人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
へんな記事
◆纏向遺跡の桃がC14年代測定され、135年から230年のなかにあるとわかったという記事。夕刊に 載り、翌日朝刊に追いかけ記事も出た。なぜ、頭に纏向遺跡が3世紀初めから4世紀初めと明記するのか。大型建物がなぜ3世紀前半と決まるのか、決まっているなら桃の年代測定などやる必要がない。これは記者の書き方の問題です。不適切です。
◆邪馬台国の年代が3世紀前半というのも、何を言っているのかよくわからん。卑弥呼の在位が3世紀前半で、居所がヤマト国だとあるわけで、そのヤマト国が3世紀前半にできて、3世紀後半になくなるわけではない。これも書き方が悪い。正確ではない。
◆本質の話。紀要は見ていないが、12個の年代がおよそ135年から230年と推定できたとする。むろん、一括性の問題はある。同じシーズンに採れたものばかりなのか、累積しているのか、とか。まあ、土坑の一括性があるとしてこのバラつきも気になるとことだが、普通に考えれば、中央値は2世紀後半とみるべきではないのか。3世紀前半だ、よかったよかった、というのはおかしいでしょ。
◆記事の質が低い。
◆邪馬台国の年代が3世紀前半というのも、何を言っているのかよくわからん。卑弥呼の在位が3世紀前半で、居所がヤマト国だとあるわけで、そのヤマト国が3世紀前半にできて、3世紀後半になくなるわけではない。これも書き方が悪い。正確ではない。
◆本質の話。紀要は見ていないが、12個の年代がおよそ135年から230年と推定できたとする。むろん、一括性の問題はある。同じシーズンに採れたものばかりなのか、累積しているのか、とか。まあ、土坑の一括性があるとしてこのバラつきも気になるとことだが、普通に考えれば、中央値は2世紀後半とみるべきではないのか。3世紀前半だ、よかったよかった、というのはおかしいでしょ。
◆記事の質が低い。
2018年5月12日、市大日本史学会
◆がありました。久留島浩さんの話はとても勉強になるんですが・・・。しかし、なかなかここでも内 閣府主導の政策方針にあらがうことは困難で、そのなかでどうすべきか、と考えてします。
◆終了後、なつかしいOGが寄ってきて、喜連の方で、地元の歴史を勉強するグループができていて、自分の勤務先がキレにあり関りができ、市大の日本史出身やろと期待される。そのなかで、わたしが河内の条里について話をしたのを聞いたと、名前が挙がってましたよと。
◆いまの70代くらいのお年寄りは経済的にもめぐまれ、元気である。地域地域で、自分たちのところの歴史を学びたいとグループ活動をやっている。どこともそういう機運が強いですよね。自分たちの地域の歴史を学びたいという場合も、古文書を読みたいというレベルもあるし、観光ボランティアになって伝えたい、学ぶのは主に人の話と聞くのが主体であるレベルもある。しかし、それぞれ学びたいというベースがある。
◆で、外国人観光客を横に措いたとして、日本のあちこちを訪ねる日本人もそもそも増えている。観光・観光という旗振りは、政治的に、主に経済面を打ち出すキャンペーンだとしても、それに踊らされてではない、日本人そのものが、いろんな街並みを訪ね、見て歩くことが盛んになっている。そういう、地域の歴史や文化にふれたい人々が多い、自分たちの住む地域の歴史や文化を掘り起こしたい、そういう70代が多く、盛り上がっているいま、それを定着させることが勝負ではないか。それぞれの地域で歴史や文化を大事にする考え方を浸透させ、環境整備を進めるとか、地元で活動するグループを支援し持続的な活動にしていく、といったことが今の間に定着させることができるかどうか大事だと感じている。
◆自分たちの地域の存続を願う勝手連的な動きを、自治体が、日本遺産とか、補助金が出るからというのでなく、そういうものに頼らず、支援し根付かせる、博物館運営とも連携させるなど、そういうことが大事なんではないか、と思う。むろん伝建とか今の制度も活用したらいい。だけれど、だからやるのでなく、歴史や文化を大事にしていくことが自分たちの住む地域づくりそのものなんだ、ということです。
◆なにか、そういう教科書があってもいいのではないだろうか。
◆終了後、なつかしいOGが寄ってきて、喜連の方で、地元の歴史を勉強するグループができていて、自分の勤務先がキレにあり関りができ、市大の日本史出身やろと期待される。そのなかで、わたしが河内の条里について話をしたのを聞いたと、名前が挙がってましたよと。
◆いまの70代くらいのお年寄りは経済的にもめぐまれ、元気である。地域地域で、自分たちのところの歴史を学びたいとグループ活動をやっている。どこともそういう機運が強いですよね。自分たちの地域の歴史を学びたいという場合も、古文書を読みたいというレベルもあるし、観光ボランティアになって伝えたい、学ぶのは主に人の話と聞くのが主体であるレベルもある。しかし、それぞれ学びたいというベースがある。
