人を幸せにする人になろう

おふたかた

◆今回、中国から朱岩石先生と、韓国から梁正錫先生を招いた。朱先生の名前はどこかで知ってい るのだが、覚えておらず・・・。来日された18日の木曜日は大阪歴博の方がたに対応いただき、19日の金曜日はうちの大学側で対応することになっていた。朝、ゲストハウスに行くと、朱先生に「久しぶりです」と声をかけていただき、1993年に奈良の研究所で研修された時に、平城の考古第3が受け入れだったので、その時に顔をあわせていたのでした。すいません・・・。ひっかきまわすと、当時の名刺がでてくるかもしれません。考古研究所では、秦漢から明清までという途方もなく守備範囲の広い第3研究室(歴史時代)の主任になっておられる。
◆韓国の水原大学校の梁さんもまた、カシコーケンで4年いて、浄御原宮を掘っていたという。今回は新羅王京の話をしていただいた。水原城、いわゆる華城、むかし歩き回ったことがあるが、その後、イ・サンを見たが、この正祖が作った朝鮮時代の王城である。チェジウの話もする。ちなみに中国や韓国にパチンコはない。
◆で19日は、午前、堺市博物館にお世話いただき案内いただき、大学に戻り、副学長に挨拶をして、午後は打ち合わせと会場の下見(田中記念館ホール)、そのあと昭和町で懇親会。写真はその時のものです。

2月22日の月曜日

◆卒論試問と院入試の週を越え、20日の改新シンポも終わり、中国・韓国から招聘した研究者の方の21日(日)の案内も終え、ぐったりとしながらも、ここまでたどりついた。また終末に向けての準備と、久津川の測量調査ほかにむけての準備が始まる。大学入試があるが、今年は後期担当で25日は免除になった。
◆今日はしかし、病院に行き、それと大歴の委員会があって、これはこれでうまく立ち回らないといけない。が、ブログを書かないと一段落した気になれないもので。

網野銚子山の調査

◆はっきりしなかった前方部前端を確かめようと、コーナー部を中心に4本のトレンチが。前端ラインがほぼつかめてきた。周壕の外ラインはもっと明瞭。問題は前方部コーナーであるが、おそらくだいぶ削り込まれているんだろう。転落石は多くあるが、裾部がちゃんと残っていて、それを覆っている状況にはない。
◆来年度、もう1年掘って、基本設計に入る。墳丘部は必要に応じてまたやるとして(あまり掘る必要がない)、基本設計にむけて墳丘と壕の平面形がなお不明瞭なところを、来年度、いますこし掘るくらいでよい。島状遺構がありうるので、その有無は整備にもかかわるため、来年度、追及してほしい。新たな測量図も作成されつつある。
◆会議終了後、ホテルに送ってもらい、セットの風呂に入り、17:20で大阪に戻る。
◆さて今日は211集会で、2年ぶりに行くつもりだったが、仕事が山積、さてどうするか。

2月10日、網野銚子山委員会

◆10月9日に、確認調査中に第1回の会議が開催されたが、骨折直後で入院中につき行けず。今回は、発 掘調査の最終報告と次年度にむけての会議。前からカミさんがついてきて くれるということになっており、鉄道で行くか車で行くか、ということだったが、行き帰り読まないといけないものがあるので、鉄道にする。教育委員会は京丹後市でも旧大宮町にある。そこに昼ご飯+温泉のセットをやっているホテルがあり、カミさんは会議中、風呂。前日、卒論提出〆切で一段落したようである。
◆福知山→宮津→橋立まで行き、そこから丹後鉄道。これが赤松1号というやつ。なんじゃこれ?。あとで調べると1日2本、というか上り下り1本ずつで、ちょうどそれになったのである。特別内装の観光列車で、2両編成、普通(自由席)1両、特別車両の指定席車両1両。あいていたので、指定料金を払い、特別車両に乗り込む。おもわず地ビールを・・・、すいません。豊岡まで乗っていきたいが、 橋立、岩滝口、与謝野、そして丹後大宮。わずかでしたが楽しめました。
◆予約を入れていたので、ホテルの送迎バスが待っていてくれ、到着。昼を食べる。食後、シンポ資料のことで、印刷屋などとメール。そう携帯を落としたらしく・・・。そこから大宮庁舎まで25分かかって歩いてゆく。途中、10分ほど遅刻するかと思ったが、なんとか13:30にすべりこむ。

