人を幸せにする人になろう

5月4日、まずは高岡金物町

◆翌日はなので午前中だけ。まず高岡に向かう。前回は土蔵造りの伝建に行ったが、時間の関係で行けなかったもうひ とつの伝建地区。ふたつあ るわけです。雨が降っていたが、車を降りた頃にはやみ、晴れてきた。そちこちに金物の店がある。高いものは高いが、ちょっとした小物を買ったり、コーヒーを呑んだり。キューポラ、って?。ウィキによると、キューポラ(cupola furnace)は、コークスの燃焼熱を利用して鉄を溶かし鋳物の溶湯を得るたャフト型溶解炉に分類される溶解炉である。だ  そうである。金物で日本遺産になっているらしく、保存されたキューポラが残されている。

メインイベント

◆その夜、T大学のT先生との呑み会。カラオケ。17:30にホテルで待ち合わせ、お店に出かける。  ホタルイカに、白エビ・・・。 
◆そう、前はホタルイカのシーズンを逃してしまい、そのリベンジでした。GWくらいが最後とのこと。

YKK博物館

◆そのあと、YKK博物館に行く。黒部が誇る世界的企業。ネットから。

 創業者吉田忠雄の企業精神であり、YKKグループの基本姿勢を表現したものです。「善の巡環」 他人の利益を図らずして自らの繁栄はない
 企業は社会の重要な構成員であり、共存してこそ存続でき、その利点を分かち合うことにより社会からその存在価値が認められるものです。YKKの創業者吉田忠雄は、事業をすすめるにあたり、その点について最大の関心を払い、お互いに繁栄する道を考えました。それは事業活動の中で発明や創意工夫をこらし、常に新しい価値を創造することによって、事業の発展を図り、それがお得意様、お取引先の繁栄につながり社会貢献できるという考え方です。このような考え方を「善の巡環」と称し、常に事業活動の基本としてまいりました。私達はこの考え方を受け継ぎ、YKK精神としています。

◆吉田忠雄物語がひとつ。これ話としてとても感動的で、展示も見ごたえがあります。そしてファスナー、そしてアルミサッシの具体的な技術開発の展示。いや~、昔の町並みもいいんですが、現代の人間も面白い。敗戦後、故郷に戻り、ひとつひとつファスナーの金具を布地に規則的に埋め込んでいた段階から、機械を取り寄せ、それを研究し独自に開発していく、このストーリーもまた感動的です。「善の循環」という言葉も、もっと知られてよい。
◆そのあと「とれとれ館」で岩ガキを(1個500円なんですもん)食べる。

黒部市の生地(いくじ)

◆今回の富山行きで、訪問先を決めていた黒部市の生地。魚津のあと生地に向かう
◆グーグルアースの手前の沿岸沿いに街並みが残る。真ん中の入り江が漁港。むこうに見えるのが黒部川。北前船の寄港地だったようです。とはいえ、街路は味わえるし、名水が湧いているが、建物そのものは古いものがよく並んで残っている、ということではないように・・・。黒部川の扇状地で、湧水が豊富のようです。
◆それから行地台場に行く。竹垣を立て、大砲を配置するなど、へんてつもない台場跡をイメージで きるよう工夫されていました。

魚津、埋没林博物館

◆これ特別天然記念物だそうです。前の姿は知らないが、蜃気楼も組み合わせて、その両方を見せ  る博物館としてリニューアルしたとか(正確ではありません)。GW、けっこうな人が訪れていました。埋没林は、いまは古墳時代あたりの樹林との年代測定値が採用されている。海面下になっている点については、2000年前頃の海退期に進出した森林が、その後温暖化にともなう海面上昇で海面下になったとの解釈に立つ、と書いてありました。
◆いつのものなのか、なぜ海岸線より下にあるのかをめぐって、発見以来、何度かの 調査や年代測定の結果、徐々に理解に変更が加えられてきているようです。乾燥した空間での展示、水槽のなかでの展示(写真下)など、埋没林を示すための、いくつかの手法が取られているようです。天気が悪く、風がビュービュー。