◆で、外国人観光客を横に措いたとして、日本のあちこちを訪ねる日本人もそもそも増えている。観光・観光という旗振りは、政治的に、主に経済面を打ち出すキャンペーンだとしても、それに踊らされてではない、日本人そのものが、いろんな街並みを訪ね、見て歩くことが盛んになっている。そういう、地域の歴史や文化にふれたい人々が多い、自分たちの住む地域の歴史や文化を掘り起こしたい、そういう70代が多く、盛り上がっているいま、それを定着させることが勝負ではないか。それぞれの地域で歴史や文化を大事にする考え方を浸透させ、環境整備を進めるとか、地元で活動するグループを支援し持続的な活動にしていく、といったことが今の間に定着させることができるかどうか大事だと感じている。
◆自分たちの地域の存続を願う勝手連的な動きを、自治体が、日本遺産とか、補助金が出るからというのでなく、そういうものに頼らず、支援し根付かせる、博物館運営とも連携させるなど、そういうことが大事なんではないか、と思う。むろん伝建とか今の制度も活用したらいい。だけれど、だからやるのでなく、歴史や文化を大事にしていくことが自分たちの住む地域づくりそのものなんだ、ということです。
◆なにか、そういう教科書があってもいいのではないだろうか。
馮素弗
五胡十六国の歴史を語るブログから。正史の簡訳だそうです。
◆馮素弗は跋の長弟である。慷慨にして大志を抱いており、立派な容貌をしていた。人々と群れることなく任侠をもって思いのままにふるまい、小節をおさめなかったために人々はその才能に気づかなかった。ただ王斉だけはこれを異とし、評して「撥乱の才である」と言った。彼は豪傑と交友を結ぶことを第一とし、産業をおさめることがなかった。
◆若くして慕容煕の尚書左丞韓業のもとへ赴いてその娘を妻に貰い受けたいと請うたところ、業は怒ってこれを拒んだ。また尚書郎高邵の娘を妻として求めたが、邵もまたこれを許さなかった。
◆南宮令の成藻は豪俊にして高名だったが、素弗が訪問したところ門番に命じてこれを内へ入れなかった。素弗は無理やりに中へ入り込むと藻と対座し、傍若無人に振舞った。そうして連日談飲するうち、藻ははじめてこれを奇として言った。「私は遠方まで騏驥を求めていたが、それがこのような近くにいることを知らなかった。君を知ることの何と遅かったことよ」
◆当時の侠士にして、これと交わらない者はなかった。煕が僭号すると、侍御郎・小帳下督とした。
◆跋が偽業を成したのは、素弗の建てたところによるものである。
◆宰輔の地位に即くと謙虚恭慎にふるまい、礼にあらざれば動かず、厩番のような身分の低い者に対しても対等の礼を行った。車や衣服・家屋などは自ら率先して倹約第一としたことから、官僚らはこれを憚った。はじめ京尹となって営丘に鎮すると、民衆はこれをたたえて歌にうたった。あるとき韓業に向かって言った。「君はかつて私を顧みることがなかったが、今このようになってどうかね?」。業がこれを拝して謝罪すると、「昔のことだ。どうしてそれによって君に何かを図ることがあろうか」と言ってこれを手厚く遇した。
◆彼は断絶した家を継続させることを好み、また古くからの家柄の者を抜擢することを好んで、侍中陽哲に向かって言った。「秦・趙の勲臣の子弟は今いずこにあるのだろうか」。哲が「皆中州にあって、ただ桃豹の孫鮮だけがいるのみです」と答えたところ、素弗はこれを召して左常侍とした。論者はこれを宰衡としての度量を備えているとし、これに服した。
◆跋の七年に死去すると、跋は哀しんでその為に慟哭した。葬儀に際しては礼を尽くした。
◆馮素弗は跋の長弟である。慷慨にして大志を抱いており、立派な容貌をしていた。人々と群れることなく任侠をもって思いのままにふるまい、小節をおさめなかったために人々はその才能に気づかなかった。ただ王斉だけはこれを異とし、評して「撥乱の才である」と言った。彼は豪傑と交友を結ぶことを第一とし、産業をおさめることがなかった。
◆若くして慕容煕の尚書左丞韓業のもとへ赴いてその娘を妻に貰い受けたいと請うたところ、業は怒ってこれを拒んだ。また尚書郎高邵の娘を妻として求めたが、邵もまたこれを許さなかった。
◆南宮令の成藻は豪俊にして高名だったが、素弗が訪問したところ門番に命じてこれを内へ入れなかった。素弗は無理やりに中へ入り込むと藻と対座し、傍若無人に振舞った。そうして連日談飲するうち、藻ははじめてこれを奇として言った。「私は遠方まで騏驥を求めていたが、それがこのような近くにいることを知らなかった。君を知ることの何と遅かったことよ」
◆当時の侠士にして、これと交わらない者はなかった。煕が僭号すると、侍御郎・小帳下督とした。
◆跋が偽業を成したのは、素弗の建てたところによるものである。
◆宰輔の地位に即くと謙虚恭慎にふるまい、礼にあらざれば動かず、厩番のような身分の低い者に対しても対等の礼を行った。車や衣服・家屋などは自ら率先して倹約第一としたことから、官僚らはこれを憚った。はじめ京尹となって営丘に鎮すると、民衆はこれをたたえて歌にうたった。あるとき韓業に向かって言った。「君はかつて私を顧みることがなかったが、今このようになってどうかね?」。業がこれを拝して謝罪すると、「昔のことだ。どうしてそれによって君に何かを図ることがあろうか」と言ってこれを手厚く遇した。
◆彼は断絶した家を継続させることを好み、また古くからの家柄の者を抜擢することを好んで、侍中陽哲に向かって言った。「秦・趙の勲臣の子弟は今いずこにあるのだろうか」。哲が「皆中州にあって、ただ桃豹の孫鮮だけがいるのみです」と答えたところ、素弗はこれを召して左常侍とした。論者はこれを宰衡としての度量を備えているとし、これに服した。
