人を幸せにする人になろう

8月貧乏旅行の計画立案中

e723f041.JPG◆この車の寝泊まり貧乏旅行は、(1)東北(2)山陰(写真右)(3)昨年の四国に続く第4段となる。今回は南九州。
◆8月9日(日)4:00出発 藤井寺IC-山陽道(550㎞7.5時間)-11:30めかりPA昼飯-13:00出発-九州道・宮崎道(280㎞3.5時間)-16:30えびのIC-泊(えびの高原キャンプ村)
◆8月10日(月)霧島山(高千穂峰山登り・・・高千穂河原まで車で行き西からアプローチ・・・小澤さんのアドバイス-都城-志布志湾で海水浴(泊)
◆8月11日(火)唐人大塚-横瀬古墳-内之浦のロケット発射台-佐田岬-南ad62c45b.jpg大隅町根占港16:10-カーフェリーぶーげんびりあ-指宿市山川港-開聞岳近くの長崎鼻パーキングガーデン(泊)
◆8月12日(水)開聞岳に登るのはやめておこう-池田湖-ココはしむれ-砂むし温泉-吹上浜(海水浴)-どこまで戻るか(姶良町とか)
◆8月13日(木)14日朝には大阪に戻る必要がある。
※8月9日、橿考研から桜井茶臼山の検討会の案内ハガキが来た。どうしたもんだべ。

新彊ウイグル自治区のこと

◆中国もようやるわ。まず実態隠し。何人死んだか、だれも正確なところはわからない。そして圧倒的な軍事力(特別警察らしいが)で言うことをきかせる。押さえ込みに成功か。大中国はプライドを捨て、独立させればよいのに。周辺自治区がなくとも、十分に大国だ。
◆とはいえ、チベットにはたいへんな希少金属資源があるらしい。結局はそういうことだ。めんどうな少数民族支配など、やめてしまえばいいのに、中国の経済発展に必要な鉱物資源があるのだという。新彊はどうなのだろうか。
【追記】やっぱり、石油・石炭が国内の30%とか40%、それと希少金属、かなりの資源が新彊にはあるらしい。

自給自足

◆しばらく前に、テレビで自給自足に近い暮らしをしている人を取り上げた番組があった。とても面白かった。むろん、共感できる部分もあったし、こういう人もいるのだ、と知ること自体が新鮮であった。
◆1人目は、料理研究家だったオバサンが、南紀で自分で畑を耕し14年間一人暮らしをしているという。それが数年前で、今回、取材に行くと、人との繋がりが欲しくなって、ムコ殿を募集中で、また近所の人に料理を教えている、という変化があった。人間、雨露をしのげる家屋と、家のまわりに畑があれば、生きていけるのだ。とはいえ、電気やガスは使っているようだし、現金収入はあるんだろうか、蓄えか。まあしかし、自分で作ったものを料理して食べる、よく14年間も一人で暮らしてきた者だ。ふつうはこうはいかないよな。
◆2例目は、五島列島の廃屋を年間1万円で借り、海水からの取水装置を作り、塩を作って暮らす若夫婦+子1人。これが最高によかった。とくに奥さん。男が放浪の果てに五島列島にたどりつき、そこでどんな暮らしをしようが、どうでもよろしい。そんな男につかまって不幸な暮らしをしている、という気持ちがみじんもなく、ムカデが落ちてくるボロ屋ながら、自分で作物を植え収穫し、安全な食事をして、という生活にほんとうに満足している様子なのだ。この男がうらやましかった。あの子供はどんな野生児になるのか。そうか、子供が就学年齢になったとき、学校はあんまり近くにはなさそうだし、そのへんをどうしていくかだな。けど、見ててほんとうに、こんな暮らししてみたいと思ってしまった。
◆3例目は、茨城県だったか、無農薬はもちろん耕作機械をいっさい使わない農業を追究している夫婦。ここは徹底していて、電気ガスも拒否、薪ストーブでの調理。ここの場合、夫婦ともむろんそうした志向があり、互いに共感したことは確かだろうが、なんとなく無理をしているような気がした。男は自分の哲学を押し通し、奥さんはついていってる感じ。どこかで破綻しそうな気がする。いま歴史民俗資料館で見るような民具を使っている。エライと思うが、どこか我慢しているようなところはないか、ゆったりしていないような気がした。
◆こんな生活は自分には無理なのだが、農業をしたい願望はず~とある。定年退職後に始めるのはまず無理なので、遅くともいまごろからは始めた方がいい。近頃、家が欲しいね、とカミさんと話をする。そう、空き家でよいのだ。できれば田畑付きがいい。貸してくれるのでもいい。前に大阪・太子町で築300年の古民家が不動産広告に載っていて、見に行こうかと話していたら、翌週にはなかった。途方もなく敷地が広大で、家屋も大きかった。「半分でいいよな」と。で、まだ田畑が広がっているところで家をさがしたいと思っている。できれば、山も近い方がよい。そんなんで二上あたりはどうかと考えている。
◆どこかで、まじめに探しにかからないと実現することはないだろうが。古い家を少しずつ直すのって、いちばんやりたいことだ。しかし、もうやらないと、体が動かなくなるだろう。真琴(長女)はいま中3、彼女が大学に行くと、またオレ1人だ。2013年春か。それを目標にするか。いや、二上だったら、子供の通学もぜんぜん大丈夫なので、いまでもOK。やっぱり、本気になるかどうかだね。でも悲しいほど貯金がないのだ。

