人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
コピーカードが出てきた!
◆スペインの放散虫学会に参加した時に配布されたチョッキを出してきて切ると、右ポケットにカードがあり、わたしのコピーカードだった。うれしい、出てきた!。
◆まあ、疲弊の原因は、いろんな仕事が片付かないまま累積している状態に対する精神的なものです。ぼちぼち片づけましょか。
◆まあ、疲弊の原因は、いろんな仕事が片付かないまま累積している状態に対する精神的なものです。ぼちぼち片づけましょか。
2018年11月22日、雲雀山
◆滋賀県、現長浜市の雲雀山古墳群の3基をうちの大学が掘ったのは、1951年と1952年のこと。大 学には収蔵室のようなものがあり、そこにいろんなものがあったようだ。いまの文学部棟ができた時も、1室がそれにあてられていたのかな。2000年にどうであったかも、もはや記憶にない。考古学実習室なる1室があって、その後、引っ越しも何度かやったような。
◆藤原さんが去り、角田さんも辞め、関係者は直木先生のみとなり、1981年だかに栄原先生に引き継がれる。1993年の頃に、8割がたの資料を安土城考古博物館に預けたようだ。
◆2000年以降、考古学実習などで、倉庫にある遺物をひっかきまわしたりして、一応、東栗山などの縄文土器類、糞置の資料など、仕訳はして4階の機械室に入れてある(本来は301室をもらった段階で移動すべきでした)。雲雀山の資料がちらほら残っている、という程度の認識でした。
◆本日、安土城博の方が来られ、関係資料を集めることになった。栄原研究室からわたされた短甲は、そのまま自分の研究室に入れていた。ガラス小玉は301に展示。鉄器をやっている院生が鉄鏃の図面を書く練習をして、整理してくれていたもの。4階機械室から、須恵器、土師器壺、鉄器の残欠。これらが、ようやっとひとまとまりとなった。こういう機会でもないと、収まっているものを何とかすることもありません。いい機会をもらった。5箱に収納し、暗室にまとめておきました。既に大部分が安土にあり、うちで持つつもりはない(ミュージアムができたとしても)。移管にむけて相談していくこととなる。
◆今日は大仙古墳の見学会だそうですね。
◆藤原さんが去り、角田さんも辞め、関係者は直木先生のみとなり、1981年だかに栄原先生に引き継がれる。1993年の頃に、8割がたの資料を安土城考古博物館に預けたようだ。
◆2000年以降、考古学実習などで、倉庫にある遺物をひっかきまわしたりして、一応、東栗山などの縄文土器類、糞置の資料など、仕訳はして4階の機械室に入れてある(本来は301室をもらった段階で移動すべきでした)。雲雀山の資料がちらほら残っている、という程度の認識でした。
◆本日、安土城博の方が来られ、関係資料を集めることになった。栄原研究室からわたされた短甲は、そのまま自分の研究室に入れていた。ガラス小玉は301に展示。鉄器をやっている院生が鉄鏃の図面を書く練習をして、整理してくれていたもの。4階機械室から、須恵器、土師器壺、鉄器の残欠。これらが、ようやっとひとまとまりとなった。こういう機会でもないと、収まっているものを何とかすることもありません。いい機会をもらった。5箱に収納し、暗室にまとめておきました。既に大部分が安土にあり、うちで持つつもりはない(ミュージアムができたとしても)。移管にむけて相談していくこととなる。
◆今日は大仙古墳の見学会だそうですね。
疲弊しております
◆2018年11月21日、「大学史資料館(仮称)」WGに対し、学長から進捗を報告してほしいとのことで、この日、理事長(学長)と副理事長と面談。経過や今後について意見交換。わたしは資料調査の途中経過を報告した。近世古文書が1.8万点、人骨が1000体、鉱物・化石(とくに放散虫)(まだ数が出せません)、植物園のさく葉標本1.5万点、ほかを紹介。研究資料として断層資料の整理されたもの、なども報告。
◆2020年に140周年記念展示をやり、その先で博物館を作るという、基本的方向性はトップもそう考えてくれている。博物館はできそうだ、と思っています。
◆午後もその仕事を学情でやって、研究室に戻って22時まで続きを。年内に基本構想の叩き台を作ることになっているのですが、わたしが書くことになっています。