◆跋の七年に死去すると、跋は哀しんでその為に慟哭した。葬儀に際しては礼を尽くした。
馮跋
ウィキより 馮跋(在位:409年~430年)
◆漢人で、晋の長楽郡信都県の出身。永嘉の乱が起きると祖父の馮和が上党へ移住した。馮跋の 父の馮安は武勇と器量があり、西燕の慕容永の将軍となった。394年に後燕が西燕を滅ぼすと馮跋は東の和龍(龍城)に移されて家を長谷においた。馮跋は幼い頃から立派であまり喋らず、寬仁で大度があった。馮跋の弟三人は任侠者で不修行であったが、ひとり馮跋は謹慎で家業を手伝ったという。後燕で慕容宝が即位すると、その中衛将軍となった。慕容宝の養子の慕容雲は口数が少なく時の人に愚人と言われたが、ただ馮跋だけはその度量を認めて友とした。
◆401年に慕容熙が即位し、407年に馮跋と弟の馮素弗が山沢に逃げた。その理由として『晋書』にあるのは、慕容熙の即位前に、馮素弗と従兄の馮万泥が昔水に浮かぶ金龍を見つけて捕らえたという話を聞き、慕容熙がそれを求めると馮素弗が黙秘としたためである。慕容熙は密かに馮跋兄弟を誅殺したいと考え、後に馮跋も罪を得たので、山沢に逃げた。探し出されて殺されることを恐れた兄弟は慕容熙への反乱を謀った。これに従兄の馮万泥、張興、同年に反乱に失敗した苻進ら22人が結謀した。
◆馮跋と二弟は婦人に車を御させて龍城に潜入すると北部司馬の孫護の家に匿われた。そして慕容熙が皇后の苻訓英の葬儀のために龍城を出ると、張興や苻進らが乱を起こした。馮跋は慕容雲をよく思って君主に推した。馮跋の従兄の子の馮乳陳等が鼓噪して弘光門に進むと禁衛は皆逃げたので、馮跋は入城して城門を閉めた。占拠の報告が届くと、慕容熙は急いで帰還して夜に龍城の北門を攻めたが、勝てずに門外に閉め出された。慕容雲は天王に即位して大赦し、正始に改元した。国号は「燕」のままだが、この時後燕は滅んで北燕になったとされる。ただし慕容雲は後燕の皇族で、実質的な建国者は馮跋であるため、高雲を後燕最後の皇帝とする場合もある。
◆閉め出された慕容熙は龍騰苑で龍城の攻撃に備えた。しかし慕容熙は不可解な理由で逃げ去った。慕容拔が龍城を攻撃したが、兵が慕容熙が逃げたことを知ると動揺し、慕容拔は馮跋に殺された。同日、慕容熙は庶民に化けて林の中に隠れていたのが見つかり、慕容雲に届けられた。慕容雲は慕容熙の罪を数えて諸子と共に殺した。この時、名前を高姓に戻した。高雲は馮跋の傀儡であった。馮跋を侍中・都督中外諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・録尚書事・武邑公、馮万泥を尚書令、馮素弗を昌黎尹、馮跋の弟の馮弘を征東大将軍、孫護を尚書左僕射、張興を輔国大将軍とした。
◆高雲は即位の際、自らは功徳が足りないと感じて内患を危惧し、離班や桃仁ら禁衛を重用して厚遇していた。しかし離班や桃仁はなお不満を募らせて、409年(正始3年)冬、東堂において高雲を殺した。馮跋は弘光門で乱を傍観していたが配下の張泰と李桑が離班と桃仁を殺した。こうして馮跋が衆に推戴されて正始3年に昌黎で天王を称した。旧国号に手を付けずに「燕」のままとし、境内を大赦して太平と改元した。前述の通り、馮跋は北燕の初代天王とも二代目ともされる。馮跋は高雲を恵懿皇帝と諡した。
◆馮跋は政事に勤め、農耕を奨励し、税役を軽くしたので市民は大喜びしたという。北魏に南境を侵されながらその治世は20余年続いた。太平22年に馮跋は病死し、太子の馮翼に国を任せた。しかし宋夫人が自分の子を王位につけるため、馮弘に馮翼を殺させてその諸子を誅した。
馮 弘(在位:430年~435年→宋に封じられた燕王在位:435年~436年)
◆漢人で、晋の長楽郡信都県の出身。馮跋の弟。馮跋の病が篤くなると、妾の宋氏が後継者の馮翼を差し置いて我が子を即位させようと謀った。馮弘はこの対立につけこんで宋氏を殺し実権を握ると、それを知った馮跋がショックのあまり急逝した。そこで馮弘は天王となり、馮翼ら馮跋の子全員を殺害した。
◆漢人で、晋の長楽郡信都県の出身。永嘉の乱が起きると祖父の馮和が上党へ移住した。馮跋の 父の馮安は武勇と器量があり、西燕の慕容永の将軍となった。394年に後燕が西燕を滅ぼすと馮跋は東の和龍(龍城)に移されて家を長谷においた。馮跋は幼い頃から立派であまり喋らず、寬仁で大度があった。馮跋の弟三人は任侠者で不修行であったが、ひとり馮跋は謹慎で家業を手伝ったという。後燕で慕容宝が即位すると、その中衛将軍となった。慕容宝の養子の慕容雲は口数が少なく時の人に愚人と言われたが、ただ馮跋だけはその度量を認めて友とした。
◆401年に慕容熙が即位し、407年に馮跋と弟の馮素弗が山沢に逃げた。その理由として『晋書』にあるのは、慕容熙の即位前に、馮素弗と従兄の馮万泥が昔水に浮かぶ金龍を見つけて捕らえたという話を聞き、慕容熙がそれを求めると馮素弗が黙秘としたためである。慕容熙は密かに馮跋兄弟を誅殺したいと考え、後に馮跋も罪を得たので、山沢に逃げた。探し出されて殺されることを恐れた兄弟は慕容熙への反乱を謀った。これに従兄の馮万泥、張興、同年に反乱に失敗した苻進ら22人が結謀した。
