていくのであろう)、それぞれの学生の関心に出発する研究の芽を育てていこう、伸ばしていこうという点で、t先生の言うとおり、日本の教育の方がいいと思う。
◆これは文化なんだろう。
◆それから、いま文学部で1回生セミナーみたいなものが検討され、そのなかにディベートを組み込もうとする意見についてオカシイという話になった。ディベートとは、自分がどういう見解に立つかということとは別に、意見の異なる2者に別れ、双方のメリット・デメリットなどを戦わせ、白黒つけるみたいなことが行われると。ディベートというのは、何やら対立軸を明確にして、論争することのようだ。議論とはイメージが異なるようだ。
◆そして、t先生がいうには、たとえば親しいアメリカ人日本史研究者のボッツマン氏やその他、みな、t先生のもとでのゼミや研究会に出ると、報告者の報告に対して、建設的な質問をしたり助言したりする質疑に感銘するそうである。こっちの方が絶対にいいと。つまり、アメリカや中国やシンガポールの大学では、痛烈な反論やそれにかわる自己主張が強いんだと。異口同音に、日本の方がいいと言うらしい。
◆断片的なサンプリングかもしれないが、ディベートを主張する者の意見よりも、実際にわが文学部でももっとも国際的とも言える、多くの外国人留学生が集まるt先生の意見は重要ではないだろうか。そして同意したい。ディベート、政治の世界で、一定の判断を下し、実行していかなければならない世界では、全員一致ばかりをめざすわけにはいかず、どっちかに決めるという裁定を下す必要がある。それこそメリット・デメリットをだした上で、絶対是でなくとも決めなきゃならんことはあろう。
◆だが、人文学というのは、そういうのとは性質が違うものだ。理解を、認識を深めていくもんだ。人間社会は複雑で全体をとらえることはとても難しいし、それが変化していくことを説明するにも、より重要な要因は何かという追究は必要であろうが、特定の因子でもって変化するわけでない。アメリカの歴史学において、とにかく理論化することが求められるという。そういう価値観ゆえに、歴史学でもディベートによって、たとえばどっちがより合理性があるかといった勝敗のような決着が求められるのであろうか。
◆むろんまったく相反するコトガラ、誤った見方など、白黒をつけなければならないものもある。だが、ざっくりといえば、歴史学の目指すものが何かという点で、なにか切れのある理論をうち立てるためにやるのか、さまざまな先人たちの歩んできた実際の姿を、いろんな人がいろんな材料で明らかにして、協業してペンキを塗って細密に立体的に描いて明らかにしていこうとするのかという、目的の違いのような気がする。
◆少なくとも、論争の勝ち負けや、成績の優劣ではなく(そうした教育の延長として、学者になっても出世競争が続いていくのであろう)、それぞれの学生の関心に出発する研究の芽を育てていこう、伸ばしていこうという点で、t先生の言うとおり、日本の教育の方がいいと思う。
◆これは文化なんだろう。
歴史学実習旅行
◆実習旅行の記事も3回目になる。今年度は、丹後・若狭・湖北であ
る。ちょっと欲張りすぎで、丹後だけ、若狭だ
けでも十分に見て回るところがあり、その方がいいと思うが、それは旅行委員が決めること。仁木先生のもと、旅行委員長はじめ、今年の旅行委員は活発に準備をし、立派なパンフレットを作成し、旅行期間中もほんとうに頑張っていたと思う。
◆8:00大阪府立体育館前に集合し、バスで丹後に向かう。高速道路料金が安くなり土曜日の交通量は多く、1100与謝野町の古墳公園は30分近くずれこんだ。加藤さんの案内で埴輪館を見て、蛭子山、作山古墳群を見学する。思えば蛭子山に最初に来たのも、わたしの大学3年の研究室旅行だった。考古学研究室の旅行なら、丹後に来たなら網野銚子山そして神明山古墳にも当然足をのばすことになるが、今回は伊根に向かう。与謝野町ではちりめん資料館も、歴史の題材としてはいいと思ったが・・・。
◆昼は天之橋立の見えるドライブイン、ここ、最近、来たことがある、いつだったかな~。手こね寿司というんだそうだが、実に酢飯が薄かった(約1㎝)。
◆伊根に向かう途中、びっくりするほどリゾートマンションが建っていたので驚く。
◆伊根、前に来たのは1990年代前半か、あまり覚えていないが丹後半島を一周した。1993年の「ええにょぼ」のあとで伊根が有名になってからだったと記憶するが、その時には、船屋は見ておらず、上からながめただけだった。今回はまず、遊覧船に乗る。かもめ?が待ちかまえていて、エサを求める。かっぱえびせんをエサとして置いていて、2袋買って、空に投げ、しばらく楽しんだ。このかもめ、きっと塩分
