人を幸せにする人になろう

土持氏

◆このあたりの中世史にとって、縣土持氏と財部土持氏抜きには語れないようである(ウィキを見てください)。というわけで、宮崎駅前11時出発だと、このくらいしかまわれませんでした。また次は日向市あたりから南下しようか。
◆レンタカーの返却は少し遅れたが、無事戻ってきました。チューハイを調達しに行こう。

高鍋の資料館

◆時間もなくなってきて、日向市の古墳も調べていたのだが、それは次回として、高鍋町の資料館へ行く。2000年から2001年だったか、持田古墳群の委員を頼まれ、数度、高鍋には行った記憶がある。今回、資料館があったので、行ってみることにしたが、できたのはずいぶん古いようである。
◆なんとお城があるではないか。ぜんぜん知りませんでした。無知です。財部という地名を高鍋にしたのだそうです。近世は秋月氏3万石という。歴史総合資料館は、お城の手前のところにある。1986年の開館らしい。2階は民俗資料。1階は歴史展示だが、考古資料は限られている。鏡が4面あった。全国に持田古墳群の資料は散在しているんでしょうね。そういうのを戻せば、なかなかの古墳時代の展示が構成できるのですが。

延岡城・内藤記念博物館

◆スマホで、表題の博物館が出てきたが、カーナビにはない!。お城なんだろうと適当に入れて、向かっていると、ちょうど看板が出てきて、お城より手前だった。真新しい。2022年9月の開館だそうである。撮影禁止…。こっそり1枚だけ。
◆延岡城の下層で弥生後期から庄内くらいの土器が出ているらしい。パット見て、これ岡山か?、とか、阿波・讃岐あたりの脚付精製小壺か?、と思われるようなものもある。
◆古代・中世…。近世は領主がけっこう変わったようですね。で、18世紀に内藤氏が入り、幕末まで続き、明治に東京に行くも、戻ったらしい。画像の左端に写っているのは石棺。
◆近代。火薬製造工場があって、徹底的に空襲されたらしい。若山牧水は、南の日向市生まれで、延岡の学校で学んだらしい。

南方10号墳

◆向かいの10号墳は約80mとある。写真の道路わきのごみ置き場になっているところに車をとめればよい。10号墳へは歩いてください。10号墳に登って撮った写真もあるが、全体を示すには、向かいの1号墳から見た写真のほうがわかりやすいので、それを。
◆宮崎県の古墳は、ほとんど国史跡になっているというオソロシイ県なのである。で、大木を伐採しているところでした。写真でも、側面がよく見えますよね。大きいけれど、墳丘の傷みは大きい。が、こちらの方が、川を見下ろすいい場所にあり、1号墳より平野部に近い。なので1号墳より古いのでしょうか。けっこう前方部頂が長い。

南方古墳群

◆1988年にバイクで九州を一周した時、参考にしたのは保育社の森浩一監修の都道府県シリーズ。で、南方古墳群も調べていたと思う。とはいえ、菅原神社古墳のあと、南方古墳群に行くも、記憶が思い起こされることはなかった。来てないのかな。それに比べ、いまは情報がネットに上がっていて、それをカーナビに入れれば行けますね。ぜんぜん変わりました。また、フィルムカメラの時代は、ばんばん写真を撮れたわけではない。フィルム代、現像・焼き付けと、お金がかかる。持田や西都原の写真がわずかにある程度。
◆1号墳と10号墳の2つの前方後円墳を見に行く。このあたりのものは、鳥居龍三がかなり発掘しているらしい。2つの前方後円墳の間は、やや丘陵が低かったのでしょうか、道路が通されて、両者は分離してしまっている。まず1号墳は道路の南脇。70mだそうです。まあきれいな絵鏡形なんでしょう。横の2号墳は方墳で石室とあるが、よくわかりません。
◆延岡でも、こっちは西の端。で、こっちがオオヤマト段階のより古い2基なのかな、と。で、佐紀の段階に菅原神社古墳が、とみておきたい。

延岡・菅原神社古墳

◆延岡まで東九州道で北上し、菅原神社古墳に行く。入口に公民館があるのだが、今日は利用がないので駐車場に鎖が張ってあり止められないが、寄せて駐車する。ちょこっと写っていますね。
◆古墳は、まあ悲惨なことになっている。それは前から知っていたことだが、想像以上に墳丘が削り込まれている。そして参道が前方部を縦に抜いている。しかし周囲に堤状の、というか周溝の掘り込みの輪郭がめぐる。墳丘は約110mとある。80歩ですね。部分的に調査してるのでしょうか。
◆佐紀陵山型ではないかと勝手に推測したような気がする。だったら埴輪がありそうなものだが、まったく見当たらなかった。
◆傾斜量図を載せておきます。延岡でも北端部。

