人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
久しぶりに岸和田
◆会議に出かける。いくつか発言。国指定名勝の景石劣化の把握の測量について、活用計画におけ る岸和田城との一体的方法(展示)、岸和田城かいわいについて、これまでも観光+公園サイドと一緒にやってきたという、活用にむけての体制のところで、これからどういう体制で進めるのがいいのか、と。
◆さて、旧道を通った。そのなかで、高石市に入り、道路の東側に要塞が出現する。これか・・・。っ前から和泉市史で地図をいじっていると、この海浜砂丘の沿岸沿い高台が高石市の中心なわけだが、地図に四角い、たとえば一見すると城郭か?と思われるような堀で囲まれた方形館があるのを認識していた。お寺なんかな~、と思っていた。グーグルで確かめればすぐわかるんでしょうが、やってこなかったわけです。ほんみち、本部・・・。
ウィキ ほんみちは、1913年に大西愛治郎によって創始された、大阪府高石市に本部を置く新宗教。天理教からの分派。信徒数は約31万8千人。
◆だそうです。それと王子川河口部を通る。ここか!。砂丘の内側は後背湿地、そこに川が流れ込み、高石市の海から入った大阪湾に沿う平野は低湿地。そこへ信太山丘陵中の惣ケ池から流れ込む王子川もまた流れ込み、かつてどこを通って海に流れていたのだろう。推測は北。しかしいまは王寺川は、この高石の条里に沿って一直線に人為的に南(西南)に流れ、それが西に折れ、砂丘を切って大阪湾にそそぐ。確か等高線をなぞり続けて、これ本来は北行きだよな~、と。この辺は不確かながら、現王子川の人工的なあり方から、低湿地を解消するために人工的に流れを変え、新たに南で海へ抜く工事をやったのだろうと考えてきた(『和泉市史テーマ編』でとこまで書いたかは不明)。大園遺跡の出現とも無関係ではない。大園の台地を横切る水路は結局は低湿地に流れ込み、その先の水の処理とも一帯であろうから。5世紀後葉着手、6世紀に本格的にやられたか。むろん条里地割に沿った整備は7世紀後半だろうが。
◆ということで、これが王子川か、と感慨深く通過した。
◆さて、旧道を通った。そのなかで、高石市に入り、道路の東側に要塞が出現する。これか・・・。っ前から和泉市史で地図をいじっていると、この海浜砂丘の沿岸沿い高台が高石市の中心なわけだが、地図に四角い、たとえば一見すると城郭か?と思われるような堀で囲まれた方形館があるのを認識していた。お寺なんかな~、と思っていた。グーグルで確かめればすぐわかるんでしょうが、やってこなかったわけです。ほんみち、本部・・・。
ウィキ ほんみちは、1913年に大西愛治郎によって創始された、大阪府高石市に本部を置く新宗教。天理教からの分派。信徒数は約31万8千人。
◆だそうです。それと王子川河口部を通る。ここか!。砂丘の内側は後背湿地、そこに川が流れ込み、高石市の海から入った大阪湾に沿う平野は低湿地。そこへ信太山丘陵中の惣ケ池から流れ込む王子川もまた流れ込み、かつてどこを通って海に流れていたのだろう。推測は北。しかしいまは王寺川は、この高石の条里に沿って一直線に人為的に南(西南)に流れ、それが西に折れ、砂丘を切って大阪湾にそそぐ。確か等高線をなぞり続けて、これ本来は北行きだよな~、と。この辺は不確かながら、現王子川の人工的なあり方から、低湿地を解消するために人工的に流れを変え、新たに南で海へ抜く工事をやったのだろうと考えてきた(『和泉市史テーマ編』でとこまで書いたかは不明)。大園遺跡の出現とも無関係ではない。大園の台地を横切る水路は結局は低湿地に流れ込み、その先の水の処理とも一帯であろうから。5世紀後葉着手、6世紀に本格的にやられたか。むろん条里地割に沿った整備は7世紀後半だろうが。
◆ということで、これが王子川か、と感慨深く通過した。
ちょっと笑ってしまった
◆おわかりかと思いますが、韓流ドラマ、広開土太王を見続けています。ついに400年、高句 麗軍5 万で、新羅の金城を囲む倭軍をたたき、そのまま金官国に進撃したという時点に到達しました。
◆倭の将軍がいかにもという描かれ方をするのは仕方ない。まず慶州が出てきませんでした。それと伽耶も描かれなかった。慶州付近のあたりで倭は敗れ、船で逃げ帰ったことになっている。しかも、高句麗王は軍をふたつに分け、一方を倭に行かせ、自分はソウルを占拠しそのあと倭に向かったとする。日本列島に高句麗軍が侵攻したというストーリー。そして、倭国王は認めない。解説で、その頃の倭は200くらいの小国に分立していたとする。いちおう、倭のトップが出てくるのだが、「首長」という表現にしてある。百済王アシン、新羅王奈勿はいても、倭王はいないわけだ。
◆笑えるのは、倭の本拠地らしい遠景描写で、むこうに富士山らしいものを置いていること。このシーンがまず出てきた。そしてその次に、高句麗王が倭に入っていくところ、倭の本拠に近世城郭(姫路城?)が建っている(画像)。これ、いちばん笑えました。解説の最後には、半島を西から南に回り、百済まで進撃し、そのあと、島根県あたりにのびる矢印が図示されていた。