◆帰る途中、もう何だかへろへろで。これは半分は精神的なものかな。体力的にというより、この仕事の比重が高まる中で、いろんなことができないことについての疲弊です。しかるべきポストに就けてもらい、専任でやれといわれれば、よほど楽。それをこちらから言わんといかんかなと、帰りながら考えていた。臨時調査員を増強し、2019年度は大学史とも組織を統合しても、教員側の体制がボランティアでは、なかなか進まないのでは、と思う。金が潤沢で展示業者が入って、だいたいのことをしてくれるというなら、なんとかなっていくかもしれないが、たぶんそうもいかないだろうし。やりたい仕事であっても、物理的に時間を割けない状態のまま荷物をしょわされるのも大変である。
◆しかしまあ、ぐっすり眠り、朝の寝覚めはよかった。頭もすっきりした。さてと。
◆2020年に140周年記念展示をやり、その先で博物館を作るという、基本的方向性はトップもそう考えてくれている。博物館はできそうだ、と思っています。
◆午後もその仕事を学情でやって、研究室に戻って22時まで続きを。年内に基本構想の叩き台を作ることになっているのですが、わたしが書くことになっています。
◆帰る途中、もう何だかへろへろで。これは半分は精神的なものかな。体力的にというより、この仕事の比重が高まる中で、いろんなことができないことについての疲弊です。しかるべきポストに就けてもらい、専任でやれといわれれば、よほど楽。それをこちらから言わんといかんかなと、帰りながら考えていた。臨時調査員を増強し、2019年度は大学史とも組織を統合しても、教員側の体制がボランティアでは、なかなか進まないのでは、と思う。金が潤沢で展示業者が入って、だいたいのことをしてくれるというなら、なんとかなっていくかもしれないが、たぶんそうもいかないだろうし。やりたい仕事であっても、物理的に時間を割けない状態のまま荷物をしょわされるのも大変である。
◆しかしまあ、ぐっすり眠り、朝の寝覚めはよかった。頭もすっきりした。さてと。
667年の記事は3人の埋葬でもおかしくないのでは
◆皇極は643年9月に母の吉備姫王を、梅山の東に埋葬する。自分の墓を造り始めていた可能性はあるが、それは不明。場所の選定や整地にとりかかっていた可能性はある。が、乙巳の変が生じ、孝徳期10年となる。その間、譲位した先の王の墳墓造営が進められていたかどうかは不明。一旦ストップなのか。重祚して655に再び王となる。一方、大化薄葬令で没後造墓となったとすれば、予定地は決まっていても、造墓はなされていないのかもしれない。
◆658年5月に孫の建王が死ぬ。今来に葬り、自分もそこに埋葬せよと。それが鬼の俎板とみることには慎重さが必要ではあろう。が、吉備姫王墓であ るカナヅカの東隣で、その場所に墓を営むにふさわしいのが皇極(斉明)であることは確かだろう。死んだ建王の墓の造営は必要であり、日本書紀から、自分も入る墓を営むことはありうるようにも思う。鬼の俎板は、花崗岩刳り抜き組み合わせタイプ。その底石の幅は5尺あり、薄葬令の規定を越えている。王と考えることは可能。とはいえ、斉明墓を造るとなると八角墳とみるのが自然であるが、八角墳に石槨2基をどう埋め込むんでしょうね。鬼の俎板東槨もほぼ同規模の底石で、8歳で死んだ孫には大きいようにも思うが・・・。
◆661年7月にその斉明が没する。鬼の俎板に葬る。
◆665年2月に斉明の娘の間人が没する。天智は、斉明と間人の合葬墓として牽牛子塚の造営を始める。あれがどれくらいかかってできるのか。そこそこかかるんと違いますか。で、667年2月の前に、嫁の太田皇女(天智の妻)が没し、あわせて隣に太田の別墓を造ることとする。斉明にとって血縁の孫である建王も改葬して斉明墓に入れたか。斉明と太田とは血縁はないので別墓とし、しかし建王の母であることから、その隣に塚御門を造る。で2月に埋葬する。この日に3人を埋葬(うち2人は改葬)するというのでいいように思います。間人の死没からあまり時間的経過はなく、牽牛子塚の造営に一定の年限かかっているだろうから、太田の死没にともなってもう1基隣に造営して、その完了をまって一斉に埋葬したとみることも不自然ではない。むろん、文武期の修築も考慮する必要があるが。
◆白石先生は、文武期まで岩屋山が斉明墓であって、8世紀頭に牽牛子塚を新築し移したと理解しているようだ。が、それだと陵の前に太田を葬ったという667年2月の記事と矛盾しますよね。これは、牽牛子塚古墳が、横口式石槨でも羨道なしのⅢ類とするから、年代は大きく下降する、ということになる。しかし、あの大きな閉塞石の両側には、幅広ながら一定の羨道部がのびていた、とみることができると思うわけです。