今井町について

◆ヤマダさんが、今井町の資料を送ってくださった。今井町の古文書には、森本さんが第一人者。森本さんの書いたガイドブックを読み、理解した今井町の歴史をまとめている。まだまだ頭に入らないが。
◆で、天文期の浄欽、その後裔と思われる今井兵部と、天正11年に登場する今井兵部、これはつながらないんだそうです。これは定説になっているよう(古い理解では一度今井を離れて戻ってきたと考えられてきた)。あとの今井兵部は、近江出身の河瀬氏で、それが名跡を継いだのだろう、とのこと。
◆で、大阪の住吉郡五箇庄の話。文禄2年だかに、前年に今井宗久が死に、子の宗薫が継ぐが1000石に減らされた。が、翌年の文禄3年に、奈良・今井の今井兵部に代官職を与えられたという。その文書が称念寺にはある。【着陸するので、またあとで】
◆だが、慶長3年の関が原で今井宗薫は東軍に協力し、300石加増されて1300石の知行地を与えられる。いまの堺市北花田と大豆塚は、幕末まで今井領なのです。これ、こないだの杉本村山野家文書でも確かめられた。今井宗久以来の五箇庄の領地は、こうして幕末まで、旗本となった宗久の家筋の領地だった。堺の今井宗久は信長に優遇され、秀吉になると奈良・今井の今井兵部、で再び徳川の時代になると今井宗薫が取り戻す、というのが大筋の流れのようである。
◆で、前から常々わからないのは、今井宗久が奈良・今井町と関係があるのかないのか、ということ。近世の家譜によると、今井宗久は近江国高島郡の出で、なんたらの3男ということになっているらしい。で、本願寺衆徒であったようで、奈良・今井にやってきて、そこから堺の納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ、といったことが推測されている。先の住吉郡五箇庄の領地や代官職のことを考慮すると、今井宗久は今井町とやはり無関係でないように思うが…。今井宗久と今井町を結びつける根拠を調べないといけません。
【画像追加】依網(羅)郷土史からコピーしていたものがあったのを思い出した。

2024年3月7日 宮崎へ

◆いま伊丹発宮崎行き便のなかです(10:15頃)。眼下に見えるのは高知県かな。しばらくすると高知県の南西角まで来た(画像)。この間、岩松は見えないものかと眺めていた。
◆西都原の委員会に出席するため。毎年、現地を見て会議をやり、1日仕事なので、前泊。このところは、1日目は丸1日近く職場で仕事をして、夕方便で宮崎に入っていた。
◆今回、せっかくなので早い便にしてもらった。車で古墳を見て回ろうと思う。1988年に主だったものをまわり、基本はそれをなぞうろうと思っていたが、2016年だったかに西都原博物館で講演したときに、延岡市の菅原神社古墳を知ったのを思い出した。延岡まで足をのばそうとと考えている。
【追記】この記事、飛行機の中から衛星経由でブログをアップした第1号ですね。

2024年3月4・5日 杉本村山野家文書整理

◆今回は、日本史研究室の行事でなく、有志による。あわせてガイドプラス講座の「古文書読解」の履修者(履修済み+今年度の履修者)が10人も参加してくれている。この科目、絶対に需要はあると科目の新設を主導したので、こうして実践の場に参加している履修生のみなさんの姿を見ると、とてもうれしい。
◆ガイドプラス講座履修者の会も、次は5月の日程が決まり、軌道に乗ろうとしている。

越前和紙4

◆紙漉きのおねえさん曰く、飾り物などもいいのだが、書く用紙として和紙をもっと使ってほしい、と。和紙のダイアリーはないのかと質問。作ったと出してきたのは予定帳。いろいろアイデアを出す商品開発者が入れば、きっと製品化できるものもあるのではないか。確かに、書くのに使ってもらうのが本筋。
◆それと工芸館の2回の展示を見る。おそらく貸しギャラリー。こういうのもいいと思う。古民家の空き家を、いろんな作品を作っているプロやセミプロ、アマチュアが、展示会をやったり個展を開いたり、そういうのをどんどんプロデュースするような人が必要ですね。写真、暗いですが・・・。
◆最後、パピルス館で、和紙のメモパッドと名刺を購入。このところ、わたしの名刺は、津山の和紙(こないだすべてハケル)、安来の和紙です。
◆ここで帰途に就く。次は美濃和紙。それと東京王子製紙の洋紙の博物館に行きたい。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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