人を幸せにする人になろう

千本屋廃寺と千本本陣は別でしたが

◆因幡街道沿いの古代寺院について、ネットでPDFを拾うことができました。寺岡さんという方が 書いておられるものに付せられた図です。

太田茶臼山

◆八尾市レキミンで茨木市の展示チラシを見る。おおっ。見たら「おおっ」と思ったことをわかっ ていただけますよね。比較しているのが墓山であるが、しかし上石津ミサンザイか誉田御廟山か、というところが大事だと思います。
◆結論は誉田御廟山だったはず。なので、ミズハワケ大王の時代に、ホムダワケの孫、オオホド王が摂津を任された、と。その妹のオオナカツヒメは允恭妃になる。允恭が即位し、ミズハワケが没し、オホホドも没し太田茶臼山古墳に葬られる。オホホドの後継世代は近江に移配されるのだろう。継体は、かつての本拠地に半世紀後に返り咲いてくるのだろう。

その他

◆八尾のレキミンで、由義寺のパンフレットをいただきました。国史跡になり、市民向けのわかり やすいパンフレットが作成されています。
◆企画展では〈豊作への祈り〉をやっていました。住吉大社?だったか、神饌の画像がありました。それを見て思ったこと。造り出しの食物土製品と似たようなもんだ、と。

この図に感激

◆当日の午前の歩くための資料で、八尾市埋文センター作成の図が掲げてあり、感激。この図録、 是非とも欲しかったが、レキミンには置いてなかったよう。
◆『和泉市史紀要』でわたしが出した図も出しておきましょう。やめ。改新シンポで出した図にする。これは河内南部だが、和泉国の図もある。この河内の図(むろんそれ以前からの元データとしての国界・郡界の図もあるし、さらに北河内、東摂をやっていけば、大阪府域の図ができるわけです。作業用に1万1のファ イル、集合用のファイルも作ってあっ たように記憶するが、しばらく開いたことはありません。

2018年5月27日、東高野街道現地見学検討会

◆9:30に恩智駅。10:00スタート。教興寺、以前に訪れたことがあるが、古代寺院だったんですね。 郡川、高安郡衙がどこかにあるんでしょう。高麗寺(郡川廃寺)、信貴線を越えて八尾市レキミンへ。展示を見て昼飯。
◆13時から検討会。東大阪市、八尾市、柏原市の古代寺院の報告、その瓦の報告、文献史から見た東高野街道の話、少し討論。
◆まず東高野街道という名前がよくないですね。高野山への参詣が定着して以降の話で、本題のこの官道の設置時期はもっとさかのぼるわけで、文献に名前が出てこないとすれば、学術的な名称を付けた方がいいように思う。古代生駒西麓道、とか。設置時期は7世紀前半とみられる。
◆討論の最後で、少し発言しようかと手を挙げかけたが、終了と相成った。7世紀後半に古代寺院ができていく。それはこの地にも条里地割が施工され、評界が決められ、 1条・2条と南から条里大区画の通し番号が降られ、それを基準に五十戸の行政界も設定される。おそらく五十戸を単位として寺院が建立されていくのだろう。7世紀前半の官道設置と7世紀前半の古代寺院は国家政策的なものであるのに対し、7世紀後半の寺院造営は地域ごとに行われていく。河内 の瓦が広がっていくことがそれを示す。
◆『条里制・古代都市研究』に出した図の元図を出しておきます。そのベースには、大学院演習で河内の郷復元をやったときの資料があった。河内平野の内部はなかなかしんどそうだが、生駒西麓については、ひとまず五十戸界を描けるように思うが(実証的とはいかないが)、やらんといけませんね。たぶん高安郡では意見の違いがあって、事例として出せなかったので、東大阪あたりでやったのだと思う。それに寺跡を書き込んでおきました。