夏ですね

◆セミが鳴き始めました。夏です。

近藤義郎先生の蔵書

◆2006年9月のことだったか、新納先生の造山古墳の測量調査の手伝いに行った際、澤田秀実氏と近藤義39cc188b.JPG郎先生を訪ねた。久しぶりに先生にお会いし、楽しくおしゃべりをした。
◆2007年春、大阪市文化財協会の松本啓子氏を通じて岡山に来いと言った連絡がきたが、不義理をした。で2007年8月、澤田さんから連絡が入り、近藤先生から呼び出しだというので出向いた。1年前とうってかわり体が弱っているようでショックを受けた。春に肺炎をわずらい、入院をして、すっかり体重が落ちたとのことであった(写真は070930)。
◆近藤先生の相談というのは、いまお宅にある蔵書や資料をどうするか、あちこちに頼んでみたが、思うようにならないので、お前、引き受けてくれ、という話であった。
◆それから澤田さんと、引取先について打ち合わせ、蔵書については、岸本が整理と処理をすることになる。先生の蔵書は、岡山大学退官時に釜山大学にほとんど寄贈されている。釜山に行ったとき、申先生に見せていただいたことがある。なので、報告書は退官後に寄贈されたものが多いが、しかし先生は退官後も旺盛に調査をし報告書を出し著書を公刊されてきた。つまりなお研究に必要なものは手元に置かれていたので、貴重な研究書もなお多く含まれていた。
◆2007年秋を中心に、つごう7回+1回だったか、岡山に通い、データを入力し、箱詰めし、大阪市大に運び込んだ。けっこう精神的につらい時期だったので、岡山通いは楽ではなかった。なんでこんなことしてるんだろうと思うこともないわけではなかった。いつも車のなかでZARDを聞いていた。妙に結びついているのだ、わたしのなかでは。岡山通い=ZARD・・・=メスリ山編集。
◆岡大関係者、教え子もたくさんいるにもかかわらず、大事なことをわたしに託されたことを、ありがたい話と思い、近藤家の家のなかをすっきりさせるお手伝いと思ってやってきた。作業は澤田さんとくらしき作陽の野口友代さんと一緒にやった。
◆最終的に大阪市大にない図書については、うちの大学にいただけることになった。ありがたい話である。2008年、学生をつかって図書館に入っている本かどうかを仕分ける作業を続けたが、いまのと5d0d8205.jpgころ6割にとどまり未完である。整理の済んだものは、受け入れにまわっている。すべて「近藤義郎」のスタンプを押している。それと重複本でも、処分すべきでないもの、手元におかれて長年読み込んでおられたようなものについては、いま岸本研究室の一画に配架している。
◆昨日(07月05日)、近藤先生のお宅を訪ね、整理状況を報告し、最終的な処理方法について打ち合わせた。なかなか当初考えたような仕分けを完全にして、きちんとし仕上げるにはなお時間がかかってしまうし、しかしあまり長引くのもよくない。そこで、新たな提案をして了承いただいた。この間、本に埋もれて、なかなか進まないこと、かつ近藤家にも申し訳ないと、心理的な負担も大きかったが、新たな提案で区切りがつき、このあとはサクサクと整理したい。34b714a5.jpg
◆最終的に、この年度末までに、作成途上のリストを完成させ、決着をさせる予定である。
◆先生は、昨年夏に青木書店から刊行された『近藤義郎と学ぶ考古学通論』を、体のつらさを押さえて必死に校正を仕上げられた。改めて先生の信念の強さを感じた。近藤先生の生命力はきっとスゴイと祈らずにはおれない。
【追記091220】先生は4月に逝去され、半年間、それは伏せられていた。10月に訃報が出たが、12月、別に朝日に追悼記事が出たのでアップしておこう。11月に『遺跡学研究』に書いた小文、書き上げて、先生に献呈する一文を入れようかと思ったが、おこがましいのでやめた。前方後円墳を研究しているわたしは、先生の弟子のはしくれと思っている。先生はじめ、諸先輩の研究を乗り越えていくのが、われわれの責務だ。先生には、三角縁神獣鏡の年代論について「あぶないぞ」、みたいなことを言われたことを覚えている。卑弥呼は考古学では出てこない、とも。先生に、わたしの前方後円墳研究のコメントをいただけなかったのは、残念である。しかし、前方後円墳そのものをやっているという意味で、端くれではあるが、先生のご研究の柱を正統に継承しているとも思っている。

