人を幸せにする人になろう

丹比郡衙が見つかったらしい

◆詳しくは知らない、聞いたばっかりだが、丹比郡衙が出ているらしい。これは保存運動になりそうな気配がする。まずは松原市の現場を見に行かないと始まらん。国府も郡衙もまともに見つかっていない大阪府下の官衙遺跡、残して史跡にすべきですね。

牧野古墳の石室をスキャン

◆レーザースキャンの文化財への利用でもらった大学の研究費。申請の3分の1しかもらえなかったので、石室ea2d00c5.jpgのほか、大阪城の石垣でデモをやろうと思っていたが、経費的には1件分となった。秋にやるべく業者と夏には相談していたが、実際は今になってしまった。石舞台をと思っていたのだが、明日香村では既に予定されている(実施済?)とのことで、次のターゲットをさがし、牧野とした。
◆で、本日、計測作業をおこなった(20100307)。陰影図の仕上がりが楽しみである。人間による図化はこれからも必要だが、タッチの差もある。石の起伏の感じはわからない。レーザースキャンだと、石材の表面のでこぼこの質感まで表現できる。これから、畿内の標式的な石室は、同じ計測によるデータを集積させたい、それによって比較検討したいと思っている。その第1歩となる記念すべき1日だった。
◆ひとまず、標準的な6面の図面を作成するが、今後は例えば玄室や羨道の斜めから見たものなども作りたい。横穴式石室の写真はどうしても引きがないので、なかなか全体の石のc06416df.jpg丸っこさなどをよく表現した写真が撮りにくい。3Dでも単純な投影図ではやはりべたっとしたものになるが、斜めで石のあり方がよくわかるようなアングルを決めて、統一的に比べたいものである。

2010年3月7日の同窓会

◆3月7日、うちの5年ほど前に卒業したグループを中心に、前後何学年かに呼びかけた同窓52693926.JPG会が行われた。わたしは喜んで参加したが、教員側も含めてそう多くはなかったかなというところだが、楽しいひとときを過ごした。考古では、竹村(下の写真)・長原・阪井田君など。彼ら彼女等、社会人になって一定の期間が経過し、いろいろ仕事の話を聞くのは楽しい。日本史で修士課程まで出た中橋さんはいま大阪府警だが、いま刑事だそうである。読売の新聞記者になっているやつは福島からかけつけていた。
◆2次会も盛り上がり解散。近鉄の最終は早いが、JR大和路線の最終は0時33分。最終の1本f0aab649.jpg前に乗れたが、酔って眠り、気がつけば高井田を過ぎ王寺だった。またやっちまった。天王寺で遅くまで呑み、最初からタクシーで帰るつもりならまだしも、帰り着ける電車に乗りながら寝過ごし、タクシーに乗るのが一番ばからしい。前に一度、奈良まで行ってしまい、1万円かけて帰ったこともある。王寺からでも4000円かかった。あ~あ、ばかみたい。阪井田の論文はなんとかせなあかんな~。

1週間で85枚書いた

◆ある原稿、これを片付けなければ、ここ2年の仕事は完結しない。1週間で85枚書いた。あと少なくとも1回は遂行し註と参考文献をつければ完了する。必要な図面や表もだいたいは作った。なお仕上げるには1週間くらいかかるのだろうが、また忙しくなる前に、決着をつけたい。

絵図を見に行く

◆和泉市との合同調査、和泉市史の関係で、池田谷の近世初頭の集落を確認するために、東大の慶長国絵図と神戸市博の正保だっけかの絵図の資料調査に行く。おれがだよ。
◆なんの因果かはわからぬが、まあ自分が見て確かめたいからしょうがない。

栄原永遠男先生の最終講義(3月3日)