◆馮跋と二弟は婦人に車を御させて龍城に潜入すると北部司馬の孫護の家に匿われた。そして慕容熙が皇后の苻訓英の葬儀のために龍城を出ると、張興や苻進らが乱を起こした。馮跋は慕容雲をよく思って君主に推した。馮跋の従兄の子の馮乳陳等が鼓噪して弘光門に進むと禁衛は皆逃げたので、馮跋は入城して城門を閉めた。占拠の報告が届くと、慕容熙は急いで帰還して夜に龍城の北門を攻めたが、勝てずに門外に閉め出された。慕容雲は天王に即位して大赦し、正始に改元した。国号は「燕」のままだが、この時後燕は滅んで北燕になったとされる。ただし慕容雲は後燕の皇族で、実質的な建国者は馮跋であるため、高雲を後燕最後の皇帝とする場合もある。
◆閉め出された慕容熙は龍騰苑で龍城の攻撃に備えた。しかし慕容熙は不可解な理由で逃げ去った。慕容拔が龍城を攻撃したが、兵が慕容熙が逃げたことを知ると動揺し、慕容拔は馮跋に殺された。同日、慕容熙は庶民に化けて林の中に隠れていたのが見つかり、慕容雲に届けられた。慕容雲は慕容熙の罪を数えて諸子と共に殺した。この時、名前を高姓に戻した。高雲は馮跋の傀儡であった。馮跋を侍中・都督中外諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・録尚書事・武邑公、馮万泥を尚書令、馮素弗を昌黎尹、馮跋の弟の馮弘を征東大将軍、孫護を尚書左僕射、張興を輔国大将軍とした。
◆高雲は即位の際、自らは功徳が足りないと感じて内患を危惧し、離班や桃仁ら禁衛を重用して厚遇していた。しかし離班や桃仁はなお不満を募らせて、409年(正始3年)冬、東堂において高雲を殺した。馮跋は弘光門で乱を傍観していたが配下の張泰と李桑が離班と桃仁を殺した。こうして馮跋が衆に推戴されて正始3年に昌黎で天王を称した。旧国号に手を付けずに「燕」のままとし、境内を大赦して太平と改元した。前述の通り、馮跋は北燕の初代天王とも二代目ともされる。馮跋は高雲を恵懿皇帝と諡した。
◆馮跋は政事に勤め、農耕を奨励し、税役を軽くしたので市民は大喜びしたという。北魏に南境を侵されながらその治世は20余年続いた。太平22年に馮跋は病死し、太子の馮翼に国を任せた。しかし宋夫人が自分の子を王位につけるため、馮弘に馮翼を殺させてその諸子を誅した。
馮 弘(在位:430年~435年→宋に封じられた燕王在位:435年~436年)
◆漢人で、晋の長楽郡信都県の出身。馮跋の弟。馮跋の病が篤くなると、妾の宋氏が後継者の馮翼を差し置いて我が子を即位させようと謀った。馮弘はこの対立につけこんで宋氏を殺し実権を握ると、それを知った馮跋がショックのあまり急逝した。そこで馮弘は天王となり、馮翼ら馮跋の子全員を殺害した。
北燕
ウィキより
◆後燕の中衛将軍馮跋は、407年7月に主君であった皇帝慕容熙を殺害して後燕を滅ぼした。馮跋は後燕の第2代皇帝慕容宝の養子慕容雲を新たな皇帝(天王)に擁立して自らは実権を掌握し、これが北燕の建国といわれる。慕容雲(在位:407年~409年)は高句麗人の後裔で、高句麗との関係は後燕時代よりかなり好転したが、逆に北魏とは幽州刺史の慕容懿が離反するなどしたため悪化した。傀儡として立てていた高雲は、409年10月に寵臣の離班や桃仁に殺害され、馮跋(在位:409年~430年)はこの混乱を鎮定して自ら天王に即位した(馮跋が即位した時点を北燕の建国とする説もある)。
◆北燕は西の強国北魏からの圧力に苦しめられ、馮跋は東晋と通交し、また当時蒙古平原を支配していた遊牧民の柔然との間に婚姻関係を、さらに契丹と通交して対抗した。北魏の使者を2回にわたって捕縛する事件を起こしたので、416年からは北魏より侵略を受けるようになる。ただ北魏は当時、西の夏とも敵対しており大規模な攻勢を北燕にまでかける余裕はなく、両国の間は緊張したまま推移した。しかし北燕内部では馮跋の従兄の馮万泥や従兄の子の馮乳陳が反乱を起こすなど内紛もあり、北燕の中枢は安定しているとは言い難かった。
◆430年9月、馮跋は病に倒れたため次男の馮翼に国事を委ねた。ところが外戚の宋氏がこの処置に反発して馮跋を幽閉したので、馮跋の弟馮弘が宋氏に対して反乱を起こした。この混乱の最中で馮跋は死去し、新しい天王には馮弘が即位した(在位:430年~435年→宋に封じられた燕王在位:435年~436年)。だが北燕ではその後、後継者争いが起きて馮弘の世子馮崇が北魏に出奔し、北魏に庇護されて遼西王に任命されて亡命政権を形成するなど、既に末期症状の兆しが見え始めていた。
◆北魏の太武帝は431年に西の夏を滅ぼしたので、432年からは連年のように北燕を攻撃した。これに対して馮弘は東晋滅亡後に成立していた宋との連携を強化し、435年1月には遂にその属国となって支援を受けたが、北魏からはその後も攻撃を受け続け、436年3月には北魏の大規模な攻勢を受け、4月に高句麗に亡命した。これをもって北燕は国家としては滅亡した。馮弘は高句麗から宋への亡命を希望したが、438年3月に北魏の圧力に屈した高句麗によって殺害され、北燕は完全に滅亡した。
◆遼寧省北票市西官営鎮において北燕宰相の馮素弗の華麗な墳墓が発掘されている。
◆後燕の中衛将軍馮跋は、407年7月に主君であった皇帝慕容熙を殺害して後燕を滅ぼした。馮跋は後燕の第2代皇帝慕容宝の養子慕容雲を新たな皇帝(天王)に擁立して自らは実権を掌握し、これが北燕の建国といわれる。慕容雲(在位:407年~409年)は高句麗人の後裔で、高句麗との関係は後燕時代よりかなり好転したが、逆に北魏とは幽州刺史の慕容懿が離反するなどしたため悪化した。傀儡として立てていた高雲は、409年10月に寵臣の離班や桃仁に殺害され、馮跋(在位:409年~430年)はこの混乱を鎮定して自ら天王に即位した(馮跋が即位した時点を北燕の建国とする説もある)。