の取りすぎに違いない。遊覧船でみなおおはしゃぎ。天気もよい。
◆そのあと、前にも来た案内所にバスで行き、3班に分かれて、船屋を見学する。うちの班はまず、展望台から全体の説明。ボランティアのガイドさんは、解説ボランティアの中でもベテランで、何度もテレビ取材に対応したらしい。鯨猟についての話、1945年の軍艦の伊根湾への避難と米軍の攻撃の話を聞く。海岸に降りて資料館、そして町を歩く。伊根のブリは、氷見それから五島列島だったかとならび有名なんだそうだ。1尾数万円という。
◆16:00過ぎに出発し、丹後郷土資料館、いまは丹後ふるさとミュージアムというのかな。吹田さんに解説をお願いしていた。もう夕刻近くになっていたが、展示解説のあと、国分寺現地も夕闇の中説明をしてもらった。奥村さんは留守。そして大丹波展が終わったところで、それは残念であった。吹田さんの解説は実によかった。
◆夕闇の中、宮津の宿に泊まる。300年続く旅館で登録文化財となっている建物だった。夕食時に、刺身とカニを前にビールはなく、自分で勝手
に自動販売機でビールを飲み、あとに何人か続いた。恒例の宴会、疲れていたが1時までつきあう。同部屋
の佐賀さんはそのあとまでがんばり、部屋に戻ったが「寝られなかったので、3回蹴った」と翌朝告白。いびきが大変だったようである。疲れてたんですよ、すいません。
◆このところのさぼりでけっこう追い詰められていたが、前日の金曜日にかなりこなしたので、なんとか楽しく旅行に出発することができた。2日目以降はまた・・・
◆8:00大阪府立体育館前に集合し、バスで丹後に向かう。高速道路料金が安くなり土曜日の交通量は多く、1100与謝野町の古墳公園は30分近くずれこんだ。加藤さんの案内で埴輪館を見て、蛭子山、作山古墳群を見学する。思えば蛭子山に最初に来たのも、わたしの大学3年の研究室旅行だった。考古学研究室の旅行なら、丹後に来たなら網野銚子山そして神明山古墳にも当然足をのばすことになるが、今回は伊根に向かう。与謝野町ではちりめん資料館も、歴史の題材としてはいいと思ったが・・・。
◆昼は天之橋立の見えるドライブイン、ここ、最近、来たことがある、いつだったかな~。手こね寿司というんだそうだが、実に酢飯が薄かった(約1㎝)。
◆伊根に向かう途中、びっくりするほどリゾートマンションが建っていたので驚く。
◆伊根、前に来たのは1990年代前半か、あまり覚えていないが丹後半島を一周した。1993年の「ええにょぼ」のあとで伊根が有名になってからだったと記憶するが、その時には、船屋は見ておらず、上からながめただけだった。今回はまず、遊覧船に乗る。かもめ?が待ちかまえていて、エサを求める。かっぱえびせんをエサとして置いていて、2袋買って、空に投げ、しばらく楽しんだ。このかもめ、きっと塩分
◆そのあと、前にも来た案内所にバスで行き、3班に分かれて、船屋を見学する。うちの班はまず、展望台から全体の説明。ボランティアのガイドさんは、解説ボランティアの中でもベテランで、何度もテレビ取材に対応したらしい。鯨猟についての話、1945年の軍艦の伊根湾への避難と米軍の攻撃の話を聞く。海岸に降りて資料館、そして町を歩く。伊根のブリは、氷見それから五島列島だったかとならび有名なんだそうだ。1尾数万円という。
◆16:00過ぎに出発し、丹後郷土資料館、いまは丹後ふるさとミュージアムというのかな。吹田さんに解説をお願いしていた。もう夕刻近くになっていたが、展示解説のあと、国分寺現地も夕闇の中説明をしてもらった。奥村さんは留守。そして大丹波展が終わったところで、それは残念であった。吹田さんの解説は実によかった。
◆夕闇の中、宮津の宿に泊まる。300年続く旅館で登録文化財となっている建物だった。夕食時に、刺身とカニを前にビールはなく、自分で勝手
◆このところのさぼりでけっこう追い詰められていたが、前日の金曜日にかなりこなしたので、なんとか楽しく旅行に出発することができた。2日目以降はまた・・・
岡山で千足の委員会
◆月曜日、雨。千足の委員会。文化庁からも3人、奈文研の保存科学、探査担当も含め、全員出席で大勢。雨の中、調査区を見る。間壁委員長、稲田さんと、岡大の新納さん、岡山理科大の亀田氏、が現場で前哨戦をやっている。こっちはおとなしく現場を見る。会議でも、今年の調査でどこまでやるか、ここまで掘れという意見と、セーブしようという文化庁、なかなか面白い。具体の話はやめておこう。