◆栄原先生の最終講義と茶話会だった。実行委員会を作り、年明けから準備してきた。オレは会計と雑用係。昨日から会場を下見し、プロジェクターをセットしたりして、今日は昼前から大学院生総動員で会場設営にあたった。まあ、大会場での大イベントではないので、ピリピリした緊張感と言うより、まあ致命的な落ちがなければなんとかなるという感じではあったが、それでも院生を動かすためのメモを作ったりして準備した。
◆結果、むろん先生のお人柄、講義の魅力もあり、会場いっぱいの方々に参集いただき、ほぼ予定通り推移し、茶話会でのスピーチもよく、実によい最終講義になった。満足である。最終講義は「歌木簡との遭遇」、昔をふり返るような話はしたくない、この数年、対外的にはしゃべる機会がありながら、大阪市立大学でちゃんと話をしたことがないので、ということで、先端の研究の話をされた。難波宮で「はるくさ」木簡が出土し、重点研究で取り上げたこともあり、カナとしての漢字利用について考えたこともあったので、興味深い話であった。もっとも最後は、お茶をサーブする生協との打ち合わせがあったので、会場を離れたが。
◆で、そのあと、杉本町の飲み屋。実に楽しい。濱田さんや安村さんや積山さんや古市さんや鷺森さんや清水さんや。ここぞとばかり、弥生後期の話を濱田さんにふっかける。酔いも作用しよくしゃべった。弥生後期の理解はぜんぜんちゃうな。近いのかも知れないが、専門家はやはり慎重、こっちはド素人なのでもっと単純に理解しようとする。おおむね庄内のはじまりは2世紀後半でよいのでは、というのは濱田さんも安村さんも同じような見解だった。古墳時代の話もしたが、まあそれはよい。いくつも刺激をうけたので、紹介する。
◆河内大塚山が欽明未完成墓であるという見方が、西田さんだけでなく安村さんもそう考えていることを知りびっくり。そしていままで聞いたなかでは考古学的な論拠も挙げている。ナルホド・・・
◆それにしても、おれが『古事記』崩年干支だのと言うことについての、強烈な反発、あるいは姿勢に対する疑問の声を2・3聞くことができた。要するに近藤義郎と同じである。考古学でちゃんとやれ、ということだ。
◆反論としては、なんで古墳時代を研究しているのに、古事記・日本書紀を使わないのか、それで終わり。姿勢なので、それはいたしかたがない。むろん、オレは実に中途半端ではあるが。
◆もひとつ。考古学でも、どこまでだって課題はある。つまり考古学で迫る姿勢を貫けば、結局は文献と対比してものを考えるということがないわけだ。それはいやだということだ。少なくとも大阪におり、倭国王墓を扱っている人間としては、考古学的にある程度やった、これに文献もからませれば歴史像が豊かになるのに、考古学の追究を100%完了をめざして77%を78%にするの一生をかけたくはない。
◆けっこう面白いもんだ。なにがじゃ。違和感が表明されることが・・・。107年倭国王帥升は重要な問題だが、しかし単発な記事である。重要な問題ではあるが、あれでもって九州とか畿内とか当てようとすると大きな誤りを招く虞があろう。弥生後期研究はそれとは関係なく進めるべし、というのはよくわかる。かつて、倭国乱を弥生中期末に置いた誤りが想起される。しかし古事記・日本書紀はそれとはちゃうやろ。まあ、いろいろ面白い話があった。
◆いまある原稿を書いていて、トコトン考古学の立場から書いている。最後は4世紀の話をするときに被葬者の話をするかもしれない。まあ、そういう姿勢ではあるのですよ。ここでも新納さんはモデルだ。徹底的に考古学の方法論にもとづき緻密な議論を組み挙げた上で、最後にチョロリ。あの手法はすごいもんだ。

ようやく渋谷向山の埴輪の原稿が出た!

◆表題の通り。玉手山1号墳の報告書は越年してしまった。それは、今回の報告書では玉1のモデルである渋谷向山古墳の資料を収録しているだが、その埴輪の原稿が滞っていたためである。それだけでなくチョコチョコしたものもあるが、大口がこれで出そろったので、ラストスパートである。

大和川の流域面積など

◆こないだ高井田駅にならべてあるチラシをみていたら、国交省の大和川についてのチラシあf30d4f5d.jpgった。近世の付け替えで様変わりはしているが、奈良盆地全域の雨水が河内に流れ込む7322fb41.jpgことが表現されていて、授業に使える図だと思った次第。
◆そのチラシには、昭和30年代の写真が示してあり、川で泳ぐ子ども達の姿が・・・。これ八尾市から提供されたものみたいだが、映ってるのはたぶん柏原市域だろうな。鉄橋があるから近鉄大阪線?道明寺線?。よく見ると、左端に電車も映っている。
◆ともかくも、日本一汚い大和川の水質汚濁は、それ以降ということになる。