◆北燕は西の強国北魏からの圧力に苦しめられ、馮跋は東晋と通交し、また当時蒙古平原を支配していた遊牧民の柔然との間に婚姻関係を、さらに契丹と通交して対抗した。北魏の使者を2回にわたって捕縛する事件を起こしたので、416年からは北魏より侵略を受けるようになる。ただ北魏は当時、西の夏とも敵対しており大規模な攻勢を北燕にまでかける余裕はなく、両国の間は緊張したまま推移した。しかし北燕内部では馮跋の従兄の馮万泥や従兄の子の馮乳陳が反乱を起こすなど内紛もあり、北燕の中枢は安定しているとは言い難かった。
◆430年9月、馮跋は病に倒れたため次男の馮翼に国事を委ねた。ところが外戚の宋氏がこの処置に反発して馮跋を幽閉したので、馮跋の弟馮弘が宋氏に対して反乱を起こした。この混乱の最中で馮跋は死去し、新しい天王には馮弘が即位した(在位:430年~435年→宋に封じられた燕王在位:435年~436年)。だが北燕ではその後、後継者争いが起きて馮弘の世子馮崇が北魏に出奔し、北魏に庇護されて遼西王に任命されて亡命政権を形成するなど、既に末期症状の兆しが見え始めていた。
◆北魏の太武帝は431年に西の夏を滅ぼしたので、432年からは連年のように北燕を攻撃した。これに対して馮弘は東晋滅亡後に成立していた宋との連携を強化し、435年1月には遂にその属国となって支援を受けたが、北魏からはその後も攻撃を受け続け、436年3月には北魏の大規模な攻勢を受け、4月に高句麗に亡命した。これをもって北燕は国家としては滅亡した。馮弘は高句麗から宋への亡命を希望したが、438年3月に北魏の圧力に屈した高句麗によって殺害され、北燕は完全に滅亡した。
◆遼寧省北票市西官営鎮において北燕宰相の馮素弗の華麗な墳墓が発掘されている。
4世紀
ウィキより
◆前燕〔337年~370年〕は、鮮卑族の慕容皝が建国。鮮卑族慕容部の首長慕容廆(269年~333年)は西晋〔265年~316年〕に服属して勢力を拡大、西晋より鮮卑都督の地位を与えられる。遼西に定住して農耕生活を進め、西晋の制度を導入して社会の安定に努めた。西晋が八王の乱などで衰退すると、307年には鮮卑大単于を自称して自立の道を歩む。309年12月、遼東の治安秩序の維持に成功。西晋国内では永嘉の乱が激化、311年6月に洛陽が陥落して西晋が実質的に滅亡すると、漢族には流民として遼東に逃げる者も多く、慕容廆は流民を受け入れ、中原文化の導入、農耕技術の進展、人材の確保に成功。
◆333年5月に慕容廆は死去、息子の慕容皝(296年~348年)が跡を継ぐ。慕容皝は337年9月に燕王に即位(前燕の成立)。後趙〔319年~ 351年〕と争う。342年に龍城(遼寧省朝陽市)に遷都。東方では高句麗と対戦、国内城を破壊、343年に高句麗は前燕に服属。
◆慕容皝は348年9月に死去し、第2代には息子の慕容儁(319年~360年)が継ぐ。349年に石虎(295年~349年)が死去した後趙では皇位をめぐる内紛が激化し滅亡、352年4月、前燕は後趙領の東部を占領下に置く。慕容儁は352年11月に中山で皇帝を称し、東晋からの独立を宣言する。357年に鄴(河南省臨漳県)に遷都。慕容儁は前秦や東晋〔317年~420年〕との3国鼎立に決着をつけようと大規模な軍備拡張を行ったが、360年1月に死去して挫折。
◆第3代には息子の慕容暐(350年~384年)が継いだが、若年のため実権は叔父の慕容恪(~367年)が握った。慕容恪は賢人で甥をよく補佐しながら前燕の勢力を徐々に南方に拡大、364年8月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、前燕は全盛期を迎えた。
◆367年5月、慕容恪は病死し、実権はその叔父の慕容評(生没年不詳)に移った。この慕容評は収賄政治を行って前燕を腐敗させる。前燕の弱体化を見た東晋の桓温(312年~373年)は3度目の北伐を行なって前燕に侵入。桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続け、慕容暐は龍城への還都を検討する。だが慕容暐の叔父慕容垂(326年~396年)が桓温と対峙し、さらに前秦に領土割譲を条件に援軍を求める事で対抗する。慕容垂は前秦軍到着の前に桓温を撃破し、慕容垂が新たな実力者として前燕で台頭し始めるが、それを憎んだ慕容評(生没年不詳)により慕容垂は排除を図られ、前秦に亡命。慕容垂の出奔で前燕を支える大黒柱はいなくなり、逆に前秦は皇帝の苻堅(338年~385年)や宰相の王猛(325年~375年)らにより攻勢に出る。370年11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した。