◆痛んでいる直弧文入り石障をどう救うかという部分と、これを機に千足古墳を整備しようという話を、切り分けて考える必要がある一方で、石障を救うだけにとどめずに、一定の考古学的な調査をして整備活用につなげることがナシにならないよう連続的に実施される必要がある。
◆地山はけっこう深そうであり・・・、やめとこう。一般論として墳丘を掘った場合、墳丘残存面はそれはそれで生きた面であり、それを掘り込んで盛土の状況を確認する、地山を確認する、というのは一方では破壊であるので、わたしは止めている面が確かに生きた盛土面であるという裏取りが必要な場合をのぞいて、あまり割らない。なので、径の小さなボーリングというのは、そのコアサンプルでの地山確認が容易かどうかによろうが、一定の有効性はあろう。ただ、それはそれで専門の人に頼まないといけないので(ちょっとやれば素人でもできるのかもしれないが)、うちの大学の調査ではやらないな~。
◆新納さんが千足石室のデータをもとに、3Dプリンタで模型を作成してきて披露した。色も付いている。石室壁
体のハラミが見てわかりやすい。石障が何とかなったとして、同じような石材の腰石、また石室全体の危険度をどう判断するか、整備しようとするときに、石室を見せることが可能なのかどうか、これからさらに議論が必要だ。ちなみに、こっちの模型作りはあんまり進んでいないが、メスリに続き、渋谷向山の石膏模型ができてきたので、写真を挙げておこう。
◆なお、どういう保存措置がありうるのか、現地保存、石障のとりはずしなど、専門的な観点から検討する作業部会が立ち上がっており、そうした検討をふまえて、年度末の3回目の会議で、どうするか方針を決めることになる。
◆痛んでいる直弧文入り石障をどう救うかという部分と、これを機に千足古墳を整備しようという話を、切り分けて考える必要がある一方で、石障を救うだけにとどめずに、一定の考古学的な調査をして整備活用につなげることがナシにならないよう連続的に実施される必要がある。
◆地山はけっこう深そうであり・・・、やめとこう。一般論として墳丘を掘った場合、墳丘残存面はそれはそれで生きた面であり、それを掘り込んで盛土の状況を確認する、地山を確認する、というのは一方では破壊であるので、わたしは止めている面が確かに生きた盛土面であるという裏取りが必要な場合をのぞいて、あまり割らない。なので、径の小さなボーリングというのは、そのコアサンプルでの地山確認が容易かどうかによろうが、一定の有効性はあろう。ただ、それはそれで専門の人に頼まないといけないので(ちょっとやれば素人でもできるのかもしれないが)、うちの大学の調査ではやらないな~。
◆新納さんが千足石室のデータをもとに、3Dプリンタで模型を作成してきて披露した。色も付いている。石室壁
◆なお、どういう保存措置がありうるのか、現地保存、石障のとりはずしなど、専門的な観点から検討する作業部会が立ち上がっており、そうした検討をふまえて、年度末の3回目の会議で、どうするか方針を決めることになる。
遺跡GIS研究会
◆奈文研の先輩、森本氏から何かしゃべれ、というので、うちでやっている測量や3次元計測などの紹介なら、とい
うことで引き受けた研究会が11月19日にあった。年1回、15回目だそうだ。
◆報告4本のうちの1本で、ほかは、エジプトでの微地形測量の話と、ソフトの話と、遺物の実測図の話であった。もうすこし測量の部分を手厚くしてもよかったのかと思いつつ、1)測量、2)3次元計測、3)遺物の計測、の話をした。まあしかし、計測、GIS、パソコンのプロの話は、わたしにはまず用語からして理解は難しい。参加者数はちとさびしい。
◆埋文写真研究会がいまでもあるのかどうかしらないが、奈文研にいる頃にでき、研究会を開催し、雑誌を出していた。埋文写真のガイド、プロのみなさんの情報交換、そして「作品」が掲載されていて、見ていてきれいので、専門的なことはわからないが、楽しめた。
◆遺跡GISも、なにか小冊子を出して、それぞれプロ的にやっていなくても、かじっている層は広がっているので、紙上参加、作品投稿みたいな連絡紙みたいなものを出したら、「こんなこともできるのか」とか、「オレもこんな図を作ってみたい」といった刺激にはなるだろうに。いずれにしても、この分野を引っ張って行くには、奈文研に、そこそこ人がいるのだろう。森本さんはデータベース構築で手いっぱいのようだし。