改新シンポ資料集を入稿した

◆昨日丸1日やってカタチとなり、手直しをして、今日、入稿した。6頁分、まだねばっている人が いて、それは今日の夜。いや~、1月に打ち合わせを入れておいてよかった。この 時に、届いている分を組んでフォーマットが作り上げられていたので、残り原稿の作業と、全体の調整で済んだ。96頁。
◆あとは当日がうまくいくことを願うのみ。パワポとか、登壇者の予定を確認し、詰めないといけない。自分は15分なので、ほとんどしゃべれないし、前にやった薄葬令と条里の話を確認するのと、全体の流れ、そして後退論について、もうちょっと考えること。虚構論はもはやないが、めざしたものが挫折し、後退し、みたいな話にモノ申したいと思うわけですが・・・。新ネタの図(左)もちょこっと出しましたが、たぶん議論にはならんだろう。
◆これが終われば、次は本にする話である。
◆さて、もひとつの表紙の画像、たかだか60キロバイトだが、アップされない!!!。そうか、ついに無料の容量を超えたか、と。年額2400円の有料プランに切り替えました。当面、なんぼでも画像いけそうです。引き続き、ご愛読ください。
◆明日は丹後です

2月7日の日曜日

◆昨日、改新シンポの図をあらあら作り上げた。まずはその手直し。2頁分だが、もう文字はやめ て、難波宮・京の割り付け図に変更しようかな。
◆ひとまず右頁の1枚ものができました。凝りに凝りました。

岩屋山でけた

◆石室陰影図が、ちょっと切り方に問題があり、造り直しをお願いした。これが来たら差し替え る。いちおう全部でけた。墳丘の八角復元もやってみたが、無理と判断し抜く。ただし、下の段は方形として薄く図示する。

N先生

◆O大学のN先生は、大学1年次に向日市の物集女車塚で一緒に発掘をして以来、いろんな関わりが続く。個人的な相談に行ったこともある。が、やはり学問的な目標として、常に自分の基軸になってきたように思う。先生の書いたものは、なにかと繰り返し読んだりする。専門をむろんちゃんともち、新たな方法や手法を求めることにも意欲的、方法論を大事にする、世界的な学問的な潮流も把握する、そしてブリテンやアイルランドのことを学び、日本の古墳時代の相対化や、地域地域で自然的条件と歴史的な過程を重ね、独自の文化ができていく、そのメカニズムの解明や、それぞれの独自性こそが変化に適応する力となることなど、その問題関心のあり方に、いつも刺激を受ける。
◆いま書いていて、明治の近代化は、むろん負の面はあるが、江戸期の社会のあり方、幕府権力は大きいが、各地は地方分権で、藩のことは藩の中でということで、それぞれが教育に取り組んだりした、その独自的なあり方が、社会変革への適応の基礎になったんかいな~、とも思ったりする。
◆逆に、明治に国家権力が強まり、全国的な教育制度が整い、それは近代化に大きな役割を果たすものの、それは戦争に向かうなかで皇民として死ねという教育のもと、多くがそれにさからうことなく出征し、1945年をむかえることになったともいえる。博物館実習展でやった、大阪商科大学の反戦レジスタンスが示すように、戦前の高等教育に学んだ者は、多くがなぜ戦争で人を殺し合わなければならないのか疑問をもっていた。
◆アイルランドの本の最後に書いてあったことを思い出す。集団化しやすいのは日本のような河川沿いに社会関係が形成される社会、一方、網状のブリテンなどでは広域の権力や顕在的な集団関係は見えない。しかし、日常は独自的でも、ある局面では力をあわす、そういう潜在的なパワーをもつ、ということだったか。そう、陸軍参謀本部の一部エリートが机上で作戦を立て、兵隊をコマのように動かし、多くが無駄に死んでいった日本軍と、連合国軍の違いにも対応するのかなと。広域の畑地+放牧地をもつ社会的に独立性の高い社会と、集団で稲作に取り組む日本の稲作が、個人や家族や地域のコミュニティーを尊重する社会と、出る杭は打たれる社会の差になっている、との指摘も面白い。
◆近代日本の中央集権的なあり方は、戦後の復興においてもある意味で持続し、それが高度経済成長をもたらし、一億総中流という社会を生んだが、これからは可能な限り分権化することだろう。連邦制だ。とはいえ、そういう社会関係が育つにも時間がかかるだろう。明治から150年、江戸時代のあり方は解体され、すっかり、国―都道府県―市町村という枠組みが強固になっちまった。でもまあ、教育でいえば、国は国立大学だけを所管し、あとはすべて地方に移管すればいい。教科書検定も大学の設置審議もせんでよい。
◆さて、仕事、仕事

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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