首長霊継承儀礼

◆前方後円墳が首長霊継承儀礼の場で、大嘗祭の原型ではないかということは、わりとしっくりくる。が否定的な見方もある。(1)こうした見方の大元である近藤義郎説を点検すること、(2)そして先入観なく自分なりに考える必要がある。
◆大嘗祭は延喜式で唯一の大祀とされる重要な儀礼。それは当たり前、この国を統治する大王・天皇位の継承儀礼であるから。その内容は、寝所があり、夜に行われ、先王との共食といった内容を含むが、それ以上のことは秘儀として不明。こうした内容も時代的に変形や付加があろうが、7・8世紀の頃には整えられ、基本的に変わらず現代に続く。この延喜式に確認できる儀礼のなかに、より古い時代、倭王権の成立とともに整備されてきた王位継承儀礼の本源的なものが含まれているであろう。ここまでは異論はあるまい。延喜式の大嘗祭の中身をよく知り、その本質を考えることが重要だ。
◆一方、こうした古来からのもっとも重要な儀礼である継承儀礼とともに、桓武が即位儀礼を整えたという。天皇位を継承し、それを百官に知らしめること、こうしたことが官僚制やそれにみあう宮の整備と共に、より重要となるに違いない。こうした即位儀礼は、雄略だったかの登壇即位にも通じる。宮を営む場所に土壇を設け、そこで神器を受け取り、大臣・大連を任命し、新たな体制を宣言する、そうした行為は5世紀後半に一定の整備が進められたと考えられている。これも古代史では一般的な理解だろう。
◆しかし、登壇即位はあくまでも即位儀礼であり、7・8世紀にもっとも重要とされた継承儀礼である大嘗祭にうかがえる内容は含まれない。即位儀礼が先で、継承儀礼があとで出現する、ということではないと思う。継承儀礼こそが本来的なもので古くからあり、これに即位儀が独立整備されたと理解すべきであろう。
◆そう簡単ではないか。大嘗会の整備は神話確立とともに7世紀に新たにできた、これが基本なのだろう。皇御孫命(すめみまのみこと)すなわちニニギのミコトこそが、米粒をアマテラスから与えられ、豊葦原の瑞穂の国の統治をアマテラスから委任され、代々の倭王はこの地位を継承する者である、という正当化論理。大王がこの国の統治者であることがこれによって根拠づけられる。それはアマテラスでも、神武でもなく、ニニギノミコトを引き継ぐ(日継)ということ。
◆「ニニギノミコトの祖霊を継承するのが大嘗祭の本質」この理解でよいか、ということがそもそもわからん。つまりは、それこそが折口信夫の説、真床御衾と大嘗祭の寝所を結びつける発想の妥当性判断の分かれ目になる。それ以前がどうかは別問題だが、まずそこの確認。
◆もうひとつ和田萃先生のモガリの研究だ。大嘗祭の開催と、モガリ研究から結論されている埋葬時期は一致するのではないか。
◆アマテラスやニニギノミコトがいつ作られたかはわからない。が、こうした神話構造にもとづく理屈が作られてから7・8世紀の大嘗祭はできたのであろう。4世紀には、ニニギなんていないだろうし、遠い始祖の霊を継承するという意識はないのだと。そうかもしれない。しかし一方で、遠い始祖をどのように意識し、それを継承してきているという意識がたとえなくても、プリミティブな段階としては、先代を引き継ぐ、それを繰り返してきたということが、次期首長たる根拠になってきたことを否定することにはならないだろう。そこに、あとからニニギがのっかるというのは無理な想定ではない。
◆ここまでにしておこう。大嘗祭の原型が古くにさかのぼるという先行研究をさらにチェックすることが必要だし、われわれとしては前期古墳の調査成果のなかから言えることを究明しなければならない。考えるところもあるが、いまはやめておこう。