◆ソフトの話で、Inkscapeというイラストレーターと同じベクトル形式の画像作成のできるフリーソフトがあるのを知った。ほんとは、その前に、カミさんが「こんなんあるで」と教えてくれていたのだが、それが何というヤツが具体的に知ることができた(確認すると、これはまた別らしい=gimp)。フォトショップ、インデザインとほぼ同等なものもあり、アドビのソフトはもういらんらしい。インデザインのやつは、まだいまひとつらしいが。インクスケープは十分らしい。
◆というので、ダウンロードして使ってみた。メニュー画面が違うので操作に手こずるが、まあ使えそうではある。学生にはお勧めですね。GISでは、カシミールしか使ったことがなく、いまはそれもしていないが、北條さんがこんなんあるでと国土地理院のやつを教えてくれたが、こないださわりかけたが、難しそ~、とそれっきり。
◆報告4本のうちの1本で、ほかは、エジプトでの微地形測量の話と、ソフトの話と、遺物の実測図の話であった。もうすこし測量の部分を手厚くしてもよかったのかと思いつつ、1)測量、2)3次元計測、3)遺物の計測、の話をした。まあしかし、計測、GIS、パソコンのプロの話は、わたしにはまず用語からして理解は難しい。参加者数はちとさびしい。
◆埋文写真研究会がいまでもあるのかどうかしらないが、奈文研にいる頃にでき、研究会を開催し、雑誌を出していた。埋文写真のガイド、プロのみなさんの情報交換、そして「作品」が掲載されていて、見ていてきれいので、専門的なことはわからないが、楽しめた。
◆遺跡GISも、なにか小冊子を出して、それぞれプロ的にやっていなくても、かじっている層は広がっているので、紙上参加、作品投稿みたいな連絡紙みたいなものを出したら、「こんなこともできるのか」とか、「オレもこんな図を作ってみたい」といった刺激にはなるだろうに。いずれにしても、この分野を引っ張って行くには、奈文研に、そこそこ人がいるのだろう。森本さんはデータベース構築で手いっぱいのようだし。
◆ソフトの話で、Inkscapeというイラストレーターと同じベクトル形式の画像作成のできるフリーソフトがあるのを知った。ほんとは、その前に、カミさんが「こんなんあるで」と教えてくれていたのだが、それが何というヤツが具体的に知ることができた(確認すると、これはまた別らしい=gimp)。フォトショップ、インデザインとほぼ同等なものもあり、アドビのソフトはもういらんらしい。インデザインのやつは、まだいまひとつらしいが。インクスケープは十分らしい。
◆というので、ダウンロードして使ってみた。メニュー画面が違うので操作に手こずるが、まあ使えそうではある。学生にはお勧めですね。GISでは、カシミールしか使ったことがなく、いまはそれもしていないが、北條さんがこんなんあるでと国土地理院のやつを教えてくれたが、こないださわりかけたが、難しそ~、とそれっきり。
横大路を行く
◆翌日の日曜日、今日はカミさんが歩きたいというので、横大路を歩くことに。まず、近鉄南大阪線に乗るために、
玉手山の山越え。途中、久しぶりに3号墳に立ち寄る。前から、埋め戻した跡がどう
なっているか、気になっていた。で道明寺から近鉄に乗り磐城へ。そこから、ひたすら東向いて、一直線の横大路を歩く。
◆09時前に出て、歩き始めたのはほぼ10時。大和高田の町を抜け、ほぼ12時に八木に着いた。
◆昼飯を食べに駅前の方に歩いていくと、改札口で大阪市文協(いまは研究所か)の伊藤純氏にあう。うどんをたべて、再び横大路に戻る。
◆すぐに下ツ道の交差点(下の2枚の写真)。なにやら歩きのグループがいるな~、と思ってしばらく進むと、集団本体にでくわしたが、その最後尾にいたのは、近畿大の大脇氏と桜井市の橋本君だった。大脇氏いわく、これから瓦を見に行くんだとか。こっちは当麻から(ほんとは磐城だが)桜井ゴールで横大路を歩いてますと・・・。大脇さんは、いま前漢の瓦の原稿を書いていると。そうらしいですね~。
◆香久山駅を過ぎ、大福だ、桜井に入ったと思ったら、次は道をはさんで南は谷、北は観音寺、これも面白い町割りである。そんなことを考えていたら、あっという間に桜井駅着く。所要時間は3時間20分ほどか。アバウトに距離を出したら、だいたい12㎞だった。4㎞1時間として、まあ普通ですね。お伊勢さんまでは、どのくらいかかるのだろうか。
◆ややさびれた桜井駅前でお茶を飲み、急行で河内国分へ。それからミドリ電化に行ったが、カミさんいわく「高い、アマゾンがいちばん安いと」。ということで、2つほど適当なものがあれば買おうと思っていたものがあるが、パス。それにしても電気屋が、人でごったがえしていた。日本の消費活動も旺盛なものである。そして、八尾のおゆばに行き、汗を流す。