ちとわかりにくいですが

◆先週来、研究させよと、やることをさぼり、石室をいじってきました。尺度論を確定させなけれ ばと。いまのところ、岩屋山式でも小谷は高麗尺(叡福寺がわかればいいんですけど)、文殊院西も高麗尺(玄室天井が岩屋山より低くなっているのがスムーズでない)、で岩屋山が唐尺、西宮も唐尺、というのが結論です。艸墓は高麗尺かな・・・(岩屋山亜式と一括できないように思う)。
◆メッシュをかけると見にくくなる。青が高麗尺、緑が唐尺です(ちなみに赤は南朝尺でやっています)。
◆舒明期の632年に遣唐使が戻り、唐尺への正式転換が始まるとする。624年には登場してくる安倍倉橋麻呂墓の文殊院西は高麗尺、628年に倭国王となった舒明が自分の墓である岩屋山を本格的に作り始め、それは唐尺。639年に始まる百済大寺の柱間寸法は、わかる僧房で唐尺。641年に始まる山田寺金堂も唐尺、だいたいこんなんでいいのでは、と。
◆それとレーザーの陰影図は、とくに平面の場合、点群データを取り扱う時に、一定の高さで切る。岩屋山の場合、切る位置が高いので、玄室平面が本来の基部よりも小さくなっている。人間の手測りでは、平面はジベタで測るわけですが。その辺は、業者にできるだけ下で、あるいは例えば羨道に土が入って同じ高さだと土になってしまう場合も、高さを変えてでも、できるだけ基部に近い平面図になるよう、頼まないといけない。そうか、途中で切っての見上げでなく、地べたを切り抜いて見上げ図を作れば、そのフレームが平面図になる!。

巨勢山の石槨

◆石槨もやってみました。
◆奥行7尺、幅3尺、高さ3尺というのか2.5尺というのか。

2018年5月26日、近鉄文化サロン阿倍野

◆お勤め。今朝、鉢伏山のパワポを上本町で組み込み、天王寺に向かう。調子悪く、あっという間 に時間が経過し、尻切れトンボ。でもまあ、言いたいことの中心部はしゃべれたか。
◆巨勢山の分析を加えようとしたができなかった。帰ってきてからやっている。これ9尋とはいかないので、そうすえると7尋になる。石槨奥壁を中心とすると背面までは3.5尋(歩)でちょうどよいが、折り返すと現開口部に食い込む。これはしんどいのか、ありうるのか。左右も3.5尋ずつの7尋とすると、やや太い縦線部に来る。これはこれで可能性があるかもしれません。墳丘の左右はどこまでトレンチが入っているのか、確認しないといけません。

こうじ

◆昨日、ミネルバ書房の究(きわめる)をパラパラ。そこにあった記事です。

岸和田に博物館はなぜない

◆高石市5.6万人、文化財専門職は3人必要。博物館・資料館なし。泉大津市7.5万人、文化財専門職は4人必要。市立織編館には行ったことがないが、歴史系ではない。和泉市18.5万人、文化財専門職は9人必要。和泉市のいずみの国歴史館。小さい、だがある。
岸和田市19.1万人、文化財専門職は10人必要ですね。岸和田市立郷土資料館が復元天守にあるという。前からこの名前でしたっけ。さびしいお城の展示だった記憶があるが、考古資料も常設展示とある。ふ~ん、もいちど行く必要がある。でも限定的なものでしょう。
◆貝塚市8.7万人、文化財専門職は4人必要。貝塚市歴史展示館というのがあるが(前から行ってみたいのだがまだ)、元ユニチカ株式会社旧貝塚工場事務所で、基本は繊維産業のもの。泉佐野市10万人、文化財専門職は5人必要。歴史館いずみさの(大阪文化財センターが指定管理者!)。未確認だが、Hさんは泉佐野市をやめたのかな。泉南市6.1万人、文化財専門職は3人必要。海会寺の横の埋文センターに展示室がある。
◆柏原市6.9万人、文化財専門職は3.5人必要。柏原市立歴史資料館がある。春・秋に企画展をやっている。これ立派ですね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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