パイオニアワークとは何か

◆本多勝一の書いたもので、わたしに一番影響を与えたもので、いまもって時々ながめるもの。それは「「創造的な登山(パイオニアワーク)」とは何か」だ。原典は、京大山岳部の『報告』第5号(1955年)というから半世紀以上前に書かれたものだ。のち日本実業之日本社から出された単行本『山を考える』(1966年)に収録され、わたしが読んだのは、朝日文庫になったもの(1986年)である。文庫本をめくると、奥付に1986.2.15.のスタンプが押してあり、1986年に買った17冊目であることを示すスタンプもある。まめでしたね。しかも、最終頁には、2月19日読了とある。1986年3回生の2月、先輩の卒業論文の手伝いも終わって、さぞ自由だったろう。この春、山形に運転免許を取りに行くことにし、金を貯めていた。埋文センターでアルバイトに雇ってもらい、生活を切り詰めて金をためていた。そういうことを何故か覚えている。3月下旬、山寺に泊まって、普通免許と自動二輪の免許を取りに行った。合宿の合間に、菅沢2号墳の埴輪出土状況の図面を取ったこともあった。卒論のテーマを三角縁神獣鏡に決め、森下さんの資料を借りて、合宿にもっていき、夜は三角縁神獣鏡をながめていた。いちばん元気があり、充実していた時期かもしれない。免許を取って、先輩の中古のバイクを10万円で譲ってもらい(1カ月1万ずつ支払った)、4回生になった4月下旬には乗っていたと思う。
◆脱線しました。このパイオニアワークとは何かというのは、山登りの話だが、ことは学問を含め仕事全般に、いや人生そのものにあてはまる。青い色鉛筆プルシアンブルー(赤青鉛筆を使い分けることが好きでした)で線が引いてある。この文章のなかのさまざまな文が、大きな影響を私にあたえた。
◆「一瞬一瞬、人間は常に新しい感情を抱いて、新しい計画のなかに身を投げるのだ―シモーヌ=ド=ボーボワール」
◆「創造することより他に喜びは無い―ロマン=ロラン」
◆「飛行機でも戦車でも持ちこめ。幾千人と動員して総攻撃せよ―高谷好一」これは目的のために手段を選ぶなということ。
◆「他人のやることにケチをつけるヒマがあったら、自分で多少なりと独創的な仕事をやってみろ―川喜田二郎」
◆「それじゃ君は、人間が利己的動機以外の動機で動くものだとでも思っているのかね?―サマセット=モーム」
◆君は何故山に登るんだい。「こういう愚問に対しては「では君は何故生きるのかね」と反問する事を以て回答としておくね。反問された男が多少なりともましな奴なら、彼が「生きて」いなかったこと、惰性の人生を歩んでいたこと、登山のような無意味な行為をやっている馬鹿な」男の方がむしろ自分よりも「生きて」いることに気づくだろう。」
◆「登山は何の利益ももたらさない。パイオニアワーク自体を目的としている。登ろうという意志そのものに意味があるのだ〔予は永遠に闘争する自由なる意志である―ロマン=ロラン〕。」
◆「根本的には本人が本当にやる気なのかどうかに懸かっている。君の周辺を見まわしても気付く事だろうが、ある計画を何人かのグループで立てたとき、その計画が実現するかどうかは、そのグループの中に「1人でも実行する」という決意の者が含まれているかどうかでほぼ決まるといっても良い。自分1人になっても手段を選ばず実行するほどの男がその中に1人でもいたら計画は成功するだろう。」
◆「個人の力というものを過信する気はないが、世の中で「彼だけでは出来なかった」といわれる事業の中には「彼なしでもまた出来なかった」ものが意外と多いものだ。」
◆「研鑽と努力による常套的アタックの限度以上は、残った確率何分の1かの可能性に賭けて突進するのだ。冒険の精神とはそういうものだ。」
◆「今為し得る賭けを為せぬ者は、未来の如何なる対象に対しても決して為し得ない者である。」
◆こうした考えに影響を受けて考古学をやってきた。この文章が書かれたのはチョモランマの初登頂で最大の目標を失ったアルピニストの世界の議論であるが、学問の世界はそうした明確なゴールはなく、すべてパイオニアワークたりうる世界である。なにか研究するとき、常に「ここまで行ったのはオレ1人」という境地をめざしてきたし、大阪市大で調査するとき、茶臼山やメスリ山や摩湯山の測量を、冒険と思ってやってきた。できるかどうかわからないが、やりたいものはやってみるのだ。
◆まあ、そんなカッコいいものではないが、この「パイオニアワークとは何か」が自分の思考のベースを形作ったことは確かである。なのでわたしには一発狙い志向もある。

