人を幸せにする人になろう

てきめんに物覚えが

◆人名等が出てこない、というのはト~の昔に始まり、いま、ここ最近、物覚えががっくりと落ちていると、感じる。ちょっとだけ前(5分・10分)に話をしていたこと、読んでいたこと、が、思い出せません。たばこの吸い過ぎもあり、脳みそがどっと壊れて行っているんでしょうか。痴ほうの日も近そうです。引退を考えないといけません。
◆こないだ土曜日、会議があって大阪歴博に行き、いま始まった企画展の招待券をいただいたの で、では見ようと。大阪歴博の企画展、あんまり見てませんね。かなりの展示スペースがあり、ずら~と資料がならび、パネルが貼ってある。こんだけ準備するのは大変だ!。戦前の大阪に、かくも多くの、貧困層救済等の支援団体があったことを知る。図録があるんかな、と思ったら、分厚い高そうな・・・、と、やめておく。あれだけの企画展示室を埋めれば、貼ったパネルや展示した資料類も膨大で、一通り収録しようとなると、そうなるんでしょうね。こっちとしては興味深い展示で、パネルを読んで学習したことを(既にほぼ忘れているが)、そのエッセンスを収録した16頁とか32頁くらいの冊子が300円とかであれば、買っておこうというところだが、そうはいかないわけです。

自分が何をしているのか

◆石岡市の方から講演会の資料を送っていただきました。前に資料を送っていただき、自分の書い たものを送ろうと、ちょっと準備したようにも思うが、出したかどうかが定かでない。たぶん・・・、出していないんでしょう。
◆すいません。ブログを見ていただいているようなので、この場をお借りし、お礼申し上げます。ありがとうございました。鹿子大塚山って終末期なんですね。円墳がずら~とならぶ、で、方墳が突然来る。岩屋古墳の写真も興味深いものでした。
◆わたしは、587年蘇我―物部戦争は、むろん王位継承問題が第1であろうが、前方後円墳の廃止と方墳化という蘇我氏、前方後円墳の継続ないし円墳化という物部氏、という対立軸もあったという見方をしています。円墳といえば栃木県壬生車塚がよく取り上げられるが(いまネットで見ると、石室がいい・・・、見たい、と思ってしまう)、この地域も円墳ですね。畿内では太秦が円墳が多いなと山城郷土資料館の講演の準備をしていて感じました。物部氏、って安直ですけど。で、遅れて出てくる方墳である茨城古墳40m、興味あります。

ご無沙汰しています

◆あまり調子は上向いてはいないが、こなしております。発掘終了後ですが、毎週木曜日の午後、2人の卒論生それぞれと、2時間程度ずつ、卒論指導を続けています。彼女らはまったくちゃんとしていて、それぞれ、その都度の報告にもとづき課題となったことや次はこういう分析をしてみたら、ということに応え、毎回、ちゃんと進展を見せてくれます。午後から始め、今日も18時前となりましたが、やりがいがあるので充実感があり、うれしいものです。
◆前期は資料の収集中でもあり、研究会の報告くらいで、個別はあんまりやってきていませんが、院生も含めて、いま少し個別に対面して話をする機会を増やした方がいいですね。やれば進めていける学生たちですから。
◆そんなんで、久しぶりにブログを書いてみました。後期、市大ミュージアムにむけての資料調査に調査員1人の雇用賃金が付き、わたしの指揮下ということになり、これを回していかなければならず、先週来、そっちの仕事がそれなりの比重であります。有能な人なので、きっちり仕事はしてくれます(ひとまず図書館の近世文書の現状把握から入っています)。ですので、こっちは段取りをつけていく仕事です。
◆この間、難波宮シンポ本の仕事も、こちらでやることをやって手を放し、印刷屋にあとは任せるため、先の3連休は結局はすべて『難波宮と大化改新』の仕事で暮れていきました。入稿作業は2日で終え、3日目は、冒頭の総論の原稿を書いていました(夏休み前からやっていたのですが・・・)。文献史の改新論の方はおおむね書いたのですが、難波宮の方は、以前に2回書評をやった時のものをベースにリライト、と思ってましたが、面白くなく、止まってしまいました。早く終わりたいものです。
◆ぼちぼち生きております。