◆太王四神紀のフィクションとは異なり、基本は史実を踏まえた作りにはなっているが、日本にかかわるところはそうはいかないことも理解できる。
◆倭の将軍がいかにもという描かれ方をするのは仕方ない。まず慶州が出てきませんでした。それと伽耶も描かれなかった。慶州付近のあたりで倭は敗れ、船で逃げ帰ったことになっている。しかも、高句麗王は軍をふたつに分け、一方を倭に行かせ、自分はソウルを占拠しそのあと倭に向かったとする。日本列島に高句麗軍が侵攻したというストーリー。そして、倭国王は認めない。解説で、その頃の倭は200くらいの小国に分立していたとする。いちおう、倭のトップが出てくるのだが、「首長」という表現にしてある。百済王アシン、新羅王奈勿はいても、倭王はいないわけだ。
◆笑えるのは、倭の本拠地らしい遠景描写で、むこうに富士山らしいものを置いていること。このシーンがまず出てきた。そしてその次に、高句麗王が倭に入っていくところ、倭の本拠に近世城郭(姫路城?)が建っている(画像)。これ、いちばん笑えました。解説の最後には、半島を西から南に回り、百済まで進撃し、そのあと、島根県あたりにのびる矢印が図示されていた。
◆太王四神紀のフィクションとは異なり、基本は史実を踏まえた作りにはなっているが、日本にかかわるところはそうはいかないことも理解できる。
2018年5月20日、佐用(2)
◆そこから三日月に。高校生の時に「三日月藩」という言葉は聞いた。地 理歴史考古学部の先輩に 城好きが多く、大名や城の話が飛び交っていた。あとはあれ、黒田官兵衛の大河でやっていたかすかな記憶。
◆三日月藩森家の陣屋「城下町」なわけです。乃井野陣屋というそうだが、明治以降、建物はほかに転用されたりして更地になっていたが、発掘調査をして御殿の表門にあたる物見櫓を復元し、内部は展示ゾーンとする。そのあと、南に下って家臣の屋敷地あとなどを歩くが、表門というのが新たに復元されていた。陣屋に至るメイン道路の門で、現在も道路であるため、発掘調査をふまえ、やや東にずらした位置に建設されている。国史跡ではないようであるが、地元で少しずつ、かつての陣屋「城下町」の歴史を顕在化させようと頑張っている。
◆ルピナス?というのを植えて、ちょっと有名になっているようで(その数日後に夕刊で取り上げられていました)、その写真も撮る。
◆三日月藩森家の陣屋「城下町」なわけです。乃井野陣屋というそうだが、明治以降、建物はほかに転用されたりして更地になっていたが、発掘調査をして御殿の表門にあたる物見櫓を復元し、内部は展示ゾーンとする。そのあと、南に下って家臣の屋敷地あとなどを歩くが、表門というのが新たに復元されていた。陣屋に至るメイン道路の門で、現在も道路であるため、発掘調査をふまえ、やや東にずらした位置に建設されている。国史跡ではないようであるが、地元で少しずつ、かつての陣屋「城下町」の歴史を顕在化させようと頑張っている。
◆ルピナス?というのを植えて、ちょっと有名になっているようで(その数日後に夕刊で取り上げられていました)、その写真も撮る。
2018年5月20日、佐用(1)
◆久しぶりに実家に帰る。朝、8時に出て9:30には着いたか。佐用に出かける。というか三日月が当面の目的地、あとは適当。
◆揖保川を北上し、新宮で西に折れる。途中、千本本陣という看板を見て旧道に入る。千本、千本屋廃寺のあるところなんでしょうね(それは山崎でした)。栗栖もそう。姫新線沿いに古代寺院がならぶ。これも、在地の氏族の尽力はあるんだろうが、交通路上のランドマークかと思ってしまう。
◆千本本陣。鳥取藩の参勤交代の時などに使ったもの。いまは飲食店になり、土日のみ営業しているよう。昼時で入ると、予約で座敷はいっぱいで、外のテーブル席ならと。写真は前菜、アマゴの焼いたもの、最後は蕎麦。2000円弱くらい。なかなかいいところです。家屋、庭もあり、維持がたいへんそうであるが、こうして飲食店をして残してくれている。簡単な看板があり、玄関のところには模型もあった。なんでも口コミで、飲食店の評判はよいらしい。
◆揖保川を北上し、新宮で西に折れる。途中、千本本陣という看板を見て旧道に入る。千本、千本屋廃寺のあるところなんでしょうね(それは山崎でした)。栗栖もそう。姫新線沿いに古代寺院がならぶ。これも、在地の氏族の尽力はあるんだろうが、交通路上のランドマークかと思ってしまう。
◆千本本陣。鳥取藩の参勤交代の時などに使ったもの。いまは飲食店になり、土日のみ営業しているよう。昼時で入ると、予約で座敷はいっぱいで、外のテーブル席ならと。写真は前菜、アマゴの焼いたもの、最後は蕎麦。2000円弱くらい。なかなかいいところです。家屋、庭もあり、維持がたいへんそうであるが、こうして飲食店をして残してくれている。簡単な看板があり、玄関のところには模型もあった。なんでも口コミで、飲食店の評判はよいらしい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。