なんでもないんですが

◆このところブログを書きまくっている。わたしの場合、ブログを書いている時は、なにかから逃避しているようだ。ほんとうのバロメータは日記、ここ3週間くらい書いていない。日々が充実していない証拠だ。
◆今日も、あれもこれも、やることはあるが、最重要課題にはつっこんでいない。調子が悪いわけではないが、張り切っていない。わたしは躁鬱の気がある。いまは穏やか。昨年の1~4月は最悪でした。完全な鬱状態。回復したいまとなっては不思議だが、すべてから逃げたいと思った。3月、どん底。ついに心療内科に行った。自分の状態を説明している時、涙がぼろぼろこぼれた。医者は、休めと。いま頑張ったら折れてしまい、一生がダメになる、と。半年休めと。休職を願い出ることはしかし、自分では現実味がなかった。GWから5月にV字回復を果たした。よく夏に発掘にこぎつけたものだ。メスリも出た。
◆しかし年末からまた怪しくなった。無力感。でも、これは軽微なまま回復した。いまは全然なんでもない。支えてくれたのはカミさんだった。毎週、大阪に帰ってきてくれ、気晴らしに連れ出してくれた。多謝。
◆こんなことも書いておこう。ウソ偽りのない自分の姿だ。いまは安定し、ペースメーカーもある。授業も楽しい。
◆話を変えて。大学の頃から、専門の本以外はほとんど読まないなかで、本多勝一をずっと読んできた。読み始めは高校の時に、受験勉強対策で『日本語の作文技術』を読んだことに始まる。『貧困なる精神』シリーズも、全巻はないがほぼある。結構、ブログを書いていると『貧困なる精神』を思い出す。本多も定年退職、週刊金曜日は創刊号から読んでいたが、いつのころからか定期購読が切れた。そういえば、週刊金曜日編集部に就職できないか、と思ったこともあったような気もする。
◆いつのころからか廣瀬隆にはまった。大学時代に『危険な話』を読んだが、90年代だ、たいがいの本を読んだのは。巨大な金融投機屋が世界を動かしているというのは、事実だと思っている。これがグローバル化の実相である。現代世界史の裏は、われわれには想像もできない。日本の資産は、巨大な作為の前に盗まれ続けている、と思っている。
◆で、いまは。なにもないんだけど。立命館大学の社会学の立岩真也さんの書くものに興味がある。著書は読んでいない。この人の話、最初に知ったのは、5年以上前、まだ信州大の助教授だった時。たしか正月頃の記事だった。人が生きることが重要で、経済活動もそのためにあるのであって、競争を否定する話だった。どこかに記事がとってあると思う。で、編入学試験の担当たっだ時、小論文の試験問題に取り上げた。その回答にがっくりしたことを覚えている。若者は、いい暮らしをするために競争があるのは当たり前で、負けた者はしゃーない、と考えているのだ。そうした競争を否定する、そうでない社会の実現をめざすべし、という立岩氏の主張に対して共感がなく、競争は必要だという回答ばかりで、愕然とした。そんなにもゆったりと暮らして3de5ef81.jpgいないのだ、そんなにも、小さい頃から競争社会に浸かりきっているのだ。
◆いま手元にあるのは2009年03月02日の記事。「できる人が得をし、そうでない人はしょうがないという能力主義や業績原理は、我々の社会が是としているものです。しかし基本的には非と言えると私は考えています。しかし同時に、市場はたしかに便利なものであります。ならば、市場の中でついてしまう差をどうやってならしていくか。やり方は、考えるところ三つしかない。」で、その次の週の続きは残念ながら見逃しております。切り抜きを探したら、2006年04月21日のものが出てきた。編入学の試験問題に出した最初のヤツではないが。
◆基本的に賛成なんだな。そう大きな差は正当化されない、と。同感だ。そうした再分配をいかに実現するか、ということだ。そういうことを言うと、保守層のみならず、受験者の考え方でいけば若者からも、「アカ」、「共産主義者」とたぶん言われる。極端やね。なにが理想像か、それが共産主義かどうかはわからないし、関心もない。19世紀にわれわれは既に競争社会の行き着く悲惨を見ている。社会保障や最低賃金や、失業保険や、そういうものうぃ、われわれは構築してきている。そしてこれからも、セーフティーネットをいかに効果のあるものとして整備していくか、という話をしているつもりなのだが。みなが幸せに生きるための再分配の仕組みを整えるべし、それはまったく正しい。そして、それはいまの日本のGDP、そしてわれわれがふんだくられている所得税、住民税、それら税収でかなりのことが実現できる。使い方なのだ。
◆立命館はいい人をひっぱってきた。これから結構、登場する頻度が高くなると思うよ。予告しておこう。
◆ZARDの歌の一節が好きだ。「誰かに必要とされたいから・・・」。そう、人間ってそういうものなのだ。さあ、仕事しよう。

