人を幸せにする人になろう

久しぶりに岸和田

◆会議に出かける。いくつか発言。国指定名勝の景石劣化の把握の測量について、活用計画におけ る岸和田城との一体的方法(展示)、岸和田城かいわいについて、これまでも観光+公園サイドと一緒にやってきたという、活用にむけての体制のところで、これからどういう体制で進めるのがいいのか、と。
◆さて、旧道を通った。そのなかで、高石市に入り、道路の東側に要塞が出現する。これか・・・。っ前から和泉市史で地図をいじっていると、この海浜砂丘の沿岸沿い高台が高石市の中心なわけだが、地図に四角い、たとえば一見すると城郭か?と思われるような堀で囲まれた方形館があるのを認識していた。お寺なんかな~、と思っていた。グーグルで確かめればすぐわかるんでしょうが、やってこなかったわけです。ほんみち、本部・・・。

ウィキ ほんみちは、1913年に大西愛治郎によって創始された、大阪府高石市に本部を置く新宗教。天理教からの分派。信徒数は約31万8千人。

◆だそうです。それと王子川河口部を通る。ここか!。砂丘の内側は後背湿地、そこに川が流れ込み、高石市の海から入った大阪湾に沿う平野は低湿地。そこへ信太山丘陵中の惣ケ池から流れ込む王子川もまた流れ込み、かつてどこを通って海に流れていたのだろう。推測は北。しかしいまは王寺川は、この高石の条里に沿って一直線に人為的に南(西南)に流れ、それが西に折れ、砂丘を切って大阪湾にそそぐ。確か等高線をなぞり続けて、これ本来は北行きだよな~、と。この辺は不確かながら、現王子川の人工的なあり方から、低湿地を解消するために人工的に流れを変え、新たに南で海へ抜く工事をやったのだろうと考えてきた(『和泉市史テーマ編』でとこまで書いたかは不明)。大園遺跡の出現とも無関係ではない。大園の台地を横切る水路は結局は低湿地に流れ込み、その先の水の処理とも一帯であろうから。5世紀後葉着手、6世紀に本格的にやられたか。むろん条里地割に沿った整備は7世紀後半だろうが。
◆ということで、これが王子川か、と感慨深く通過した。

ちょっと笑ってしまった

◆おわかりかと思いますが、韓流ドラマ、広開土太王を見続けています。ついに400年、高句 麗軍5 万で、新羅の金城を囲む倭軍をたたき、そのまま金官国に進撃したという時点に到達しました。
◆倭の将軍がいかにもという描かれ方をするのは仕方ない。まず慶州が出てきませんでした。それと伽耶も描かれなかった。慶州付近のあたりで倭は敗れ、船で逃げ帰ったことになっている。しかも、高句麗王は軍をふたつに分け、一方を倭に行かせ、自分はソウルを占拠しそのあと倭に向かったとする。日本列島に高句麗軍が侵攻したというストーリー。そして、倭国王は認めない。解説で、その頃の倭は200くらいの小国に分立していたとする。いちおう、倭のトップが出てくるのだが、「首長」という表現にしてある。百済王アシン、新羅王奈勿はいても、倭王はいないわけだ。
◆笑えるのは、倭の本拠地らしい遠景描写で、むこうに富士山らしいものを置いていること。このシーンがまず出てきた。そしてその次に、高句麗王が倭に入っていくところ、倭の本拠に近世城郭(姫路城?)が建っている(画像)。これ、いちばん笑えました。解説の最後には、半島を西から南に回り、百済まで進撃し、そのあと、島根県あたりにのびる矢印が図示されていた。
◆太王四神紀のフィクションとは異なり、基本は史実を踏まえた作りにはなっているが、日本にかかわるところはそうはいかないことも理解できる。

2018年5月20日、佐用(3)

◆最後、佐用の町を歩いてもいいのだが、西播磨天文台に行く。現在は兵庫県立大学の研究機関に なっているらしい。
◆この日の3か所をドットしておく。

2018年5月20日、佐用(2)

