人を幸せにする人になろう

久津川整理日誌4月18日

◆自分・道上・伊藤 10:00~12:30
(1)KR15の土器片座標取り上げの数値入力のチェック。ひとつだけ訂正あり。
(2)KR14台帳の改訂、未処理のものを3つ、続きの通し番号を新たに振る(213~215)。なお1箱分と、1ラベルの処理が必要。
(3)KR15埴輪の160413に洗ったものの収納。
(4)KR14について、2箱について注記。「KR14 165」と「KR14 83」。円筒埴輪/形象埴輪/土器の分離。形象埴輪がほぼ90%。円筒埴輪の線刻や口縁については黄色シールを貼る。形象埴輪について、一定の大きさ以上のもの、小片でも重要なもの(柵トゲトゲは今日はやらなかったが、次回やるべし)などを、PUしてモノサシを置いて写真を撮り、赤シールに番号を付し台帳を作る。165は形象1~9、83は形象10~18。
◆作業日をもう少し確保しないと進まない。
◆研究会後 自分・道上・阿部・伊藤 16:30~18:00
(5)「KR14 8」について注記ほか、同上終了。形象19~29。
(6)寄贈本整理。

久津川整理日誌4月13日

◆持ち帰ったKR15の未洗い埴輪を、考古学実習で洗う。あまり進まなかったが。

久津川整理日誌4月11日

◆持ち帰ったKR14を台帳と突き合わせる。突合の結果、99%までは問題はなかった。洗ったときにラベルが読めなかったもの、洗うときに混乱をきたしてしまったもの、台帳未登録の3袋など、処理しないといけないものを絞り込む(→台帳改訂)。台帳上、日付が未記入のもののなかに、2月23日とラベルにはあるものがあり、同じまとまりの一連の地区ごとの取り上げと思われるものも、同日の可能性があると思われる(→調査日誌の確認)。

三木正法寺古墳群

◆加古川を下っていくが、途中、正法寺古墳群とあり、立ち寄る。説明看板から1999年に竣 工したらしい。開発にともなうものだろうが、10基ばかりを掘り、2 基は移築だったか、保存地区のところに組み上げ、計4つの石室を見ることができた。片袖、両袖、無袖2基と、基本的な変遷を見ることができる。

小野市好古館

◆整備された広渡廃寺にも足をのばしたかったが、通過してしまい、王塚。ここまで来た ら、好古館も行っとこか、と。鴨池の旧石器、垂井遺跡など弥生、焼山、広渡や河合廃寺など。河合廃寺はいい寺です。播磨の山田寺式にはけっこう詳しかったような気がするが、もはや忘却の彼方ですね。浄土寺があり、近世小野藩(一柳)とか、昔はすっとばしていたんだろうが、ひととおり見る。やはりこういう資料館があるという意味は大きいですね。加西市は、埋文センターで展示してますと書いてはあるが、土日は閉まっている。ほかに加西、すなわち北条の歴史を概観できる展示施設はない。確かに加古川両岸とも小野市だし、加古川沿いだし、陣屋のある近世以来の中流域の中心は小野であって、北条は宿場町とはいえ、人口規模が違うのだろう。
◆で、2階の企画展に実は感心した。小野藩の幕末維新期を取り扱ったものである。一柳の2男が「あさがきた」の娘と結婚し、3女が建築家ヴォーリスと結婚したのだそうで、そういう連ドラがらみの紹介もあるのだが、中身はいたってまっとうな幕末維新の話。摂海防備で、小野藩がどこを持ち場に役にあたったのか、というこことから、版籍奉還、廃藩置県や地租改正やら、地元に残る資料で、ちゃんと幕末維新期の社会変化を見せている。実にいい展示だ、と思った。

玉丘と小野王塚

◆まず玉丘。公園になってからは2回目。先年、長持形石棺を発掘していることは聞いてい たが、土嚢で養生され底石は見えませんでした。側石の部材も調査後、屋内に引き上げたようです。むかし、高校生の頃、石棺材を略測したことを思い出す。さがせばその時の、5ミリメッシュノートに描いた図が出てくるかもしれない。津堂150歩のちょうど半分の75歩です。群馬では太田天神山古墳の空中レーザー測量をやる予定と、先年聞いたが、早く新しい図を拝みたいものです。津堂かどうか・・・。
◆そのあと小野王塚古墳に行く。これきれいな円墳なんですかね、造り出しはないんですかね。むかし文章を書いた記憶があるが、いくらか既に削り込まれていたようにも思う。墳丘調査の図は見たことがないので、史跡整備する時も、そういうのをあんまりやらず、きれい な円墳に造り上げたのかな。土壌がかなり露出していたが、これ整備の盛土なんでしょうか。

4月16日 播磨見学会

◆朝8時半、天王寺集合。自分をあわせて6人で出撃。中国縦貫で加西にむかう。途中、渋滞 でのろのろしていると、背後からピーポーピーポーと。しゃーないので車線を空け、何があったんだろうかと思っていると、そういうのがいくつも重なりただごとでないと思ったが、これ熊本へ向かう支援の派遣車であった。大阪市とか堺市とか、そのうち自衛隊の車両も。
◆行者塚をはじめ、播磨の古墳やら展示施設の見学を組み込んでいたが、玉丘まで足をのばすかどうかは思案していたが、高速道路の渋滞情報を見て、3号神戸線をやめて中国道とし、玉丘から加古川を下ることにする。

市大日本史19

◆ヒストリアの小さな原稿2本があったため、市大日本史の合同調査報告が入稿できていなかった。が、それをなんとかやっつけ、金曜日、朝8:50から15:30まで会議のあと、しゃかりきでやって22時に入稿する。ほっ。
◆これで考古学研究会の大会に出かけることができる。市大日本史は、ここから2週間が勝負です。

学期が始まるとなにかとあわただしく

◆先週金曜日に、博物館資料保存論の1回目(担当は頭だけ)、本日火曜日は、考古学通論、そして5限の博物館実習Ⅰの初回でした。なんと35人。多い!。例年、20名強くらいの数で適度なのだが、35名はちとしんどい。今日は教室だが、次回以降は実習室にしようと思っていたが、35名は入れないな~、と。
◆明日は3つ(うちひとつは博物館経営論で、これも頭だけ)。安定飛行になるまで、学期始めは、なにかとあわただしいですね。

陵墓の取り扱い2016年3月28日 毎日新聞配信

◆「歴代の天皇や皇族の陵墓の保全管理に伴う調査について宮内庁は28日、単独で実施してきた前例を転換し、新年度から陵墓のある自治体の教育委員会や考古学研究者に協力を要請する方針を示した。調査の成果は地元教委と共同で発表し、幅広く国民に伝える。
 同庁は、歴代の天皇や皇后、皇太后などを埋葬した場所を「陵」、それ以外の皇族は「墓」として管理し、総数は898基に上る。研究者も含め一般の人が陵墓の前で参拝することは可能だが、立ち入りはこれまで原則認めていなかった。同庁書陵部は陵墓である墳丘の崩壊などを防ぐ目的で調査を行い、例外的に研究者を現場に入れて見せることはあったが、調査への参加は認めていなかった。
 今回の方針転換は、陵墓周辺の古墳などで調査実績のある地元教委や研究者の知見を得て調査レベルを向上させ、保全管理に生かすのが狙い。調査成果はこれ まで同庁の報告書に掲載されてきたが、幅広く国民の目に留まることはなかった。今後は地元教委と共同で発表し、埴輪などの出土品も一般公開する方針。」
◆いや~前進しますね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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