いや~しんどい

◆10月1日に新学期が始まり、昨日の3日目でもう疲れています。仕事がたまり、あれもこれもせなという圧迫で、どよよ~んと。とにかく捌かないといけないので、物理的に時間をかけないといけないのですが、人間ですし、気が滅入ると何も手に着かないようで。メールもたまると茫然・・・。
◆せっせ、せっせと、いう回転にはなかなかなりませんが、今晩はバタンQでなく、ちょっと頑張ってみます。

京大吉田寮の保存問題

◆中尾芳治先生と別件でメールでやりとりしましたが、いま、表記の問題に、元寮生として関わっておられるそうです。

真田山旧陸軍墓地

◆こないだの大歴委員会で話があった件。NPO法人のブログに記事が上がりましたので紹介しま す。http://sanadayama.blog.fc2.com/blog-entry-32.html

2018年9月19日(水)~21日(金)、府中合同調査

◆今度は日本史の合宿。いよいよ府中の調査。府中は5つの町会があり、聞き取り調査が中心。初 日の午後は、2年前の肥子の時におよそめぐった、この地域の水路の未確認部分をめぐっていた。
◆最終日の報告会の時に配布した図を示します。明治の地籍図段階の府中の地籍は、院生が事前にトレースしてくれていて、黒線の範囲。これを見ると、条里大区画の4単位であることがわかる。伯太は1単位だったし、とくに芦部の時に芦部町域が1単位であることに驚いたのと同じ。府中でいえば、和名抄では上泉郷と下泉郷だが、江戸時代では上泉郷は限られた範囲となり、上條郷と下條郷という名前に変わっている。府中は上條郷の東端部の4区画分が村域となっているわけである。
◆江戸時代の村々が基本的に中世にさかのぼるとして、その村域というのは古代の行政区画と無関 係に自立した村としてそれぞれの領域をもつように思いこんでいたが、そうではないわけです。古代に郷域ができあがり、それが維持されていく中で、生活単位もそれにしたがうものとして形成されるわけです。7世紀の法隆寺郷が軽部郷の一画を割いて与えられるように、庄園なども郷のなかで、しかも36町大区画を基準に所領の区分などがなされていくのであろう。
◆芦部村1区画、府中村4区画という区画がいつどのように設定されるかという問題である。10世紀に名田ができてくるあたりに遡及するのではないか。現代につながる集村の成立は中世とされるが(そうでなくさかのぼるとの意見も)、それは古代のこうした条里地割の大区画を基礎とする単位の中で形成されてくる、と考えられるのではないだろうか。そのへんは、ぜんぜん研究史的なチェックはできていないが、感覚的にはそう感じる。近世村の領域は条里に規制されているのではないか、それが中世やら近世にできあがってくるのでなく、その前のより古い時期にこそ、こうした地割にもとづく領域の原型があったと考える方がいいだろうというのが、いまの見込み。
◆府中でいうと、4区画の原型が、近世初頭までに出入りが生じ、泉大津の豊中のものとなるエリア、上泉の伯太の領域となるエリア、逆に、上泉郷や軽部郷にも府中域が拡大して、検地帳が3冊に分かれることになるのであろう。

2018年9月17日(月・祝)

◆翌日は、朝、ちょこっと寄り道したが、瀬戸大橋を通り、加古川の実家に帰る。 
◆加西市のふく蔵というところに行きました。これがびっくり。最近は酒蔵めぐりをすることが多く、加古川にもまだあるようだし、加古川近傍の酒蔵にも足を伸ばしたいもの。そんなことで、それなら加西にということで行ったわけですが、駐車場が満杯なんです。
◆元酒蔵を利用して、2階にレストラン、1階は日本
酒やまんじゅうなど の販売のみならず、グラスや焼き物など若手の作品をならべているし、服も置いている。若き経営者が、酒造りに挑戦するとともに、地元の産品をならべ、地元の食材によるランチを出し、知り合いの芸術作品などの販売もやっているようだ。チラシでは、ここで演奏会などもけっこうやっているようだ。それが驚くほど成功し、人を集めている。