◆慕容垂(326年~396年)(写真)は、前燕初代皇帝慕容皝の五男。東晋軍を撃退するも前秦の苻堅の下 に亡命する。383年の淝水の戦いで前秦軍が東晋に大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した。いろいろあって、384年1月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国。386年1月、慕容垂は中山で皇帝を自称した。いろいろあって、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕を凌ぐ最大版図を形成した。
◆395年5月、皇太子の慕容宝(355年~398年)(写真)に10万の兵を預けて北魏〔386年~534年〕を攻 撃させた。大軍の侵攻に北魏はオルドスまで撤退して対峙したが、気候条件の悪化のため後燕軍は参合陂に後退、そして11月に天候の急変もあり、北魏軍の奇襲を受けた後燕軍は参合陂の戦いで、壊滅的大敗を喫した。この大敗で、それまで優勢だった後燕と北魏の力関係は完全に逆転した。慕容垂は頽勢挽回のため、396年3月に親征して北魏軍を平城に破り、同地を平定した。しかし4月、帰途において慕容垂は急病により陣没した。
◆皇太子の慕容宝が継いだ。いろいろあって、397年2月の後燕内部での内紛もあり、北魏は10月に中山を平定、12月に慕容宝は龍城に遷都。後燕は中原の領土を喪失する。398年1月には慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた車騎大将軍で叔父の慕容徳(336年~405年)が滑台(現在の河南省滑県)で燕王を称して自立、南燕〔398年~410年〕を建て、後燕は分裂。2月、慕容宝は無謀な中山奪還を敢行して北魏軍に大敗し、5月に龍城において舅の蘭汗(~398年)に殺害された。
◆398年7月に慕容宝の庶長子慕容盛(373年~401年)が蘭汗を殺害し、長楽王として即位して後 燕を再興。慕容盛は10月に皇帝に即位したが、この頃になると内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落している。401年7月、慕容盛が禁軍の反乱により殺害され、新天王には叔父に当たる慕容熙(385年~407年)が皇太后の丁氏により迎えられた。後燕は北魏の外圧を受け続け、高句麗・契 丹遠征を繰り返して国力を消耗、407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋(~430年)(写真)に殺害された。ただし馮跋は、次の皇帝に慕容宝の養子の慕容雲(高雲)(~409年)(写真)を擁立しており、また国号も燕(北燕)〔407年~436年〕としたことから、後燕の滅亡、北燕の建国が馮跋自身の即位した409年とされることもある。
◆高句麗・広開土王(374年~412年)
◆百済・近肖古王(在位:346年~375年)(写真)『晋書』では余句、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王
◆百済・近仇首王(在位:375年~384年)『梁書』では須、『日本書紀』では貴須王
◆百済・枕流王(在位:384年 - 385年)『日本書紀』では枕流(とむる)
◆百済・辰斯王(在位:385年 - 392年)『晋書』巻9・孝武帝本紀太元11年(386年)夏4月条には「百済王世子余暉」として百済王の諱と思われる人名が現れる。この余暉を「世子」の表現から阿莘王に相当すると見る説もあるが、年次の面から辰斯王に比定する説が多い。『三国史記』においては諱を「暉」とする百済王の記述は見られない。『三国史記』によれば、385年11月に先代の枕流王が死去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』には『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」とある。
◆百済・阿莘王(在位:392年 - 405年)『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王とされる。『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。
◆倭・ホムダワケ(在位:390~394)
◆前燕〔337年~370年〕は、鮮卑族の慕容皝が建国。鮮卑族慕容部の首長慕容廆(269年~333年)は西晋〔265年~316年〕に服属して勢力を拡大、西晋より鮮卑都督の地位を与えられる。遼西に定住して農耕生活を進め、西晋の制度を導入して社会の安定に努めた。西晋が八王の乱などで衰退すると、307年には鮮卑大単于を自称して自立の道を歩む。309年12月、遼東の治安秩序の維持に成功。西晋国内では永嘉の乱が激化、311年6月に洛陽が陥落して西晋が実質的に滅亡すると、漢族には流民として遼東に逃げる者も多く、慕容廆は流民を受け入れ、中原文化の導入、農耕技術の進展、人材の確保に成功。
◆333年5月に慕容廆は死去、息子の慕容皝(296年~348年)が跡を継ぐ。慕容皝は337年9月に燕王に即位(前燕の成立)。後趙〔319年~ 351年〕と争う。342年に龍城(遼寧省朝陽市)に遷都。東方では高句麗と対戦、国内城を破壊、343年に高句麗は前燕に服属。