◆さてと、歩いていて気づいたのは、敷地がすべて南北に細長いことである。もともとの田んぼが細長く、そこをつぶして建てた家屋も工場も細長い。「そうか、これが長地型なんや」、と感動。
◆09時前に出て、歩き始めたのはほぼ10時。大和高田の町を抜け、ほぼ12時に八木に着いた。
◆昼飯を食べに駅前の方に歩いていくと、改札口で大阪市文協(いまは研究所か)の伊藤純氏にあう。うどんをたべて、再び横大路に戻る。
◆すぐに下ツ道の交差点(下の2枚の写真)。なにやら歩きのグループがいるな~、と思ってしばらく進むと、集団本体にでくわしたが、その最後尾にいたのは、近畿大の大脇氏と桜井市の橋本君だった。大脇氏いわく、これから瓦を見に行くんだとか。こっちは当麻から(ほんとは磐城だが)桜井ゴールで横大路を歩いてますと・・・。大脇さんは、いま前漢の瓦の原稿を書いていると。そうらしいですね~。
◆香久山駅を過ぎ、大福だ、桜井に入ったと思ったら、次は道をはさんで南は谷、北は観音寺、これも面白い町割りである。そんなことを考えていたら、あっという間に桜井駅着く。所要時間は3時間20分ほどか。アバウトに距離を出したら、だいたい12㎞だった。4㎞1時間として、まあ普通ですね。お伊勢さんまでは、どのくらいかかるのだろうか。
◆ややさびれた桜井駅前でお茶を飲み、急行で河内国分へ。それからミドリ電化に行ったが、カミさんいわく「高い、アマゾンがいちばん安いと」。ということで、2つほど適当なものがあれば買おうと思っていたものがあるが、パス。それにしても電気屋が、人でごったがえしていた。日本の消費活動も旺盛なものである。そして、八尾のおゆばに行き、汗を流す。
◆さてと、歩いていて気づいたのは、敷地がすべて南北に細長いことである。もともとの田んぼが細長く、そこをつぶして建てた家屋も工場も細長い。「そうか、これが長地型なんや」、と感動。
11月13日あそび
◆9月の和泉市合宿の夜の宴会で、ボーリングに行こうということになり、ボーリング+コンパ+カラオケというセッ
ティングがなされた。千日前ファミリーボール、NGKの近くだ。こんなところにくるこ
とは、数年に一度くらいか。でも、人の多さ、その活気、たこ焼きの店にならぶ人々、水掛不動さんにお参りする人々、戎橋のごったがえし、ここがもっとも大阪らしいところではないか、と改めて感じる。
◆コンパの18時まで1時間もあきがあり、サイゼリヤに入り、2テーブル、わたしのテーブルは、既にワインを飲み始める。昨日の飲酒による頭の重さが残るが、連チャンである。
◆で、カラオケ。カラオケはね~、やっぱり同世代と行くべきモンで、若い者と行くのもよいが、チトつらい。唱わな
いでおこうと思っていたが、そうもいかず振られ、しゃーない呑んで勢い
で・・・、とまあけっこう楽しくやりました。
◆コンパの18時まで1時間もあきがあり、サイゼリヤに入り、2テーブル、わたしのテーブルは、既にワインを飲み始める。昨日の飲酒による頭の重さが残るが、連チャンである。
◆で、カラオケ。カラオケはね~、やっぱり同世代と行くべきモンで、若い者と行くのもよいが、チトつらい。唱わな
11月12日新木山古墳見学会
◆昨日、宮内庁が実施している新木山古墳(三吉参考地)の成果が、報道お
よび
16学協会に公開された。調査成果は成果で説明しなければならないが、めんどうくさいのでやめておく。宮内庁から示された資料を掲げておこう。で、今回、広陵町も、同時に周濠部に3カ所の調査区を設定して発掘を行っている。
◆この調査は、コンクリート製の円柱に有刺鉄線をめぐらせた柵が痛んでいるので、取り替えるというもの。この柵、なぜだか、裾部でなく、裾部から立ち上がる斜面にある。なので、宮内庁の調査区は、斜面の中途までしか入れられず、どことも墳端はやはり検出できなかった。
◆わたしの以前からの主張は、こういう墳端までが宮内庁、周濠より外が民地であっても、地元の同時調査を期待するのではなく、宮内庁自身が外まで掘って、墳端を確かめるべきだ、というもの。
◆周濠には耕作などで手が入り、広陵町調査区で、ぎりぎり墳丘へ立ち上がっていく地山が検出されているが、墳端基底石は残存していなかった。そういうなかでも、造出しの谷部については、コナベの時のように、基底石が残っている可能性が高いが、宮内庁の斜面途中までの調査区では出てこないし、広陵町もこの部位に調査区を設定していない。右の写真の、福尾さんが立っている位置が、前方部と造出しの谷部折れ線が通る位置で、下までびっちり葺石が出ており、墳端はこの延長上の未調査区で良好に検出される可能性が高い。だけど、それを追求しないのである。