◆658年5月に孫の建王が死ぬ。今来に葬り、自分もそこに埋葬せよと。それが鬼の俎板とみることには慎重さが必要ではあろう。が、吉備姫王墓であ るカナヅカの東隣で、その場所に墓を営むにふさわしいのが皇極(斉明)であることは確かだろう。死んだ建王の墓の造営は必要であり、日本書紀から、自分も入る墓を営むことはありうるようにも思う。鬼の俎板は、花崗岩刳り抜き組み合わせタイプ。その底石の幅は5尺あり、薄葬令の規定を越えている。王と考えることは可能。とはいえ、斉明墓を造るとなると八角墳とみるのが自然であるが、八角墳に石槨2基をどう埋め込むんでしょうね。鬼の俎板東槨もほぼ同規模の底石で、8歳で死んだ孫には大きいようにも思うが・・・。
◆661年7月にその斉明が没する。鬼の俎板に葬る。
◆665年2月に斉明の娘の間人が没する。天智は、斉明と間人の合葬墓として牽牛子塚の造営を始める。あれがどれくらいかかってできるのか。そこそこかかるんと違いますか。で、667年2月の前に、嫁の太田皇女(天智の妻)が没し、あわせて隣に太田の別墓を造ることとする。斉明にとって血縁の孫である建王も改葬して斉明墓に入れたか。斉明と太田とは血縁はないので別墓とし、しかし建王の母であることから、その隣に塚御門を造る。で2月に埋葬する。この日に3人を埋葬(うち2人は改葬)するというのでいいように思います。間人の死没からあまり時間的経過はなく、牽牛子塚の造営に一定の年限かかっているだろうから、太田の死没にともなってもう1基隣に造営して、その完了をまって一斉に埋葬したとみることも不自然ではない。むろん、文武期の修築も考慮する必要があるが。
◆白石先生は、文武期まで岩屋山が斉明墓であって、8世紀頭に牽牛子塚を新築し移したと理解しているようだ。が、それだと陵の前に太田を葬ったという667年2月の記事と矛盾しますよね。これは、牽牛子塚古墳が、横口式石槨でも羨道なしのⅢ類とするから、年代は大きく下降する、ということになる。しかし、あの大きな閉塞石の両側には、幅広ながら一定の羨道部がのびていた、とみることができると思うわけです。
茅原狐塚の須恵器はいずこ
◆批判を受けているので、求められている作業はしてみようとは思いますが・・・。とはいえ、石室は 相対年代です。尺度からすると、小谷古墳や文殊院西の方が岩屋山より古いと考えられ、そういうことには言及しようとは思います。
◆でも結局は土器の土俵での議論が求められているわけです。とはいえ、その土俵での議論とは、茅原狐塚と、葉室石塚と、西宮、の話にはなる。でも結局は、石塚だって長頸壺が飛鳥Ⅱとしても、あれは追葬を考えないといけないし、西宮の場合は小型高坏の蓋と思うので、甘樫くらいです。結局は現物不明の茅原狐塚の須恵器なんです。わたしの見るとこと、坏身の立ち上がりがけっこうしっかりしていて、古そうに見え、問題は径になってきて、古い報告だし、径を測り直す必要があるのですが、現物がなければこれもやりようがないわけです。とはいえ、狐塚の資料が飛鳥Ⅰにくだってもいいが、中葉近くまで下ることはないだろう(右)。
◆この資料が、石舞台式がTK209型式期に中心がありながら、650年代にかかるまでの飛鳥Ⅰまでず~と作られていた、という白石先生の唯一の年代根拠となっているわけである。これによって、岩屋山式はそのあと7世紀第3四半期なんだという、ことになってしまうわけです。
◆でも結局は土器の土俵での議論が求められているわけです。とはいえ、その土俵での議論とは、茅原狐塚と、葉室石塚と、西宮、の話にはなる。でも結局は、石塚だって長頸壺が飛鳥Ⅱとしても、あれは追葬を考えないといけないし、西宮の場合は小型高坏の蓋と思うので、甘樫くらいです。結局は現物不明の茅原狐塚の須恵器なんです。わたしの見るとこと、坏身の立ち上がりがけっこうしっかりしていて、古そうに見え、問題は径になってきて、古い報告だし、径を測り直す必要があるのですが、現物がなければこれもやりようがないわけです。とはいえ、狐塚の資料が飛鳥Ⅰにくだってもいいが、中葉近くまで下ることはないだろう(右)。
◆この資料が、石舞台式がTK209型式期に中心がありながら、650年代にかかるまでの飛鳥Ⅰまでず~と作られていた、という白石先生の唯一の年代根拠となっているわけである。これによって、岩屋山式はそのあと7世紀第3四半期なんだという、ことになってしまうわけです。
被葬者論よりかかりと批判されるが