◆慕容皝は348年9月に死去し、第2代には息子の慕容儁(319年~360年)が継ぐ。349年に石虎(295年~349年)が死去した後趙では皇位をめぐる内紛が激化し滅亡、352年4月、前燕は後趙領の東部を占領下に置く。慕容儁は352年11月に中山で皇帝を称し、東晋からの独立を宣言する。357年に鄴(河南省臨漳県)に遷都。慕容儁は前秦や東晋〔317年~420年〕との3国鼎立に決着をつけようと大規模な軍備拡張を行ったが、360年1月に死去して挫折。
◆第3代には息子の慕容暐(350年~384年)が継いだが、若年のため実権は叔父の慕容恪(~367年)が握った。慕容恪は賢人で甥をよく補佐しながら前燕の勢力を徐々に南方に拡大、364年8月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、前燕は全盛期を迎えた。
◆367年5月、慕容恪は病死し、実権はその叔父の慕容評(生没年不詳)に移った。この慕容評は収賄政治を行って前燕を腐敗させる。前燕の弱体化を見た東晋の桓温(312年~373年)は3度目の北伐を行なって前燕に侵入。桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続け、慕容暐は龍城への還都を検討する。だが慕容暐の叔父慕容垂(326年~396年)が桓温と対峙し、さらに前秦に領土割譲を条件に援軍を求める事で対抗する。慕容垂は前秦軍到着の前に桓温を撃破し、慕容垂が新たな実力者として前燕で台頭し始めるが、それを憎んだ慕容評(生没年不詳)により慕容垂は排除を図られ、前秦に亡命。慕容垂の出奔で前燕を支える大黒柱はいなくなり、逆に前秦は皇帝の苻堅(338年~385年)や宰相の王猛(325年~375年)らにより攻勢に出る。370年11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した。
◆慕容垂(326年~396年)(写真)は、前燕初代皇帝慕容皝の五男。東晋軍を撃退するも前秦の苻堅の下 に亡命する。383年の淝水の戦いで前秦軍が東晋に大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した。いろいろあって、384年1月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国。386年1月、慕容垂は中山で皇帝を自称した。いろいろあって、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕を凌ぐ最大版図を形成した。
◆395年5月、皇太子の慕容宝(355年~398年)(写真)に10万の兵を預けて北魏〔386年~534年〕を攻 撃させた。大軍の侵攻に北魏はオルドスまで撤退して対峙したが、気候条件の悪化のため後燕軍は参合陂に後退、そして11月に天候の急変もあり、北魏軍の奇襲を受けた後燕軍は参合陂の戦いで、壊滅的大敗を喫した。この大敗で、それまで優勢だった後燕と北魏の力関係は完全に逆転した。慕容垂は頽勢挽回のため、396年3月に親征して北魏軍を平城に破り、同地を平定した。しかし4月、帰途において慕容垂は急病により陣没した。
◆皇太子の慕容宝が継いだ。いろいろあって、397年2月の後燕内部での内紛もあり、北魏は10月に中山を平定、12月に慕容宝は龍城に遷都。後燕は中原の領土を喪失する。398年1月には慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた車騎大将軍で叔父の慕容徳(336年~405年)が滑台(現在の河南省滑県)で燕王を称して自立、南燕〔398年~410年〕を建て、後燕は分裂。2月、慕容宝は無謀な中山奪還を敢行して北魏軍に大敗し、5月に龍城において舅の蘭汗(~398年)に殺害された。
◆398年7月に慕容宝の庶長子慕容盛(373年~401年)が蘭汗を殺害し、長楽王として即位して後 燕を再興。慕容盛は10月に皇帝に即位したが、この頃になると内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落している。401年7月、慕容盛が禁軍の反乱により殺害され、新天王には叔父に当たる慕容熙(385年~407年)が皇太后の丁氏により迎えられた。後燕は北魏の外圧を受け続け、高句麗・契 丹遠征を繰り返して国力を消耗、407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋(~430年)(写真)に殺害された。ただし馮跋は、次の皇帝に慕容宝の養子の慕容雲(高雲)(~409年)(写真)を擁立しており、また国号も燕(北燕)〔407年~436年〕としたことから、後燕の滅亡、北燕の建国が馮跋自身の即位した409年とされることもある。
◆高句麗・広開土王(374年~412年)
◆百済・近肖古王(在位:346年~375年)(写真)『晋書』では余句、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王
◆百済・近仇首王(在位:375年~384年)『梁書』では須、『日本書紀』では貴須王
◆百済・枕流王(在位:384年 - 385年)『日本書紀』では枕流(とむる)