◆今回の広陵町の調査は、堺市の百舌鳥御廟山古墳に続く、宮内庁調査時に同時並行でおこなわれる調査となった。中身は、御廟山は共同調査、今回は同時調査である。話を聞いていると、いろいろ経過はあったようだが、御廟山の時のような合同調査がめざされたようであるが、それぞれ独立した調査とな
ったもの。しかし実際の調査着手段階の調査区設定では、ひとつづきの断面が作成できるよう配慮してある。
◆合同調査が実現していれば、ひと続きの調査区が設定できたかといえば、畦の問題もあるので、そうであっても分離した形にならざるをえなかったのかもしれない。もし、ひと続きの調査区になっていたなら、墳端は結局検出されなかったとしても、下段斜面の残存墳丘面をより明瞭に把握できたに違いない。
◆大久保さんが、事後の検討会で、同時調査はけっこうだけれども、それが、では新木山古墳の周濠部を史跡にするといった保存措置につながるようなものになるのか、なるべきではないのか、という指摘はもっともである。御廟山古墳の場合は、堺市は、世界遺産のこともあり、宮内庁がカバーしている墳丘部の外を史跡にしようとしている。新木山古墳の場合はどうなのか、という問いかけであろう。それは、一方で、文化庁や奈良県教育委員会の指導力であり、他方、むろん地元自治体の力量が問われることになる。
◆いずれにしても、そうした方向をめざす上で、今回、宮内庁が発掘調査をしてこんなことがわかったという成果が、地元にきっちり伝えられ、受け止められ、巣山ともども、立派な古墳がたくさんあるんだ、馬見丘陵の古墳公園のコンセプトのなかに位置づけて打ち出していこう、という機運にならなければ始まらない。
◆なので、やはり合同調査という形態が取れなかったことは惜しい。合同調査という形が取れていた場合、堺市のような一般公開ができていたかどうかはわからないが、少なくとも共同の成果発表という形になったであろう。もし、一般公開ができていれば(御廟山と同じく、宮内庁の土地に入れることは困難なので、裾部に足場を組んで、そこから内側を見るという形)、おそらく全国から大勢の人が集まり(御廟山は7000人以上)、地元の人々も多く現場に足を運び、広陵町の上層部も「これは何とかせなあかんな~」と受け止めたであろう(実際には、作物を育てておられるので、そうした公開を地権者が承諾しなかったかもしれないが)。
◆むろん、コナベの時と違い、同時に広陵町が調査をしたことは歓迎すべきことであり、御廟山と違い独立した調査であるとはいえ、実際にはタイアップして成果をつきあわせることになるだろうし、有意義なことである。実現にむけて尽力された広陵町に敬意を表したい。
◆これからも宮内庁の調査において、むろん堀までをカバーしている陵墓の場合は別だが、宮内庁の管理地が墳丘のみの参考地の場合など、地元が同時に調査を実施するようなことが慣例化していくのが望ましいであろう。学会ができることは限られているが、文化庁や地元の自治体に働きかけていく、ということはできるはずである。
◆この調査は、コンクリート製の円柱に有刺鉄線をめぐらせた柵が痛んでいるので、取り替えるというもの。この柵、なぜだか、裾部でなく、裾部から立ち上がる斜面にある。なので、宮内庁の調査区は、斜面の中途までしか入れられず、どことも墳端はやはり検出できなかった。
◆わたしの以前からの主張は、こういう墳端までが宮内庁、周濠より外が民地であっても、地元の同時調査を期待するのではなく、宮内庁自身が外まで掘って、墳端を確かめるべきだ、というもの。
◆周濠には耕作などで手が入り、広陵町調査区で、ぎりぎり墳丘へ立ち上がっていく地山が検出されているが、墳端基底石は残存していなかった。そういうなかでも、造出しの谷部については、コナベの時のように、基底石が残っている可能性が高いが、宮内庁の斜面途中までの調査区では出てこないし、広陵町もこの部位に調査区を設定していない。右の写真の、福尾さんが立っている位置が、前方部と造出しの谷部折れ線が通る位置で、下までびっちり葺石が出ており、墳端はこの延長上の未調査区で良好に検出される可能性が高い。だけど、それを追求しないのである。
◆今回の広陵町の調査は、堺市の百舌鳥御廟山古墳に続く、宮内庁調査時に同時並行でおこなわれる調査となった。中身は、御廟山は共同調査、今回は同時調査である。話を聞いていると、いろいろ経過はあったようだが、御廟山の時のような合同調査がめざされたようであるが、それぞれ独立した調査とな