◆そこから三日月に。高校生の時に「三日月藩」という言葉は聞いた。地 理歴史考古学部の先輩に 城好きが多く、大名や城の話が飛び交っていた。あとはあれ、黒田官兵衛の大河でやっていたかすかな記憶。
◆三日月藩森家の陣屋「城下町」なわけです。乃井野陣屋というそうだが、明治以降、建物はほかに転用されたりして更地になっていたが、発掘調査をして御殿の表門にあたる物見櫓を復元し、内部は展示ゾーンとする。そのあと、南に下って家臣の屋敷地あとなどを歩くが、表門というのが新たに復元されていた。陣屋に至るメイン道路の門で、現在も道路であるため、発掘調査をふまえ、やや東にずらした位置に建設されている。国史跡ではないようであるが、地元で少しずつ、かつての陣屋「城下町」の歴史を顕在化させようと頑張っている。
◆ルピナス?というのを植えて、ちょっと有名になっているようで(その数日後に夕刊で取り上げられていました)、その写真も撮る。

2018年5月20日、佐用(1)

◆久しぶりに実家に帰る。朝、8時に出て9:30には着いたか。佐用に出かける。というか三日月が当面の目的地、あとは適当。
◆揖保川を北上し、新宮で西に折れる。途中、千本本陣という看板を見て旧道に入る。千本、千本屋廃寺のあるところなんでしょうね(それは山崎でした)。栗栖もそう。姫新線沿いに古代寺院がならぶ。これも、在地の氏族の尽力はあるんだろうが、交通路上のランドマークかと思ってしまう。
千本本陣。鳥取藩の参勤交代の時などに使ったもの。いまは飲食店になり、土日のみ営業しているよう。昼時で入ると、予約で座敷はいっぱいで、外のテーブル席ならと。写真は前菜、アマゴの焼いたもの、最後は蕎麦。2000円弱くらい。なかなかいいところです。家屋、庭もあり、維持がたいへんそうであるが、こうして飲食店をして残してくれている。簡単な看板があり、玄関のところには模型もあった。なんでも口コミで、飲食店の評判はよいらしい。 

2018年5月19日オオヤマト(15)つけたし

◆天理市教委が案内している企画は、「2018遺跡探検隊」というもののよう。案内していたIさん に、マップをいただきました。古墳だらけですね。頑張ってはります。

2018年5月19日オオヤマト(14)乙女山

◆最後は乙女山。 前に入ったところからやはり入ったが、公園内をまわっていかずとも、公園敷地のへりをたどり、北側から入れるんですね。そこに看板がある。小方部に立ってみました。

2018年5月19日オオヤマト(13)河合大塚山

◆そこから帰途の西に転じ、まずは島の山。一周したくらい。これ南側の渡り堤から入るんですか ね。あぶなそうな感じ。
◆そのあと、河合大塚山古墳。古墳群で何基かあるが、今回は大塚山のみ。どこから入るのかわからず、側面でも前方部寄りの草密生のところを上がってしまったが、前方部には明治元帥の碑がありました。くびれ部から北の後円部側は竹やぶで、比較的墳丘が見渡せます。これ、大仙に近いが、いまは前方部がさほど広くないと考えないといけないと思っとります。例の第3の系列のものかと。

2018年5月19日オオヤマト(13)赤土山

◆うわなり、石上大塚、あとなんだっけ、3つほど行ってみたい後期前方後円墳があり、地図も用意 していたが、山へ上がるには時間もなし。赤土山だけ見に行く。けったいな古墳や。また、東大寺山古墳は、今回も行けませんでした。

2018年5月19日オオヤマト(12)塚穴山

◆塚穴山古墳。これいわゆる石舞台式。年代は600年前後くらいでしょうか。大型円墳で巨大な横穴 式石室。これについてもパンフレットに見たことのなかった図がある。削られた東側の発掘調査もやっているんですね。
◆蘇我馬子の石舞台に対し、物部守屋と考えたくなるが、石室の年代からするとその次世代化。その時期の物部氏って???。テルちゃんは何か言ってるに違いない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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