あかがねミュージアム

◆あかがねミュージアムへ行くも、駐車場が満杯で第2駐車場に回れと言われ、先に住友化学の歴史 資料館へ行く。が、要予約で無理。星越に足を伸ばせばよかったのですが引き返し、再び「あかがねミュージアム」へ。
◆できたのは2015年7月といったかな、できて3年だそうです。
◆今回の企画展は前日の15日が初日。立派なカラー図録2冊を無料で配布している。中国の青銅器はざっと流し、隣のもうひとつの企画展である《別子銅山の遺産》へ。高校生?解説ボランティアが配置され、丁寧に対応してくれた(このミュージアム、複合文化施設で前日22:00までとあって、広瀬記念館のあと、実は行ったのですが、展示は17時で閉まっていたのでした。その時、高校生ボランティアが先生と帰るところでした)。聞いてみると、これも企画展で、このミュージアムでは別子銅山の常設展はやっていないとのことです。全体をミュージアムというようだが、展示施設は新居浜市美術館と言い、ふだんは美術作品のギャラリーとなっているようです。まあ、別子銅山は別に現地に多くの展示施設があることを考えれば、そういう役割分担もあっていいのかもしれない。いずれにしても歴史系博物館というのとはちょっと違うわけです。もうひとつの展示施設が常設展示で「歴史」を謳ってはいるが、生駒・山崎・京 極という近世の領主の展示でした。考古資料は別の展示施設のようです。この新しいミュージアムができて、市内にあったいくつかの展示施設の整理や統合などが進められているようだ。
◆まあしかし、これだけの敷地とこれだけのカネをかけた施設を駅前に建てたわけです(旧市街は海寄りで、南の駅前エリアの開発が課題とのこと)。そこに新居浜の歴史を伝える展示施設をちゃんと配置していいのではないか。
◆そのあと、もう1泊することとし丸亀に行く(時間があったので丸亀城にだけ行きました)。新居浜市が12万人、丸亀市が11万人。1年前も丸亀に行ったが、マチの疲弊としては丸亀が顕著なように感じる。

2018年9月16日(日)別子銅山

◆朝、8時前には出て、東平(とうなる)に45分には着いた。江戸期の中心が「旧別子」。山頂部の向こう側。歓喜洞(最初の坑)などがある。明治以降の鉱山近代化のなかで、第3通洞の掘られた東平が中心になっていく。その下に第4通洞の開く端出場、山麓の上原や山根、沿岸部の星越、惣開など、いくつかのエリアがある(それに四阪島も)。このパンフレットのマップのようなものをまず入手するのが一番ですね。見どころの概略がわかる。「旧別子」は登山口まで車で行き、山道を2時間くらい行かないといけないようで、今回は行けてません。沿岸部の星越の住宅地の写真なども見ていて、住友化学の歴史資料館に行こうとしたのですが、要予約で入れませんでしたが、その近くなのに見過ごしてしまいました(これは大失敗。いちばん下のグーグルアースの画像)。
◆今回はオーソドックスな範囲。東平に行き、あちこち見て、資料館の開く10時となり展示を見て、そのあと端出場のマイトピアに降り、昼飯。ちょうどガイド付きバス(東平まではマイカーでなくこのバス利用が推奨されている)が出るところ(11:00)だったが、駐車場が満杯で、ツアーバスのマイクロバス4台がいっぱいでした。すごい観光地になっています。
◆なお東洋のマチュピチュともよばれてますが、深い谷を見下ろしつつ、山の上に上がっていき、 そこに忽然と存在した鉱山施設や労働者の集落群を見ると、あながち言い過ぎでもないタトエのように感じた。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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