人を幸せにする人になろう

グーグルアースはすごい

◆講演会の時に、その地域の鳥瞰画像をよく使ってきた。が、やり方が甘かった。もっといい画像 がえられることが判明。昨日は、あちこちの画像を眺めて楽しんだ。ふたつだけだしておこう。

筋違え道

◆太子道の研究もどこまですすんでいるんでしょうね。北の横大路という言葉も聞くようになっ た。こないだ、赤土山古墳から降りてきた時に通った道、ワニ下神社前の道、これがず~っと一直線で西にのびる。島の山古墳にも行ったが、その横を筋違え道が北上しているんですね。それと川。屈曲したと考えられる道にしたがって付け替えられたんでしょうね。異常な直線で、それが古道と考えられるラインと重なるわけです。竜田道からくる古道も、実際にはどこを通ったかは不明ながら、条里と無関係にあった旧道(新しい現代斜め道路はだめ)との取りつきはどうなっているんでしょうね。またそこに古代寺院も欲しいところではあるが、そんなうまくはいきません。が、山背へ抜ける奈良盆地北部をめざす古い道路は当然あっただろう。それっぽい斜め道もある。
◆今回、法隆寺の宝物館を訪ねたが、1991年にその事前調査に行った。その時、平城から通った道ですね、大和郡山から斑鳩へ行く道。そこに郡山新木山古墳もある。

斑鳩地域の地割

◆今日も出た地割のはなし。井上さんは106m地割が確実でないと言ったのかな。がまあ、特定地域 に50歩スクエアの地割があっておかしくないわけだ。なので、昔の論文を読んで、その方位に乗る痕跡を、ほんとは追跡せなあかん。それと、なんでこの振れなのか。そうか、筋違え道を設定することで、それを基準にしたわけですね。
◆地割をなぞってみました。そうか、奈良盆地条里復元の図をみりゃいい話だ。

藤ノ木と斑鳩

◆藤ノ木は、いったいいつの古墳なんでしょうか。6世紀後半というほかない?。中頃でもなく、末 でもなく、といったところでしょうか。O大N先生は大刀のなかでいちばん新しいのが560年といったのだったか。えらい古いやん、と思った。が、大刀の製作年代はそのころで、埋葬時期が560年代や570年代というのでおかしくはない(でも早めであるべきでしょうか)。W先生の石棺ではどうなるんだろうか。とはいえ、平坦面の議論も、年代を決めているのは須恵器だろうから、循環論法か。独立して石棺から年代が絞り込めるわけでもない(平坦面指数37。6世紀後半の半ば過ぎくらいにしてます。37は牧野と同じです)。
◆箭田の話はやめときましょう、前にも書いたの。でも、道上氏の研究は重要ですね。5世紀以来、6世紀前半までの居館に対し、6世紀後半以降の居館が新たに現れてくるという話。在地勢力はむろんいるわけだが、新興勢力の「配置」のようなものが行われておかしくないわけだ。それは欽明期の頃なので、535年以降に始まっていく。斑鳩が膳氏の本拠地というのは、どういう根拠があるんでしょうか。重要地域を欽明の王権が押さえていく、そのひとつに斑鳩があってよいと思う。奈良盆地の南北中央部で河内と行き来するに適した地。奈良盆地のどまんなかは河川合流地帯で不安定、だが水上交通上とても重要。そのなかで東の天理でもいいが、大阪寄りの斑鳩は本拠地にふさわしい。
◆奈良盆地の大きさは、南北30キロ、東西15キロです。メモリは5キロ。

藤ノ木

◆初めて藤ノ木古墳に行きました。第1次調査が1985年、大学3年生だ。じゃかすか、新聞・テレビ での洪水のような発掘ニュースが始まる。棺内調査が1988年、M1か。文化財センターにも行く。あれ、ぜんぶレプリカなんですよね。よくできてますよね。基本的な観察は十分。だが、レプリカ作成にも金がかかる。
◆昭和の時代、奈良県内の市町村で職員を置いていなかくとも、町長などが掘りたいと希望の声が上がる。カシコ―ケンの職員は、そういうのを年度初めに、誰がどこをあ やるかの調整をするわけです。年度前半は、原因者負担の仕事をして、後半期に、そういう自分が選んだ確認調査などをやると。で、藤井利章氏が藤ノ木を選び(以前から斑鳩地域の調査をやっていた)、第1次調査を実施。しかし未盗掘墳となり、カシコーケン挙げての調査になる。これ末永雅雄を描いた『考古の巨星』なんかにそう書いてあるわけです。
◆本題に戻る。むかし、斑鳩町に職員がおらず、カシコーケンが手をつけて、すべてをもっていったわけです。昔、全国のいい資料が東京に集められたのと同じ。むろん、金の出どころの話があるし、カシコーケンだからやれた、という話もついてくる。が、昭和の段階では、県内のええもんはぜんぶ県が掘って博物館に入れてしまったわけだ。いまはそうはいくまい。
◆いまはそうはいくまいとは言っても、それはそのままなのか。橿原に行って、いいもんが全員集合していて、まとまって見れることのメリットはある。でも、これからはむしろ、そっちをレプリカにして、ホンモノは地元に戻すべきでは。



みなさんお元気ですか~

◆日産インフィニティQ45でっしたっけ、車です、井上陽水がCMに出て、「みなさん、お元気です か~」、と。古い・・・。新しい車になったのは先週の月曜日か。快適です。
◆金・土とFM城の仕事をしてまして、それなりには片づけたのですが、いや報告書作りは、めちゃくちゃ手間がかかります。
◆本日は、歴史学のハイキングで斑鳩でした。このところ、春のハイキングも、秋の研修旅行もだいたいすでに入っている予定とバッティングしていて、長らく行けてませんでした。井上浩一先生にならい、皆勤をめざしたが、近年は物理的に無理に。久しぶりでした。

牽牛子塚は石槨単体か

◆報告書を熟読しないといけないのですが、
◆写真の右手の石槨を囲む立柱石の外に続く凝灰岩切り石積みはどう考えられているんでしょうか。まずは墓道はあり、封鎖後、丁寧に版築で埋め込んだことは確か。盗掘者は、一生懸命、大型閉塞石を動かすために、閉塞石の外側を掘ってます。平面的にも底部を入り口から離しているので、かなりの規模を切りくずいている。その上で、斜めに倒すのが先か、基部を南に数10㎝動かすのが先か、わかりませんけど。で、石もやや斜め、つまりは東側に倒れている。つまりは、西側の方がいくらか、より手前の墓道埋め込み版築が掘削され、やや振れながら斜めに倒れている。
◆上で指摘した凝灰岩石組は本来の壁面とちゃうんでしょうか。東側は階段が作られているが、その石材も壁体を構成していた凝灰岩切石の可能性がある。どこまで伸びていたかはわからない。どこかからは土壁だったかもしれない。とにかくこの西側の石材が何者で、どこまでのびているかは追及されていないのでは。
◆つまりは、牽牛子塚の石槨が、単体埋め込みと考えられ、キトラなどと同列と扱われることで、8世紀頭だったか、傷んで修復した時の石槨だ、という考えが発生している。構造理解からの時期判定。だが、石槨前面に一定の羨道部があった可能性は否定できないように思われる。白石先生、いかがでしょうか。

横口式石槨はなんぶつ

◆河内と大和の差、小地域差、

越塚御門

◆まあ667年の確実な定点です。

宮内庁による伏見城三ノ丸南面の掘削

◆という仕事もしておりますが、なかなか・・・

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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