人を幸せにする人になろう

2018ゼミ旅行若狭丹後(6)敦賀鉄道資料館

◆そこからほど近くに、敦賀鉄道資料館がある(無料)。旧敦賀港駅舎。元の駅名は金崎駅だったっけか。 メインは2階で、いろいろあったが、まじまじとは見ていない。面白かったのは、昭和4年の時刻表で、東京からパリ?ロンドン?までの連絡が示されていて、別途、当時のガイドブックの一部がめくれるようになっていた。下関から釜山、満州のルートもあるわけだが、敦賀からウラジオ、モスクワ、ベルリンと、17日の行程。1等は300円、3等が180円だったか。
◆それから長浜の鉄道資料館にもあったが、近江側から敦賀へ抜けるルートの話、さらには越前今庄へのルート、新北陸トンネルの話、交流から直流への話など。
◆長浜市博物館との合同企画展の鉄道展示の図録を購入(500円)。

2018ゼミ旅行若狭丹後(5)人道の港 敦賀ムゼウム

◆レンガ倉庫2棟を通過し、人道の港敦賀ムゼウムに(無料)。杉原千畝の記念館。リトアニアだったか、 1941年にナチスの迫害を受けるユダヤ人ほかに、日本への渡航ビザを発給し続けたと。その数は6000人って書いてあったように思う。シベリア鉄道でウラジオまで、そこから船で敦賀に上陸した。彼らはその後、神戸からアメリカなどに出国していったそうである。
◆まとまった内容を展示している。

2018ゼミ旅行若狭丹後(4)金ヶ崎城のふもと

◆そのあと、敦賀港のあった市街地東部にあり海に飛び出す丘陵先端にある金ヶ崎城に立ち寄りに 行く。南北朝期では新田義貞がここに入ったのだとか。戦国期には朝倉が入り、織田軍が攻め、浅井が寝返って織田軍を攻め、信長が辛くも逃げのびた、という局面が著名のよう。国史跡になっているらしい。城郭遺構がどれくらい残っているのか知らないが、この上ということで、城攻めはせず。
◆その登り口のところに、近代のランプ小屋というのがあった。中
った明治40年ごろの写真。貨物線がここまでのび、船の荷物を積みかいたわけです。

2018ゼミ旅行若狭丹後(3)気比大社

◆次は気比大社。3大木造大鳥居だそうです。海に向かって鳥居が立つ。むかし1日フリーチケット で近畿をまわった時に、駅から歩いてきたことがある。松本零士のマンガの登場人物の銅像が、駅から気比大社の間の南部にたくさん立っていた。
◆院生・学生らはおみくじで盛り上がっている。

2018ゼミ旅行若狭丹後(2)向出山1号墳

◆最初に向出山1号墳。少し迷うが、たどりつく。おそらく調査の経緯とか古墳群の保存の問題と か、経緯があったのではないかと思います(国史跡 「中郷古墳群」1988年)。
◆造り出しつき円墳だろう。須恵器4片、TK208とされている。金銅装のマビサシ・アカベで有名。なんで埴輪がないんでしょうかね。頂部に礫がまとまってあり、埋葬施設の表示かと思ったが、どうなんでしょう。2基
あったという石室の図はどんなんなんでしょうか。
◆丘陵に上がっていく道路の途中に入口階段があるが、いまは背後からまわるのがよろし。隣の2号 墳は、埴輪をもつものだったらしいが、いわゆる「7日間発掘」で壊されたそうである。これらの出土品は、私立敦賀郷土博物館にある。