◆岩屋山式石室の年代をどう決めるか。被葬者論に寄りかかっていると批判を受ける。そうでないと思っているけれども、半分はあたっているかもしれない。
◆以下、難波宮本に1年半前に書いたことです(出てませんが)。石室をならべる、石室から出た須恵器を点検する。それを参照する須恵器編年が確立していて、かつ岩屋山式石室から十分な須恵器が出ているなら、須恵器によって年代の裏を取ることは必要。しかしそうではない。7世紀前半の須恵器編年は確立していないし、岩屋山式石室から須恵器は出ていない。
◆石室の年代を須恵器を介在させて決める必要はない(極論でしょうか。前にも書いたのかもしれませんが、覚えてませんし、ダブルかも)。須恵器だって飛鳥寺下層とか山田寺下層資料について、遺跡が飛鳥寺であることや山田寺であることの認定の上に、588より前とか、641より前とかを決めている(考古学だけで年代決定はできない)。そのことと、確実な被葬者論にもとづき、石室の年代を考えることに、方法論的に何ら差はない。寺と墓とかいう遺跡の種別でなく、比定の確実度の問題。あの明日香村にある1塔3金堂の寺院が飛鳥寺であることと同じくらいに、牧野古墳は彦人墓と考えてよい。なので、牧野は600年前後まで生きていたと思われる彦人墓であるから、あの石室は680年代後半であり、あれらの土器は600年前後で考えることができる。創建年代のわかっている寺院の下層土器の場合、〇年より前としかいえない。あるいは一括性が問題になる。しかし石室の場合、こっちの方がよりダイレクトに年代の参考値になる、ともいえる。
◆以下、難波宮本に1年半前に書いたことです(出てませんが)。石室をならべる、石室から出た須恵器を点検する。それを参照する須恵器編年が確立していて、かつ岩屋山式石室から十分な須恵器が出ているなら、須恵器によって年代の裏を取ることは必要。しかしそうではない。7世紀前半の須恵器編年は確立していないし、岩屋山式石室から須恵器は出ていない。
◆石室の年代を須恵器を介在させて決める必要はない(極論でしょうか。前にも書いたのかもしれませんが、覚えてませんし、ダブルかも)。須恵器だって飛鳥寺下層とか山田寺下層資料について、遺跡が飛鳥寺であることや山田寺であることの認定の上に、588より前とか、641より前とかを決めている(考古学だけで年代決定はできない)。そのことと、確実な被葬者論にもとづき、石室の年代を考えることに、方法論的に何ら差はない。寺と墓とかいう遺跡の種別でなく、比定の確実度の問題。あの明日香村にある1塔3金堂の寺院が飛鳥寺であることと同じくらいに、牧野古墳は彦人墓と考えてよい。なので、牧野は600年前後まで生きていたと思われる彦人墓であるから、あの石室は680年代後半であり、あれらの土器は600年前後で考えることができる。創建年代のわかっている寺院の下層土器の場合、〇年より前としかいえない。あるいは一括性が問題になる。しかし石室の場合、こっちの方がよりダイレクトに年代の参考値になる、ともいえる。
御所を歩く
◆大平塚に行き、竹内峠を越えてまた奈良に戻り、昼食。平林を経て、中将餅。そのあと新庄経 由、御所に行く。風の森を作っているのは油長酒造。そこでは販売していなくて、東川酒店というところに行く。お酒1本と、前掛けを買いました。来年度は黒牛ではなく、風の森の前掛けをしたいと思います。そこで親切にも案内図をもらい、葛城川をはさんで西町と寺内町の東町を見て歩く。なんとなく湯浅を思い出す。奈良は、大和棟の農家の集落もいいのだが、けっこう陣屋町があって、ウダツのある町屋の残る町場も少なくない。そのなかでも御所はいいと思うんですけど。伝建にはなっておらず、町歩き観光客もまだ少ないよう。
◆モリソン万年筆の本店だったところはカフェ&バーになっていて、16時まで喫茶は開いているということだったか、夜の部まで閉まっていては入れませんでした。残念。環濠も細くなりつつ残り、背割り下水も残っていて、実にいいところでした。
◆モリソン万年筆の本店だったところはカフェ&バーになっていて、16時まで喫茶は開いているということだったか、夜の部まで閉まっていては入れませんでした。残念。環濠も細くなりつつ残り、背割り下水も残っていて、実にいいところでした。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(01/27)
(01/16)
(01/13)
(01/11)
(01/05)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。