雨、もう春ですね

◆2月末までに予算執行を、ということで、それぞれ図書費なり研究費なりの残額をほぼ今日で使い切って、今年度はオワリという感じ。今年度は大きな研究費はなく小口ではあったが、それぞれ有効に執行できたと思う。
◆午後は2次試験の採点。国語の答案を見ていて、なんというか・・・。設問に対する答えのようなものは当然、問題文中にちりばめられ、また全体として読み取るべきものだが、答案を見ると、ほとんどのものが、問題文中からある部分を抜いてくるなりミックスしたもので、内容を把握し、設問に対して自分の文で書いてくるものが決定的に少ない。抜いてくるもので、その箇所であることが妥当なものでも、単純に抜いたもの、あるいは多少組み替えたり、つなぎをするのだろうが、文章として通らないもの、これこれだからこう考えるという論理が順番としてちゃんとなっていなかったり・・・。そこに目をつけたことは正しいとしても、内容を理解しているかどうかがわからんものが多いのだ。問題文はなんら難解でなく明解だった。一度読めば、ほぼ作者の主張は理解できると思うのだが、その自分の認識にもとづいて自分の文章で意味の通る文章がきちんと書けていないし、抜き書きで構成してあってもいいが理解をもとに再構成してほしいのだが、現実はそうしたものが少ないのだ。きちんとわかっていること、そして問いに対する適切な回答となる文章が書けることがポイントで、そういう答案にでくわすと安心できるが、全体としては不確かなものが多い。自分の理解を文章にまとめる訓練が決定的に不足しているのだろう。

久しぶりに窯跡の踏査

◆きのうは、ものすごく仕事をした。大きな仕事ではもちろんない、ちょっとやれば済む仕事から、1時間もの、2時間もの、など各種。これだけやると気持ちいい~ものだ。
◆今日は大学入試で構内に入れないものだから、そして午後に会議があったので、前からやろうと思っていたe2f71a4b.jpg谷山池の窯跡を見に行った。夏の合同調査の時の方が水が少なかった。梨本池はほぼ満水。谷山池は、夏は分布図をもたずに行き、西側を歩いたが、ほとんど実は窯跡がなくはずれだった。今日は分布図にもとづき東側を歩く。
◆窯跡の分布調査は大学時代の岩倉古窯跡群以来である。高校の時に加古川の白沢の奈良時代の窯跡に行き、斜面一面に須恵器が散らばっているのを見て感動した(その後、山陽道で発掘調査)。それに近い状況だった。杯身・杯蓋がごろごろ落ちている。それと谷山池支群は7世紀のものがすくないのだが、かえりのついた杯蓋も見つけた(分布図で見る限り新発見か)。それと61号窯では瓦は確かに落ちているが、見たところ鎌倉くらいで、巴の破片も見つけた(先んじて和泉市教委が行き、完形の軒瓦や丸瓦が採集されていることを午後の会議の時に知り、会議終了後、いずみの国歴史館で見せてもらった)。それから、坂本寺の軽寺式が見つかっている谷山池12号窯に行く。12号窯そのもので焼いたのではなく、付近に瓦窯があるのだろうということになっているようだが、確認に行った。竹藪の篠で地表がほとんど見えずまったくわからなかったが、うろうろしている時に6世紀の須恵器が散っている箇所を見つけた。これも分布図からすると新発見。
◆そうなのだ。和泉市は公団の宅地開発に際して、古くは石部先生に投げ、またその後は発掘調査に追われたことはよくわかるが、もっとちゃんと分布調査をすべきだね。
◆報告書、恥ずかしながら、今日、はじめて和泉市から出ている報告書がならんでいるのを見た。これを見ないで和泉市史は書けないわな。うちの大学には報告書は入っていないのだ。和泉丘陵の概報Ⅰ~Ⅸ、そして赤いのが本報告書なんでしょうね、万町北の報告書なんて初めて見た。原稿以前、資料集めからだ・・・、それなくして池田谷の歴史なんて書けやしない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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