◆合同調査が実現していれば、ひと続きの調査区が設定できたかといえば、畦の問題もあるので、そうであっても分離した形にならざるをえなかったのかもしれない。もし、ひと続きの調査区になっていたなら、墳端は結局検出されなかったとしても、下段斜面の残存墳丘面をより明瞭に把握できたに違いない。
◆大久保さんが、事後の検討会で、同時調査はけっこうだけれども、それが、では新木山古墳の周濠部を史跡にするといった保存措置につながるようなものになるのか、なるべきではないのか、という指摘はもっともである。御廟山古墳の場合は、堺市は、世界遺産のこともあり、宮内庁がカバーしている墳丘部の外を史跡にしようとしている。新木山古墳の場合はどうなのか、という問いかけであろう。それは、一方で、文化庁や奈良県教育委員会の指導力であり、他方、むろん地元自治体の力量が問われることになる。
◆いずれにしても、そうした方向をめざす上で、今回、宮内庁が発掘調査をしてこんなことがわかったという成果が、地元にきっちり伝えられ、受け止められ、巣山ともども、立派な古墳がたくさんあるんだ、馬見丘陵の古墳公園のコンセプトのなかに位置づけて打ち出していこう、という機運にならなければ始まらない。
◆なので、やはり合同調査という形態が取れなかったことは惜しい。合同調査という形が取れていた場合、堺市のような一般公開ができていたかどうかはわからないが、少なくとも共同の成果発表という形になったであろう。もし、一般公開ができていれば(御廟山と同じく、宮内庁の土地に入れることは困難なので、裾部に足場を組んで、そこから内側を見るという形)、おそらく全国から大勢の人が集まり(御廟山は7000人以上)、地元の人々も多く現場に足を運び、広陵町の上層部も「これは何とかせなあかんな~」と受け止めたであろう(実際には、作物を育てておられるので、そうした公開を地権者が承諾しなかったかもしれないが)。
◆むろん、コナベの時と違い、同時に広陵町が調査をしたことは歓迎すべきことであり、御廟山と違い独立した調査であるとはいえ、実際にはタイアップして成果をつきあわせることになるだろうし、有意義なことである。実現にむけて尽力された広陵町に敬意を表したい。
◆これからも宮内庁の調査において、むろん堀までをカバーしている陵墓の場合は別だが、宮内庁の管理地が墳丘のみの参考地の場合など、地元が同時に調査を実施するようなことが慣例化していくのが望ましいであろう。学会ができることは限られているが、文化庁や地元の自治体に働きかけていく、ということはできるはずである。
楠葉台場跡の史跡指定申請
◆韓国に行く前、枚方市の竹原さんから、楠葉台場跡の史跡指定申請につい
て知らせていただいた。うれしい
限りだ。第3専門調査会は10月末に終わり、11月の審議会で答申されるようだ。
◆幕末の歴史遺産として、京都・寺田屋などは観光客であふれている。楠葉台場はちょっと毛色が違うものの、異国船の大阪湾侵入に対する海防を契機としながら、本質は幕末期の京都情勢とからみ、京都警護の防衛線であり、鳥羽伏見の戦いの一画をもなし、京そのもの、あるいは蛤御門や寺田屋と違い、こうした幕末期の「遺跡」として貴重なものだと思う。
◆区画整理との折りあいがどうなったのか、具体のことは知らないが、枚方市の努力に敬意を表したい。そして、これからどう保存していくのか、どのような整備活用をしていくのか、じっくりと考えて欲しい。前に『ヒストリア』にも書いたが、幕末人気は高く、そうした受け皿になりうる遺跡だと思うし、八幡から京街道があって、そして関門が置かれているという雰囲気は体感できると思われる。これからがまた、知恵の働かせどころだが、なにはともあれ嬉しいことである。
◆帰国すると、高槻市の中西さんから、しろあと歴史館で〈幕末〉展を開催しており、図録を送っていただいた。大河ドラマもあって、タイムリーな企画だ。対岸の梶原台場も、楠葉台場が確認されたあと、具体なことが判明してきたもので、両者が連動するように解明されてきたことも重要だ。さっそくに企画展で取り上げていることに敬意を表したい。
【追記】2011年02月07日、官報告示。
◆幕末の歴史遺産として、京都・寺田屋などは観光客であふれている。楠葉台場はちょっと毛色が違うものの、異国船の大阪湾侵入に対する海防を契機としながら、本質は幕末期の京都情勢とからみ、京都警護の防衛線であり、鳥羽伏見の戦いの一画をもなし、京そのもの、あるいは蛤御門や寺田屋と違い、こうした幕末期の「遺跡」として貴重なものだと思う。