博物館学芸員課程

◆06月29日、大阪大学であった博物館法施行規則改正の文科省による西日本説明会に出た。文科省の役人3人。頭のいい人たちなんでしょうね。
◆メモをまとめて文学研究科長と教務委員会に上げ、また全学にも上げてもらわねばならないのだが、メモを作る気力がない。意欲はあるのだが。
◆さて、1万人が資格をえても学芸員をほんとうにめざしているヤツのパーセンテージはきわめて低い。資格が取れるというのは、大学のウリだし、学生もなるならん(ならんやつが圧倒的)に関係なく資格はとっとく。一方で、この資格がなんの役にも立たないものだから、強化しようというのが今回の趣旨。ちなみにわたしは資格ありません。むかし奈文研にいたが、たとえば飛鳥資料館に転任を命じられても、それはOK。なぜか国立博物館は学芸員資格はいらないのだとか。へんな話。いまはどうなったのだろう。
◆わたしは、あんまり市大の学芸員課程に関与していない。深く関わって考古の教員をさらに獲得することをねらうということもあるし、どこでもそんなことを考えているのだろうが、これまでのところ、まったく深くかかわっていない。で、あんまり考えたことがなかった。文学部の教務に2年携わり、博物館実習のガイダンスもやったが・・・。そんなわたしですが、昨日の会議のあと思ったこと。
◆文科省のいうように世界に誇れるキューレーターの要請をめざす、そこまでいかなくとも即戦力の実力者を養成することをめざすとした場合、そのために各大学頑張れ、というのはやめにしませんか。学芸員になる気もないやつのために一生懸命、科目を増やし、授業をやるのはむなしい。ほんとうに力ある学芸員を養成するのなら、国家試験を導入すべし。司法試験や医師免許試験と同様にする。誰でも受験が可能。年令制限もなし。ただし高度なペーパーテスト。その及第者が1年間、上野で研修する。自然史系は科学博物館、美術系は近代美術館や東京都の美術館、動物園は東京都だが上野動物園、人文系は東京国立博物館。近くには芸大もあるし、国立文化財研究所もある。そこで、分野にわかれみっちりと修行をする。そうしてはどうだろうか。大学は学芸員養成を担わなくてよい。ほんとうに実を上げたいのならそうすべきだ。プロを要請することだ。
◆まあ、そんなこと言うたかて、しゃーないし、うちの体制を考えなきゃならん。おれも博物館の科目のひとつくらいはもたなあかんねやろ・・・。専任とることは限りなく無理だし・・・。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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