2018ゼミ旅行若狭丹後(1)敦賀へ

◆ゼミ旅行を前期終了後の7月末に入れてきたが、夏の発掘直前でしんどいので、3月に入れてみる ことにした。年明けの早い時点で予定は入れ、若狭・丹後方面とも決めていたが、こないだの追いコンまで実現するかどうかわからなかったが、みな前向きだったのでやると。
◆2泊2日とし、28日の19時に天王寺出発、敦賀に向かう。自分のほか院生・学生6人。3回生1人、2回生1人は、所要のため不参加。
◆途中、草津PAに食事に寄るが、人がいっぱいで、各自、おにぎりなどで済ませる。敦賀の宿に着き、歩いて近くの飲み屋(お好み焼き屋)に行く。22時オーダーストップ、23時までだったが22時直前に滑り込み、楽しくやりました。
◆翌日、朝8:00フロント。チェックアウトして、ふと、眼鏡がないことに気づき、部屋に戻るもなく、どこで落としたんだろうと思っていたら、フロントに届けられていた。助かった・・・。

敦賀

◆にいます。

金関恕先生

◆金関先生がお亡くなりになった。90歳という。昭和ヒトケタでも前半代。金関先生の授業、あまり出なかったが、ある時。これは前にも書いたと思います。「270年から280年の頃(正確ではありません)、箸墓古墳の墓坑を埋める最後の土がかぶせられた時、古墳時代の鐘が高らかに鳴ったのであります」、と。そんなフレーズを覚えています。
◆後藤守一の『漢式鏡』の資料が天理大学にあると聞き及び、拓本でしかわからない三角縁神獣鏡があって、小さな粗い印刷の挿図なので、元資料を見たいと、先生に手紙を書いたことがある。が、未整理であるらしく、先輩を通じて、見てもらうことはできないと返事をいただいた。これらは大学院生時代だと思う。
◆が、面識はなく、先生とお話ししたのは、もっとずっとあと。2008年弥生博問題の時。2008年5月17日のシンポジウム《21世紀の博物館と考古学~文化政策の始点から》、もひとつ池上曽根現地でのアピールのイベントもあったような、そして2009年1月25日の池上曽根史跡公園協会歴史フォーラムでご一緒した。何回かに分かれてしゃべり、最後、光谷さんの時に、講演後にまとめて討論があった。その控室でのこと。当時、庄内式がさかのぼる、という情勢に、いままで組み立てていたものを、どう組み直せばよいか、と考えていたのだろう。「庄内がさかのぼりそうなんですよね、困った」、金関先生「どう困るんですか」。これを鮮明に覚えている。
◆現在の資料で話を組み立てていく、それに固執してしまったらいけません。いまある資料により整序していく、そのなかにある確かなものに立脚して考えている、年代のように不確かなところもあれ、全体としての整合性を取る。ぜんぶが覆ることではない。考えていた年代観とやや異なることに戸惑うが、それにもとづき、ではどのように改めるところは改めて、事実に近づくか、そんな試行錯誤の時期でした。「なぜ困るんですか」ということにどう答えたかはわからない。まだまだ2世紀をちゃんと考えていなかったので、十分な答えはできず、戸惑いを表明しただけだったのだろう。
◆『考古学は謎解きだ』の本はとても面白かったです、先生。あんな文章を書きたい、と思いました。もちろん、あの語り口の魅力はみなさんご承知の通り。ユーモアにあふれた方でした。

2018年3月28日(水)

◆『市大日本史』の書評を今日やれば、おそらく8割方は書け、あとは勢いでなんとかなるところま でいけるだろう。が、しかし、今日は研究科の庶務引継ぎ資料の作成、大学史展示の空中写真の打ち出し、大歴の仕事、など、おそらくそんなんで終わっていくでしょう。
【追記】理・画像処理室に行き、地図・写真10点、A1プリントをしに行くが、担当係長がぜんぶやってくれる、とのこと。ありがたや。昔風の国の機関でいう技官の方。昨日は工作センターで、ヘリウム液化機の展示用設置台の完成したものを見せていただいた(写真)。こうしたみなさんに理とか工の学生らは助けられて実験装置を作り、またポスター発表用のプリントなどをしている。

何をやってたかというと

◆ヒストリアの在庫管理です。この整理も、いまの事務局時代の画期的な仕事のひとつです。誰に も評価されないとは思いますが・・・。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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