2018年5月3日、富山

◆前に行ったのは、2年前の7月。高岡市伏木の北前船資料館に行ったが、その日の日本最高気温39.何とか度だったという記憶がある。今回は、京都のスロベニア料理店で決まった。サンダーバードの指定が取れず車でということになっていたが、京都からの参加者が行けなくなり、われわれだけ なので、大阪駅で自由席にならべばいいので、そうする。
◆7:00発、1時間で琵琶湖の北、もう1時間で福井、2時間半で金沢である。田
植えのシーズンですね。水が貼られ既に田植え済みのところもある。一方で、麦も目に付く。
◆10:30には着き、富山駅前で昼飯を食べる(11:00)。12:00から12:00でレンタカーを借りたので、富山城に行くことにする。もう忘れたが、戦国期の越中の諸権力の抗争(西の一向一揆、東の上杉(長尾))のなかで、呉東と呉西の中央部に誰かが富山城を造ったのだそうです。佐々成政のアルプス越え?の説明はなかったが。で、江戸時代になって富山藩ができ、再び富山城が作られる。ひとつの模型で、江戸時代の整備状況と、近代以降の土地利用の変化を、模型をはさんだ両面で説明するジオラマがあった(写真下)。なお、この展示施設(写真上)、空襲にあった富山の再興が一段落して作られたもののようである(天守閣は本来は作られなかった現代建築)。また、石垣については、どこまで幕末までのものが残っていて、どこまでが明治以降に撤去され再現されたものなのだろうか。

久津川サウンディング

◆今週木曜日をめざしていたが、延期します。ま、順当にやりますので。4月29日に詳細の計画を立 てた図を示します。経費的には少し間引こうかとも思いますが、もう1か月程度、熟成させることにします。

2018年4月30日西陵

◆9:00みさき公園駅。参加:阿部・大澤・テジョン。すべてを任せて、機材を下ろした後、こっち は和歌山へ向かう。夕方17:45頃、現地に戻り、古墳に入っていくと、片づけているところ。みさき公園駅まで送って解散。
◆けっこうなブッシュで、刈払いに時間を要し、あまり進まなかったようである。どこまでやって、あとは測量しながら払っていくか、そのへんの効率も考えるようになってほしいところ。
◆まあ、長い目で。自分らでやり切る、というのも大事、

京大滝川事件

◆松本清張の『昭和史発掘』がころがっていたので、寝る際にパラパラ。天皇機関説のところ を読 んでいた。朝起きて、京大滝川事件のところをよんでいると、岩波茂雄の言葉があり、昨日やっていたこととつながる。
◆もとより国家権力、文部大臣の京大法学部つぶしと、コトのレベルは大きく違う。しかし言い換えてみよう。
◆学者の真理に対する態度はあくまで厳粛でなくてはならない。眼前を「仁徳天皇陵古墳」として糊塗することは政治家の常であるが、学者のすべきことではない。遺跡の名称としてどうするのがよいのか、根本に眼を向け、大仙古墳の被葬者が誰なのか、仁徳大王の墓と言えるのか、正邪を明らかにして、あくまでも良心的に行動すべきである。
◆と言い換えられる。ちゃんと話をしてはどうか、というだけなのであるが。とはいえ、それも簡単ではないということも理解できる。なかなかやっかいなことです。

2018年5月1日

◆5月になりました。今日は月曜日の授業に振り替えだったのだが、それが水曜日と思い込んでいおり、火曜2限の準備をして教室に行ったが誰もいない・・・。間違った!。で月曜2限の授業に行く。終了後、ある書類を出さねばと思いつつ、陵墓のことで午後を費やしてしまう。それが要因ではないが、疲労の蓄積で、かなりくたびれている。あ~しんど。

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索