◆区画整理との折りあいがどうなったのか、具体のことは知らないが、枚方市の努力に敬意を表したい。そして、これからどう保存していくのか、どのような整備活用をしていくのか、じっくりと考えて欲しい。前に『ヒストリア』にも書いたが、幕末人気は高く、そうした受け皿になりうる遺跡だと思うし、八幡から京街道があって、そして関門が置かれているという雰囲気は体感できると思われる。これからがまた、知恵の働かせどころだが、なにはともあれ嬉しいことである。
◆帰国すると、高槻市の中西さんから、しろあと歴史館で〈幕末〉展を開催しており、図録を送っていただいた。大河ドラマもあって、タイムリーな企画だ。対岸の梶原台場も、楠葉台場が確認されたあと、具体なことが判明してきたもので、両者が連動するように解明されてきたことも重要だ。さっそくに企画展で取り上げていることに敬意を表したい。
【追記】2011年02月07日、官報告示。
2010年10月10日備前長船
◆考古学の学生らとの見学会で岡山に。天王寺集合で備前長船へ向かう。今年、卒業論文で日本刀で書こうとしてい
る学生がいるため。デジカメを忘れるという失態。画像は携帯。
◆まず閑谷学校。儒教が柱となると、中国・韓国風となる。石垣にしても・・・。で展示を見ていると、孔子を祭る儀式で用いる、ヘン(有機質の高杯)・豆(刳り物の高杯)、そして青銅器の爵があって、唖然。有職故実もええとこや。先に韓国の青銅器イ器について祭器としての特殊化にふれたが、それと同じことを感じた。
◆道路沿いの讃岐うどん屋で昼を食べて、長船の資料館へ。展示室でわれわれが熱心に見ていると、丁寧に解説をしていただいた。第2土曜日で、刀鍜冶の実演があるというので見た。炭と鞴がいかに重要であるかを認識した。多量に放り込む炭、そしてず~っと鞴を動かして鉄素材を熱している様子に感動。鞴って、あんなにずっと動かしているものという認識が実はなかったのだが、実際に叩いている時間より鞴を動かしている時間の方が長い。製炭窯って、7世紀以降のものしか認識していないが、5世紀のものって見つかっているのだろうか。鍜冶技術の上で製炭技術もきわめて重要であ
る
ことがわかった。
◆それから中世福岡の市の跡地、看板を見に行った。少し川から入った旧道では祭りの最中、歩けば古い町並みのよく残っているところらしいが省略。
◆それから、備前市の歴史民俗資料館に、17時の手前に入り、さっと見るので見せてくださいとお願いして見学。もうだいぶくたびれた展示ではある。備前焼がメインだが、古い考古資料の部屋もある。香登鶴山丸山古墳の鏡が1面あった。
◆そこから、なぜか熊山遺跡をめざす。なんかぐるりと北側に廻り、夕刻の迫る山道を車で上がる。頂上に着き、駐車場に車を置き、学生らと遺跡まで少し歩き、、到着する頃はすっかりと暮れかかっていた。
その展望台からは、瀬戸
内が見渡せた。小豆島が大きく横たわり、なんとか川が流れ、屋島ものぞむことができた。
◆SAでラーメンを食べ、帰阪する。
◆まず閑谷学校。儒教が柱となると、中国・韓国風となる。石垣にしても・・・。で展示を見ていると、孔子を祭る儀式で用いる、ヘン(有機質の高杯)・豆(刳り物の高杯)、そして青銅器の爵があって、唖然。有職故実もええとこや。先に韓国の青銅器イ器について祭器としての特殊化にふれたが、それと同じことを感じた。
◆道路沿いの讃岐うどん屋で昼を食べて、長船の資料館へ。展示室でわれわれが熱心に見ていると、丁寧に解説をしていただいた。第2土曜日で、刀鍜冶の実演があるというので見た。炭と鞴がいかに重要であるかを認識した。多量に放り込む炭、そしてず~っと鞴を動かして鉄素材を熱している様子に感動。鞴って、あんなにずっと動かしているものという認識が実はなかったのだが、実際に叩いている時間より鞴を動かしている時間の方が長い。製炭窯って、7世紀以降のものしか認識していないが、5世紀のものって見つかっているのだろうか。鍜冶技術の上で製炭技術もきわめて重要であ
◆それから中世福岡の市の跡地、看板を見に行った。少し川から入った旧道では祭りの最中、歩けば古い町並みのよく残っているところらしいが省略。
◆それから、備前市の歴史民俗資料館に、17時の手前に入り、さっと見るので見せてくださいとお願いして見学。もうだいぶくたびれた展示ではある。備前焼がメインだが、古い考古資料の部屋もある。香登鶴山丸山古墳の鏡が1面あった。
◆そこから、なぜか熊山遺跡をめざす。なんかぐるりと北側に廻り、夕刻の迫る山道を車で上がる。頂上に着き、駐車場に車を置き、学生らと遺跡まで少し歩き、、到着する頃はすっかりと暮れかかっていた。
◆SAでラーメンを食べ、帰阪する。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。