◆百済・辰斯王(在位:385年 - 392年)『晋書』巻9・孝武帝本紀太元11年(386年)夏4月条には「百済王世子余暉」として百済王の諱と思われる人名が現れる。この余暉を「世子」の表現から阿莘王に相当すると見る説もあるが、年次の面から辰斯王に比定する説が多い。『三国史記』においては諱を「暉」とする百済王の記述は見られない。『三国史記』によれば、385年11月に先代の枕流王が死去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』には『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」とある。
◆百済・阿莘王(在位:392年 - 405年)『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王とされる。『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。
◆倭・ホムダワケ(在位:390~394)
大阪市大の梅棹忠夫
◆正確な記憶ではないが、梅棹忠夫が大阪市大理学部にいたことを知ったのは、考古の見学会で滋賀県に行ったとき、どうしても行きたいんだと言って、西堀榮三郎記念探検の殿堂に寄った時のこと。この施設を知ったのは、博物館の担当となり何か読んでいて、入館者も少なくなり閉館が考えられたときに、地元の人たちが残そうと運動した、といった記事をどこかで読んだから。西堀栄三郎そのものは前から漠然と知ってはいたが、「やってみられい」の文庫本などを読んだのは、この探検の殿堂に行く前だったか後なのか、定かでないが。
◆ともかく、探検の殿堂で梅棹のパネルがあり、大阪市大理学部にいたことを知る。が、どうせ短い期間だったんだろうと。1949年の市大創設の際、実に多くの若い将来性ある研究者が赴任した。新制大学ができ、若い力がポストをえた。が、しばらくすると、やはり京大などに戻っていったわけである。今回の『市大日本史』でOBの秋山さんの原稿を読んでいて、既に『文明の生態史観』で有名になっていたようだが、共通教育の生物の?授業をもっていたが、探検などで休講も多かったといったことが書かれていた。で、調べてみた。
◆1949年4月 大阪市立大学理工学部助教授(1959年に理学部と工学部に分離)
1955年 京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊員
1957年 大阪市立大学東南アジア学術調査隊長
1961年9月 京都大学より理学博士
1963年 京都大学アフリカ学術調査隊員
1965年8月 京都大学人文科学研究所助教授
◆1949年から1965年となると、丸16年はいたんだ・・・。
1956年 『モゴール族探検記』(岩波新書)
1957年 「文明の生態史観序説」(『中央公論』に掲載)
1960年 『日本探検』(中央公論社→ 講談社学術文庫 ISBN 4-06-292254-1)
1962年 『日本人の知恵』(共著)(中央公論社 のち中公文庫)
1964年 『東南アジア紀行』(中央公論社、のち中公文庫 全2巻)
なども、市大時代ということになる。いま手元に『モゴール族探検記』がある。活動の比重は京大の海外探検にあったのかもしれないが、市大でも東南アジア隊を率いている。これ報告書があるのかどうか知らないが、ネットでちょこっと調べると第5次とあるので、継続されてもいる。
◆まあ、大学史展示でパネルの1枚でも作ろうかな。
◆ともかく、探検の殿堂で梅棹のパネルがあり、大阪市大理学部にいたことを知る。が、どうせ短い期間だったんだろうと。1949年の市大創設の際、実に多くの若い将来性ある研究者が赴任した。新制大学ができ、若い力がポストをえた。が、しばらくすると、やはり京大などに戻っていったわけである。今回の『市大日本史』でOBの秋山さんの原稿を読んでいて、既に『文明の生態史観』で有名になっていたようだが、共通教育の生物の?授業をもっていたが、探検などで休講も多かったといったことが書かれていた。で、調べてみた。
◆1949年4月 大阪市立大学理工学部助教授(1959年に理学部と工学部に分離)
1955年 京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊員
1957年 大阪市立大学東南アジア学術調査隊長
1961年9月 京都大学より理学博士
1963年 京都大学アフリカ学術調査隊員
1965年8月 京都大学人文科学研究所助教授
◆1949年から1965年となると、丸16年はいたんだ・・・。
1956年 『モゴール族探検記』(岩波新書)
1957年 「文明の生態史観序説」(『中央公論』に掲載)
1960年 『日本探検』(中央公論社→ 講談社学術文庫 ISBN 4-06-292254-1)
1962年 『日本人の知恵』(共著)(中央公論社 のち中公文庫)
1964年 『東南アジア紀行』(中央公論社、のち中公文庫 全2巻)
なども、市大時代ということになる。いま手元に『モゴール族探検記』がある。活動の比重は京大の海外探検にあったのかもしれないが、市大でも東南アジア隊を率いている。これ報告書があるのかどうか知らないが、ネットでちょこっと調べると第5次とあるので、継続されてもいる。
◆まあ、大学史展示でパネルの1枚でも作ろうかな。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。